Archive for the ‘国史探訪’ Category

(3/3)天皇陵参拝記録(61~122代)[最終更新 2023/2/13]

2022-11-12
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第六十三代 冷泉天皇陵

第六十八代 後一條天皇

第七十九代 六條天皇陵、第八十代 高倉天皇陵

 


深草北陵(深草十二帝陵)

第89代 後深草天皇
第92代 伏見天皇
第93代 後伏見天皇
後光厳天皇(持明院統/北朝)
後円融天皇(持明院統/北朝)
第100代 後小松天皇
第101代 称光天皇
第103代 後土御門天皇
第104代 後柏原天皇
第105第 後奈良天皇
第106代 正親町天皇
第107第 後陽成天皇

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第九十四代 後二條天皇陵

第九十六代(南朝初代) 後醍醐天皇陵

第九十七代(南朝二代) 後村上天皇陵


北朝(持明院統)第二代 光明天皇、第三代 崇光天皇陵


第百二十二代 明治天皇陵

 


(2/3)天皇陵参拝記録(31~60代)[最終更新 2022/11/12]

2022-11-04
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第三十一代 用明天皇陵

第三十二代 崇峻天皇陵

第三十三代 推古天皇陵

第三十四代 舒明天皇陵

第二十五代 武烈天皇陵

第三十六代 孝徳天皇陵

第三十七代 斉明天皇陵

第三十八代 天智天皇陵

第三十九代 弘文代 天智天皇陵

第四十代 天武天皇・第四十一代 持統天皇陵 (合葬陵)

第四十二代 文武天皇陵

第四十三代 元明天皇陵

第四十四代 元正天皇陵

第四十五代 聖武天皇陵

第四十六代 孝謙天皇陵

第四十七代 淳仁天皇陵

第四十八代 称徳天皇陵

第四十九代 光仁天皇陵

第五十代 桓武天皇陵

第五十一代 平城天皇陵

第五十四代 仁明天皇陵

第五十七代 陽成天皇陵


(1/3)天皇陵(初代~30代)参拝記録(最終更新 2022/11/12)

2022-04-11
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伊勢神宮(内宮:祭神 天照大神)


初代 神武天皇陵

第二代 綏靖天皇陵

第三代 安寧天皇陵

第四代 懿徳天皇陵

第五代 孝昭天皇陵

第六代 孝安天皇陵

第七代 孝霊天皇陵

第八代 孝元天皇陵

第九代 開化天皇陵

第十代 崇神天皇陵

第十一代 垂仁天皇陵

第十二代 景行天皇陵

第十三代 成務天皇陵

第十四代 仲哀天皇陵

第十五代 応神天皇陵

第十六代 仁徳天皇陵

第十七代 履中天皇陵

第十八代 反正天皇陵

第十九代 允恭天皇陵

第二十代 安康天皇陵

第二十一代 雄略天皇陵

第二十二代 清寧天皇陵

飯豊天皇 埴口丘陵(歴代外天皇)

第二十三代 顕宗天皇陵

第二十四代 仁賢天皇陵

第二十五代 武烈天皇陵

第二十六代 継体天皇陵

第二十七代 安閑天皇陵

第二十八代 宣化天皇陵

第二十九代 欽明天皇

第三十代 敏達天皇陵


[紀元二六七八年]橿原神宮参拝 -紀元節(建国記念日)-

2018-02-14
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台湾建国と日本の弥栄祈願のため、紀元節の日に建国の地・橿原神宮と、神武天皇御陵に参拝致しました。天気には恵まれましたが、寒風厳しい一日となりました。そのためだろうか、例年に比べるとやや参拝者が少なく感じました。
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神武天皇と紀元祭
橿原神宮庁発行の冊子『紀元祭』
戦前の紀元節は、戦後「建国記念の日」として復活。橿原神宮の最も重要な祭祀(例祭)は2月11日の紀元祭

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橿原神宮の御祭神は、神武天皇と皇后の媛蹈鞴五十鈴媛命(ヒメ タタラ イスズヒメ)。古事記によると皇后の父は天照大御神の弟スサノオの子孫である大物主神(大国主神の和魂とされる)。天照大御神の五世孫が神武天皇であるので、天照大御神の子孫と、スサノオの子孫同士の婚姻ということにある。なおタタラといえば製鉄を連想させるが、媛蹈鞴五十鈴媛命の出自である出雲の製鉄技術の大和への伝播との関連性が指摘されているという。

