知行合一

投稿日:2011-10-02 - 投稿者(文責):mumeijin

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大塩平八郎 寛政五(1793)年-天保八(1837)年 享年44歳

 

 大塩平八郎正高は一時期「胃弱」と診断されており、それを示す史料も残っている。

 大坂東町奉行与力の大塩にとって同輩与力 弓削新右衛門とその部下達が行っている強盗・恐喝・殺人・不正捜査といった悪事を看過する事が出来なかった。幕藩体制での「与力」とはその土地に続く世襲役人であり(エリート転勤族ともいうべき)町奉行の下で行政・裁判・治安維持等といった実務を担当していた。土着型の役職の性格上、自然と町民との癒着も多く商人や遊郭主から収賄を要求する与力も多かったという。その様な風潮の中にあっても大塩は付け届けの類を一切受け取る事がなく、大坂町民の間では当時から大塩の清廉潔白さ、激烈ともいえる正義感は広く知られていたという。高潔で模範的でなおかつ有能な官吏であった。

その大塩が「性質残忍ト雖モ又諂諛ヲ以テ時ノ奉行内藤隼人正(=内藤矩佳)ノ寵眷ヲ得タ」弓削新右衛門の組織犯罪を検挙する事が出来なかったのは、弓削が西町奉行所に所属し西町奉行 内藤矩佳(ナイトウ ノリヨシ)の庇護下にあったからである。なお内藤隼人正矩佳の同時期の東町奉行は高井山城守実徳で大塩を重用して市中の犯罪取締強化・高利貸しの禁止・窮民調査といった善政に尽くした名奉行といわれている。

文政12(1829)年、大塩は内藤隼人正矩佳が西町奉行職を退任し上司の高井山城守が一時的に西町奉行所をも指揮下においたタイミングを見計らい弓削新右衛門とその配下の者達を一斉摘発、同年弓削は自害して果てた。これが大塩三大功績のひとつ奸吏糾弾事件とよばれるものである。

 大塩はその後も腐敗した仏教界に対して破戒僧の検挙を行うなどしてその評判は最高潮となったが文政13年(1830)7月、大塩の行動を支援していた高井山城守が町奉行を辞任するのに合わせて辞任。与力職は養子の格之助が継いだ。辞職の真の契機としては、幕府閣僚も関わっていた不正無尽(無尽は頼母子講とも呼称された民間の共済の様なもの)事件での関係者への処分の甘さ、腐敗した町奉行所への反発があったとされる。大塩は自宅に洗心堂とよばれる私塾を設けここで東町奉行所時代の元同輩や農民を集めて知行合一で知られる陽明学を教授し始めている。

 その三年後、全国的な天候不順が原因で米の収穫高は半減、多数の餓死者を出す天保の大飢饉が発生し世情は荒廃していた。大塩は天保7年(1836)、高井山城守の後任として大坂東町奉行に就任した跡部山城守良弼に対し飢饉に対する献策を行うが受け入れられる事はなかった。なおこの当時大坂城の堀端には困窮者の投身自殺を防止する立札が有ったという。


【蹶起】
天保8年(1837)2月19日朝、川崎東照宮(現在の大阪市立滝川小学校:大阪造幣局の真西)を町奉行所を襲撃するために出発した大塩平八郎とその門弟、与同する者達は総勢四十名程であったらしい。与力町・同心町に火を放ちながら町奉行所へ向け進軍した大塩勢は、幕府によって既に破壊されていた天神橋を迂回し難波橋を渡る頃には3~400名となっていた。その後今橋・高麗橋を東進し平野橋東詰で幕府軍(二千名)との銃撃戦となった時には100名余りとなり、淡路町付近で最後の戦闘が行われた後大塩勢は総崩れとなり決起は僅か半日で失敗に終わった。

  

↑ 『出塩汐引汐奸賊聞集記』 大坂町奉行所を目指し市中を疾走する大塩勢。大筒三門が確認出来るが、実際には二門であったとも。「救民」の幟と共に、「天照皇太神宮」「湯武両聖王」「八幡大菩薩」「東照大権現」等と書かれた二旒の旗が掲げられていた。

 辛うじて戦場を離脱した大塩も決起の40日後に潜伏先の美吉屋五郎兵衛宅を幕府に急襲され養子の格之助と共に自害して果てた。現在の大阪市西区靱本町1丁目18番21号~22号 が美吉屋五郎兵衛宅に該当するそうです。
南側の本町通(国道172号)に面した天理教飾大分教会前には大塩事件研究会が建立した『大塩平八郎終焉の地』の碑がある。以下はその碑文である。

