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[1/16,25]台湾最高峰・玉山(新高山)で積雪

2017-01-30
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新高山

1月16日、台湾で積雪があった。
那覇市より低緯度に位置する台湾で積雪が有ったことを話すと、本当?という顔をする日本人は多い。

台湾は国土の7割が丘陵・山岳地帯で、特に島を南北に貫く中央山系には、3千米級峰が30座ある。そしてこの山嶺では、厳冬期には降雪も珍しくない。アフリカ大陸の赤道直下のキリマンジャロ(5,895m)には氷河が存在するが、要は標高が高いのである。

その最高峰である玉山(日本名 新高山)は雪を頂いた山嶺が玉(ユイ)のごとく美しいことから、日本時代終焉後、新高山から玉山へと改名されたという。

強い寒気に見舞われた16日の台湾は、各地で冷え込み、最高峰の玉山(3,952m)では午前4時20分から15分間雪が降り、1cmの積雪があったと報道がされている。それでも昨年より13日遅い降雪であったそうである。

二度目の降雪は、やはり玉山で1月25日午前5時40分から8時5分まで降雪が観測され、1㎝の積雪があり、午前6時の玉山観測所では-4.7℃を観測している。なお本日(1/30)午前5時の玉山山頂の気温は-2.8℃、同時刻の富士山山頂の気温は-7.8℃であった。

以前、1月末の台北でダウンジャケット姿の若者達のなかで、私ひとりが丁シャツ姿であったことがあった。台湾は亜熱帯性気候の国なので、一般に暖房がない。だからだろうか、台湾人の「雪好き」や、寒さへの弱さをみると、どこか微笑ましい。

玉山中央氣象局HP:http://www.cwb.gov.tw/V7/observe/real/46755.htm

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新高山について
http://ilha-formosa.org/?p=27830


 

新高山について

2013-08-03
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16世紀頃に於ける日本人の台湾に対する呼称は高砂国、もしくは高山国であった。

その名の通り、九州の面積よりやや小さい台湾には南北を貫く中央山脈に三千米超の峰々が聳えており、標高3,952m・新高山(玉山)はその最高峰となる。

新高山は富士山(3,776m)より標高が176mほど高く、旅行会社等では新高山を以って北東アジア最高峰と説明することがある。なお新高山は日本統治時代の岳名である。それ以前、この雄峰は漢名で玉山(ユイシャン)と呼ばれており、これは冠雪の姿が玉(ユイ)の様に美しかったことに由来するという。

また新高山を自らの発祥の地とする伝承をもつ高地先住民ツォウ族の言語ではpattonkanと呼ばれていた。本来の呼び名であろうpattonkanは現在は新高山(玉山)北東に座す八通關山(3,245m)としてその名は残されている。一方この山は西欧人からは「モリソン山(摩里遜山)」と呼ばれていた。これは「アメリカのアレクサンダー号商船船長W.モリソンが台湾の処女航海の航海日誌に玉山の独特な山容が記載されていることを発見し、駐台南英国領事Robert Swinhoeはこの船の名前からモリソン山と名付けました。以後西洋人の間ではその名前で呼ばれてい」たという事である(玉山国家公園HPより)。

この新高山の初登記録者は誰であろうか。

現在では明治33年(1900)4月11日に登頂した人類学者の鳥居龍蔵、森丑之助(丙午)によるものというのが定説となっている。

新高山に積雪のように観えるのは「粘板岩に映える太陽光線の反射光」という意見があり、当時の日本人の間では熱帯圏である台湾には雪がないと考えられていた。その一方で西欧人を中心に山頂付近には積雪有りという説も根強くあり、鳥居龍蔵は新高山における積雪の有無を確認すべく嘉義から中央山脈を縦走、その途中玉山前峰の溪谷に残雪を発見、この雪を溶かして粟を炊き飲料水としている。

その翌日に鳥居らは新高山山頂に立っている。この時鳥居30歳、森23歳。さして峻険な山ではない。若い彼等には余裕の登頂であっただろうと思う。

ただ積雪には案外苦労した様で鳥居は後にこう述懐している「新高山には雪が無い、雪のあるようなのはいわば太陽の光線などが石に当たって白く見えるので、雪があるというのは妄説であるという人が多く見受ける。しかしながら私が参った時分には確かに雪があった。それで一年中ことごとく雪があるとは申し上げませぬ。しかしながら確かにある時までは雪があるということは明らかであろうと思われる。それで登るに困難して、生蕃が腰に帯びて居る蕃刀を以て、あるいは鉄砲の台を以て雪道をつけて上ったくらいであります」『台湾蕃地探検談』。これにより110年前のこの時期、4月上旬にそれなりの残雪が有ったことが判る。

新高山初登頂者の栄誉を授かった鳥居龍蔵であるがこれには異論がある。

鳥居の初登頂より四年前となる明治29年(1896)9月28日、長野義虎陸軍步兵中尉が原住民調査の目的で新高山主峰を踏み、翌々月には本多静六林学博士と林圮埔撫墾署長 齊藤音作という人物が森林測量目的で登頂を成し遂げたといわれる。また明治31年(1898)12月にはステーぺル(Stäpel’s)というドイツ人が外国人として初めて新高山登頂に成功したとされているのだが、これらの初登記録は鳥居龍蔵により新高山東峰(3,869m)であったという反論にあい、結果的にそれが認められ「鳥居龍蔵初登頂」が世間での認識となった。確かに新高山には一見すると主峰に思える副峰(前峰)が幾つかある。近代的測量に基づいた地形図作成以前の為に登頂者によってはそれらを主峰(3,952m地点)と錯誤した可能性はありえる。

この明治29年には陸軍参謀本部陸地測量部により新高山(この時点では「モリソン山」「玉山」である)の測量が始まっており、その結果標高に於いて富士山より高いことが判明。当時の測量結果は3,950mであり、現在との誤差は2m。明治30年(1897)6月末当地の地図印刷に当たり、明治天皇により「新高山」と命名される事になった。

明治39年(1906)10月20日、この時代の日本人の常として前述の森丑之助と川上瀧彌は新高山山頂に小祠を安置、台湾神社の神札をここに奉納している。この祠は大正14年(1925)には新高社となり北白川宮能久親王、大国魂命、大己貴命、少彦名命、大山祗神が祭神とされている。

新高山のその後である。

日本敗戦と共に台湾に進駐した中国国民党軍のもと新高社は当然のごとく撤去され、昭和22年(1947)中華民国台湾省政府により新高山は玉山の名に再び改名、半世紀間台湾に座した日本最高峰 新高山は地図上から消滅した。

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