ところで「神武天皇即位日=紀元節=建国記念の日は、なぜ2月11日なのか?」という問題である。

神武天皇紀元、略して「皇紀」は、160年前の明治5年(1872)11月に公定されたものである。
明治5年(1872)11月9日に、この年12月3日を明治6年(1873)1月1日とする太陽暦採用の詔書が出され、その直後の明治5年11月15日「太政官布告第三四二号」によって、明治6年=紀元二五三三年とすることが諸外国に通知されている。同時に神武天皇即位の日を祝日とすることが決定されたのだが、これが現在の「建国記念の日」の始めとなる紀元節である。

紀元節 神武天皇
民間団体による幟、一番左端のものは神武天皇から今上陛下までの歴代天皇の諡号が記されていた
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2月11日、これは明治初期に太政官地誌課長の塚本明毅(1833-1885)もしくはその周辺の人物らが算定したものである。その算定方法の過程を塚本は「今般御歴代御祭日推歩仕候モ、干支ニ相立、簡法相立、僅数十日ニテ出来仕、且御祭典ニモ干支而巳相用候モ有之候間、御据置ノ方可然候」と記している。

端的に言うと「干支によって、簡法を立て」算定したといっているのだが、肝心の「簡法」の方法がどの様なものなのか判然としておらず、何度か変更したことから、学者などから「明治政府の役人が適当に算出した日で科学的根拠がない」という批判を受ける結果となっている。戦後、紀元節の復活に異を唱え、また「南京事件」の存在を肯定する発言などにより、赤い宮様とも呼ばれた三笠宮崇仁親王もその一人である。

そのため、第一回紀元節(明治七年/1874)は、皇室や国家機関においては盛大に執り行われたものの、民間では「神武建国」を祝うということが浸透しなかった。また当時の日本人には誕生日を毎年祝うという習慣自体が無かったそうで、天皇誕生日(天長節)への関心も薄く、節句(五節句:神社本庁による「節句」の解説→)を中心とする生活スタイルが重視されていた。

日本国民が紀元節や天長節を、公の行事として強く意識したのは、大日本帝国憲法発布(明治二十二/1889/2/11)以降のことであったようである。

[参考]『研究史 神武天皇』星野良作 吉川弘文館 昭和五十五年


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橿原神宮外拝殿と畝傍山(198.5m)

周辺でひときわ目立つ畝傍山は、死火山で元々は現在の2倍以上の規模があったが、年月をかけて侵食され、現在のような形になったそうである。また畝傍(うねび)の意味は、「田の畝」のようにくねくねした尾根を多く持つところから名付けられ、記紀では、「畝火山」「雲根火山」「宇禰縻夜摩」「御峯山」などと表記されているそうである。

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橿原神宮境内にある神武天皇御陵、参拝者は少ない。


 

 

 

[1月2日(火)]初詣 橿原神宮参拝

2018-01-03
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京都は水っぽく、奈良は土が香ると表現したのは、岡潔(数学者/思想家)先生。古代日本の首府でありながら、京都に比べ観光化への情熱が薄く、商売っ気は無く、泥くさい暢気な風土であり続ける奈良の田園地方を散策すると、心穏やかになるものがあります。岡潔氏は数学者として世界的業績を残したが、日本と日本民族の将来を憂いた思想家、憂国の士としても知られる。以下に岡潔の気性を表す一文がありますが、これはわかる人には解ると思うので紹介致します。

…特に、道義のセンスのうちでも正義的衝動が、私たちの学生時代には大いに見られたように思う。例えば、車中でおばあさんに席を譲る場合、気の毒だからというのではなく、他に立つ者がいないのは、けしからんというので立つといった正義心である。(略)。社会に正義的衝動がなくなれば、その社会はいくらでも腐敗する。これが一番恐ろしいことである『春宵十話』
..
深田池
アマテラスと一言主神の邂逅、神話的な風景:境内の深田池東端から大和葛城山を望む。動画