 大塩平八郎中斎(一七九三-一八三七)は、江戸時代後期大坂町奉行所の与力で、陽明学者としても知られ、世を治める者の政治姿勢を問い、民衆の師父と慕われた。天保八年(一八五七)二月一九日飢饉にあえぐ無告の民を救い、政治腐敗の根源を断とうとして、門人の武士・農民等を率いて決起した。
 乱後大塩平八郎は・格之助父子は、この地に隣接した靱油掛町の美吉屋五郎兵衛宅に潜伏したが、同年3月27日幕吏の包囲のうちに自焼して果てた。民衆に呼びかけた檄文は、密かに書き写され、全国にその挙を伝えた。大塩の行動は新しい時代の訪れを告げるものであり、その名は今もなお大阪市民に語り継がれている。
 決起百六十年に当たり、全国の篤志を仰いでここに建碑する。

 一九九七年九月  大塩事件研究会

大塩平八郎の死後も次の様な大きな一揆が発生している。大塩死してなおその精神は生き続けたと言うべきだろうか。そのうち越後柏崎一揆では「奉天命誅国賊」「集忠臣誅国賊」といった幟が掲げられている。元幕臣による江戸幕府体制に対する挑戦はこの後幕末の志士にも影響を与える。

天保8(1837)年
4月 備後三原、「大塩平八郎門下・門弟」を称する八百人の一揆
6月 越後柏崎、「大塩門弟」生田萬(国学者・平田篤胤高弟)の乱
7月 摂津能勢、「徳政大塩味方」「大塩残党」を名乗る百姓一揆

幕末の元治元(1864)年5月20日、靱油掛町で大塩平八郎父子を包囲したとされる大坂西町奉行所与力 内山彦次郎が天神橋で暗殺されており、犯人は新撰組という説が有る。その4年後、時代は明治を迎えた。大塩平八郎の献策を受け付けなかった跡部良弼(この人物は天保の改革で知られる水野忠邦の実弟)はその後も幕府の要職を歴任して江戸幕府崩壊後の明治元年(1869)12月まで生存している。

大塩平八郎というひとりの挫折した行動家の人生はそれ程過去のものではないのである。


【大塩の乱】
1837年(天保8)2月19日に、元大坂東町奉行所与力で陽明学者の大塩平八郎(中斎)が、門弟の与力・同心や近隣の豪農を中心に幕政の刷新を期して大坂で起こした事件。前年12月頃から蜂起の決意を固めてひそかに檄文を印刷し、翌年2月6日から3日間蔵書を売却して得た資金で貧民一万軒に金一朱ずつを施行したが、その額は620両余に及んだ。2月19日には、恒例によって新任の西町奉行 堀利堅が先任の東町奉行 跡部良弼の案内で市中を巡回し、午後4時頃天満四軒屋敷にあった大塩邸(洗心洞塾)向いの朝岡助之丞宅に着く予定であり、両奉行をここに襲撃して挙兵するはずであった。しかし17日夜に門人の同心が密告し、19日早暁さらに2人が堀の役宅に急を告げた。当日奉行所に宿直している門人のうち1人は斬られ、もう1人はかろうじて脱出して天満に急報した。
檄文には、「天より下され候村々小前の者に至る迄へ」と上書きされ、裏には伊勢神宮の御祓がはりつけられ、2000字を超える畢生の文章は格調高く蜂起の名分を説いている。すなわち、飢饉にあえぐ難民をよそに江戸廻米を行い、不正を犯す奉行ら奸吏と暴利をむさぼる市中の大商人=奸商を批判して、「万物一体の仁」を忘れたものを誅伐することを、摂津・河内・和泉・播磨の貧民層に訴えていた。予定をくりあげて決起した大塩勢は、「救民」の旗をひるがえして天満の東半分を一巡し、難波橋から船場に入った。一行は三陣に構え、与力・同心ら武士20人と、摂津東成や河内茨田群・交野群の村々など、おもに淀川左岸下流の農民を組織した般若寺村橋元忠兵衛、守口町白井孝右衛門、門真三番村茨田群士ら豪農を軸に、一部被差別部落民の参加も得て、その数300~400人に及んだ。今橋筋の鴻池屋善右衛門・天王寺屋五兵衛・平野屋五兵衛、高麗橋筋の三井呉服店・岩城升屋、内平野町の米屋など大特権商人を襲い、市中の五分の一を焼いた。領主側は大坂城玉造口・京橋口の両定番や加番大名が近隣諸藩の支援を得て応戦した。両奉行がともに落馬して市民の失笑をかう場面もあったが、午後4時ごろ淡路町堺筋の激戦で大塩勢は崩れ敗走し、中心人物は自害したり逮捕されたりした。平八郎とその養子の格之助は、2月24日夜から靱油掛町の美吉屋五郎兵衛方に潜伏していたが、3月27日に所在をつきとめられ、大坂城代土井利位の手勢や与力内山彦次郎らに囲まれ、放火して自害した。
関係者の処罰は、磔・獄門・死罪に処された40人をはじめ総数750人に及んだ。【執筆者 斎藤 一氏】

『日本史大事典 第一巻』平凡社 平成6年

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大阪市西区靱本町1丁目18番12号 天理教飾大分教会前


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