深田池から全景
当日、境内の仮設展示場で掲示されていた「神武天皇御一代記絵巻」展より古写真
深田池から橿原神宮全景(左上:畝傍山、中央上:耳成山)

日本書紀 推古天皇廿一年(613年)冬十一月に「作 掖上池・畝傍池・和珥池、又自難波至京置大道」とあり、畝傍山南面を水源地とする人工池である深田池は飛鳥時代・女帝の推古天皇が造成した畝傍池の名残ではないかと言われている。また「難波から京(飛鳥=奈良県明日香村)へ至る大道」とは最古の官道とされる竹内街道のこととされる。

【深田池周辺Google Map】http://goo.gl/niHQ5G


 

橿原神宮&畝傍山
外拝殿、畝傍山(198.5m)

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「橿原神宮の変遷」

『國史大辭典第』2巻(吉川弘文館 平成10年)より引用
(略)幕末の神武天皇陵の決定に続いて、明治二十一年(1888)奈良県県会議員西内成郷らの請願により、畝傍山の東西麓の畝火村字タカハタケ(高畠、橿原市畝傍町)の地が宮址と伝えられていること、キザハシ(階段橋)・ホンガ(宝算)などの字名があることから宮址と決定され、翌年京都御所の内侍所および神嘉殿が下賜され、橿原神宮となった。昭和十五年(1940)の皇紀二千六百年記念事業として、神域拡張工事が行われ、その際縄文時代後期・晩期の遺跡と奈良・平安時代の井戸とが発見され、また白檮林があったことが判明した

橿原神宮は神武天皇が即位し、皇居とした址である訳だが、その創建は、明治23(1890)年4月2日と新しい。また初代天皇の神武天皇の御陵はその所在が長らく不明となっていた(!)。幕末勤皇思想の隆盛により、江戸幕府は現在の地に神武天皇陵を決定している(文久三年/1863)。本日我々がみていた日本建国の旧蹟は実際には新しいものといえます。

荒蕪図 
江戸末期『文久山陵図』に記録された神武天皇陵の候補地として「神武田(ジブタ)」と呼ばれていた水田の中に小丘が二つ描かれている。江戸期にはこの周辺の字はミサンザイ(≒御山陵)であったが、「糞田」でもあったという。要は荒廃した土地であったのだが、現在の神武天皇陵はこの小丘を中心として大規模に改修されたものである。なおこの丘は多武峰寺(トウノミネジ)の末寺・国源寺の遺跡の一部とする説もある。

IMG_0632古代最大の内乱・壬申の乱(西暦672年)において大海人皇子(後、天武天皇として即位)が神武天皇陵に先勝祈願のための祭祀を行ったという『日本書記』天武天皇元年七月壬子(23日)条の記述(「於神日本磐余彥天皇(カンヤマトイワレヒコノ スメラミコト)之陵、奉馬及種々兵器」)から、神武天皇の陵墓が七世紀には存在していたことが良く知られており、またその場所は現在の神武天皇陵と同一場所であったというのが有力である。

その後、長らく日本の始祖王・神武天皇の陵墓は忘却され、人々の意識からその存在を失う。そして江戸末期、幕府が朝廷対策の一環として荒廃した歴代天皇陵墓を調査する過程で、再発見されるまでの千二百年間埋没していた、ということになる。

[関連]
平成二十六年(2012)2月10日記事
「皇紀(紀元)」概念(平成二十六年=紀元二六七四年)は140年前と新しい
http://ilha-formosa.org/?p=31750


 

日露戦争・日本海海戦(明治38年/1905/5/27-29)勝利111年

2016-05-27
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東郷平八郎図
『三笠艦橋の図』東城鉦太郎画/三笠保存会
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中央:東郷平八郎大将(聯合艦隊司令長官)
左隣:加藤友三郎少将(聯合艦隊参謀長兼第一艦隊参謀長)
右隣:秋山真之中佐(作戦参謀)
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左上:檣頭(ショウトウ)のZ旗は聯合艦隊がバルチック艦隊と遭遇した後、5月27日13時55分に掲揚。なお「バルチック」とは「バルト海」の意。

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[日露戦争略年表]

明治37年(1904)
2月  4日 御前会議で対露交渉中止、軍事行動採用を採択
2月  6日 小村寿太郎外相、ロシア公使に日露交渉打ち切りを通告。聯合艦隊、佐世保を出撃
2月  8日 日本軍第12師団、仁川港に上陸、旅順港奇襲
2月10日 日露両国、相互宣戦布告
2月12日 清国、中立宣言
2月24日 第一回旅順口閉塞作戦開始
6月20日 満州軍総司令部設置、総司令官大山巌大将
7月23日 ウラジオストク艦隊 九十九里浜沖から下田沖に出現、商戦を砲撃
8月10日 黄海海戦、ロシア艦隊、旅順脱出失敗
8月14日 蔚山沖海戦、ウラジオストク艦隊壊滅
8月19日 日本第三軍、旅順総攻撃開始(失敗)
9月  4日 日本軍、遼陽占領
10月9日 沙河会戦
10月21日 バルチック艦隊による英国漁船団攻撃事件(ドッカーバンク事件)発生。英露間緊張
11月30日 日本軍、旅順要塞「203高地」を占領

明治38年(1905)
1月  1日 旅順要塞司令官ステッセル降伏
1月  5日 乃木希典大将、ステッセル中将と旅順水師営で会見
1月22日 血の日曜日事件(首都サンクトペテルブルクで軍が労働者に発砲/第一次ロシア革命)
2月22日 日本軍奉天攻略開始
3月  9日 ロシア軍総司令官クロパトキン大将、全軍に退却命令
3月10日 奉天会戦終わる
5月27日 日本海海戦始まる
5月28日 バルチック艦隊壊滅
6月  7日 セオドア・ルーズベルト米大統領、金子堅太郎特使に日本軍の樺太占領を勧告
7月  7日 日本軍、樺太南部に上陸(7/31 全樺太のロシア軍降伏)
8月10日 米国東部メイン州ポーツマスで日露講和会議が始まる
8月12日 第二回日英同盟協約調印
8月29日 日露講和会議。日本は軍費要求と樺太北半分放棄を決定、講和成立
9月  5日 日露講和条約調印(10月16日公布)、同日日比谷焼き討ち事件発生

参考『図説 日露戦争』河出書房新社 平成16年(2004)


 

東郷平八郎
東郷平八郎元帥(TIME誌/1926年11月8日号)
http://content.time.com/time/covers/0,16641,19261108,00.html


 

幸哉、依小人虚詐、成大謀高譽

2015-06-11
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楠木正成公像   楠木正成公像 (2)
楠木正成騎馬像 於 高鴨神社(奈良県御所市)   『七生報國/陸軍大将 本庄繁謹書』

Q.楠木氏の発祥地はどこであったのだろうか。やはり河内国(大阪府南部)なのか?

A.駿河国入江荘(静岡市清水区)の可能性がある。


これまで楠木氏の出自を河内国に求めることが多かった。楠木正成(?-1336)が河内で挙兵し、後醍醐天皇の建武政権下で河内・和泉守に就任したことから本貫地=河内国というイメージが先行していた結果である。現在、楠公生誕地が大阪府南河内郡千早赤阪村水分(スイブン/ミクマリ)の地比定され、楠木正成館址とされるものや楠公産湯井戸までしつらえられているが、あくまで地元での伝承の粋を出ておらず、学術的検証に耐えられるものではない。なお史上「楠木」姓の初見は、『吾妻鏡』建久元年(1190年)十一月七日条に見出すことが出来る。源頼朝の東大寺落慶供養にともなう上洛に随行する武士団の名前のなかに楠木四郎という人物が見出されている。

『吾妻鏡』建久元年十一月七日条
四十一番 玉井四郎 岡部小三郎 三輪寺三郎
四十二番 楠木四郎 忍三郎 同五郎
四十三番 和田五郎 青木丹五 寺尾三郎太郎

「頼朝の上洛は、日本を平定した武威を朝廷に示したもので、その随従の武士もまた幕下の精鋭を選ったものである。従って楠木四郎もかなり名のある武士と思われる(植村清二『楠木正成』中央公論社 平成元年)」。しかし楠木四郎に関するこれ以上の情報はなく、次に楠木氏が史上に表れるのは、永仁二年(1294)「河内楠入道が、播磨国(兵庫県西南部)大部荘に乱入」した事件であり、これは東大寺文書に記載されている。この河内楠入道と楠木四郎との関係は不明である。『吾妻鏡』に併記される忍(おし)氏が武蔵国の武士団であることから、楠木四郎も関東方面に本拠があったと思われるのである。

近年の研究では、楠木氏の出自が駿河国にあるという根拠が推測を含めたうえで、以下の様に提示されている。

(A)楠木氏の根拠地には観心寺がある。この南河内の名刹は、鎌倉中期には有力御家人である安達義景(1210-1253)が管理権を有していた。この義景の三男が霜月騒動(弘安八年/1285)で滅亡した安達泰盛である。観心寺の支配権がこの泰盛に受け継がれていたとすれば、泰盛死後に幕府は観心寺領に得宗被官人を送り込んだ可能性がある。

(B)正応六年(1293)七月、駿河国入江荘の長崎郷の一部と楠木村が鶴岡八幡宮に寄進されたと言う記録がある。この寄進の直前、当時権勢を誇っていた平頼綱が主君である九代執権北条貞時により誅殺される事件(平禅門の乱)が発生している。ゆえにこの土地が平頼綱の没収された土地、いわゆる闕所地であったと推察出来、この地が北条得宗家の支配下にあったと考えられる。そしてこの楠木村には楠木氏が居住したと思われ、当然楠木氏は得宗被官人であったであろうこと。霜月騒動で安達氏は入江荘長崎郷所縁の長崎氏に滅ぼされており、長崎氏と同郷の楠木氏は安達氏滅亡後に観心寺荘に幕府の代官として送り込まれた、のではないか。

(C)元弘元年(元徳三/1331)九月、北条得宗被管人・楠木正成は討幕をかかげて河内国赤坂城で蜂起する。僅かな手勢で関東勢を引き付けたものの、結局赤坂城は落城する。元弘三年(1333)閏二月、再挙兵した楠木正成を鎮圧出来ずにいる強大な幕府勢の不甲斐無さを嘲笑する京童の落首を二條道平が次の様に記録している(『後光明照院関白記』正慶二年(1333)閏二月一日条)。御醍醐天皇に近かった二條道平は注意深くこれを採録していたものと思われるが、感心するばかりである。

「くすの木の ねハかまくらに成るものを 枝をきりにと 何の出るらん」

意味は「楠木の本拠地はもとは鎌倉にあるにもかかわらず、楠木正成(連枝)を討伐するために、わざわざ河内までやってきている」との解釈が成り立つ。「鎌倉」を地名とともに北条得宗家を指すことも出来るが、当時の京の人々は御醍醐天皇挙兵に最初に応じた楠木氏がルーツを東国に持つ得宗被官人であることを知っており、それを踏まえたうえで楠木追討に鎌倉から河内、大和に馳せ参じて来た強大な幕府勢を嘲笑しているのである。

金剛山遠景
楠木正成が幕府勢を相手に立て籠もった千早城の位置する金剛山遠景


湊川の戦い(建武三年/1336) で楠木正成は没する。その後も楠木氏は南朝の主力として正行、正行、そして正勝が楠木党棟梁を引き継いだとされ、反幕行動を継続するが、次第に勢力は衰退。南朝自体が明徳の和約(明徳三年/1392)により北朝と和睦を成立させると消滅する。同時に楠木氏の動向も次第に不明なものとなっていく。

ところが伏見宮貞成親王(フシミノミヤ サダフサ シンノウ/第百二代 後花園天皇の父)が日記『看聞御記』において、永享元年(1429)に楠木光正という人物が密かに南都(奈良)に潜伏、将軍足利義教暗殺を企図して捕縛されたことを記録している。永享九年は楠木正成湊川合戦から93年後であり、その子正行が四條畷で戦死してから81年を経過している。楠木氏の足利氏に対する抵抗がいかに長期間に亘っていることかが解る。なお数多く存在する楠木氏系図に光正の名は記載されておらず、唯一『看聞御記』にのみ名が残っている。謎が多い楠木氏の最後の行動者も、また謎の人物であった。恐怖政治によりその名を残した足利義教の暗殺を企てた豪胆さ、死を前にした楠木光正の矜恃に貞成親王が感嘆している様子がうかがえる。そしてまた光正の言葉からは成否は真の目的ではなかったかの様な印象を受ける。いずれにせよ彼は後世に名を残した。


『看聞御記』永享元年九月十八日
十八日雨下、楠木僧躰也、俗名五郎左衛門尉光正、被召捕上洛、此間南都ニ忍居、是室町殿御下向為伺申云々、筒井搦取高名也、為天下珍重也、

廿四日、晴、先日被召捕楠木、今夕於六條河原被刎首、侍所赤松、所司代六七百人取囲斬之、切手魚スミ、其躰尋常ニ被斬、先召寄硯紙作頌、
幸哉、依小人虚詐、成大謀高譽、珍重々々、
不來不去攝眞空 萬物乾坤皆一同 即是甚深無二法 秋霜三尺斬西風

なか月や、すゑ野の原の草の上に、身のよそならできゆる露かな
我のみか、誰が秋の世もすゑの露、もとのしづくのかゝるためしぞは
夢のうち、都の秋のはては見つ、こゝろは西にありあけの月

永享元年九月廿三日 楠木五郎左衛門尉光正 常泉
見物人河原充滿、自南都御使立、急可斬之由被仰、其形僧也、頌歌等天下美談也、楠木首四塚ニ被懸云々、

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【現代訳】
9月18日 降雨。楠木は僧体である。俗名は五郎左衛門尉光正、奈良(=南都)へ向かう室町殿(六代将軍足利義教)を狙い奈良で潜伏していたところ、筒井(順覚か?=興福寺一乗院坊人)によって捕縛された。

24日 晴 先日捕えられた楠木は京都六条河原で斬首された。侍所(サムライドコロ)は赤松氏、所司代は六~七百人でこれを警戒した。執行人は魚住某である。楠木光正は硯と紙を取り寄せ、詩一篇と和歌三首を書き残した。

幸哉、依小人虚詐、成大謀高譽、珍重々々、
(幸いかな、小物の虚詐で、大謀高誉を成した、めでたい目出度い)

不來不去攝眞空 萬物乾坤皆一同 即是甚深無二法 秋霜三尺斬西風
なか月やすゑ野の原の草のうへに身のよそならてきゆる露かな
我のみかたか秋の世もすゑの露もとのしつくのかゝるためしそ
夢のうちに宮この秋のはてはみつこゝろは西にあり明の月

永享元年(1429)9月23日 楠木五郎左衛門尉光正 法名常泉
見物人が六条河原に充満、奈良から将軍義教の使いがやって来て、急いで斬るべきと仰せであった。楠木光正は僧形で、詩と和歌は天下の美談となった。そして京都四塚に於いて梟首された。
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【探訪】郷社「池神社」-奈良県下北山村大字池峰-

2015-01-16
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[撮影]平成27年1月15日 小正月

池神社は明神池(奈良県下北山村大字池峰)の東南岸に位置しており、水の神とされる市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)が御祭神。なお市杵島姫命は本地垂迹(仏や菩薩が救民の為、日本の神の姿となり出現すること)においては辯才天とされており、その辯才天はもとはインド神話に起源をもつ“河川の女神”が仏教とヒンドゥー教に取り入れられ、その姿は琵琶を弾く天女として表されている、とのこと。明神池の別称が「琵琶池」とされているのはひとつにこれが理由なのかもしれない。

神仏習合の頃(明治以前)は「池峯大明神」とされていたが創祀や由緒は不明。下北山村のHPには次の様な役行者伝承が解説されており興味深い。


「池神社」についての詳しい記録は火災によって全て消失しており、本殿の奥に祀られている「絶対秘仏」の御神像が何であるのかは、ずっと謎のままでした。宮司すら、開けることを許されていなかったからです。しかし明治元年の「神仏分離令」の直後に神社の氏子総代を務めた人物のひ孫にあたる村の古老(2011年現在で88歳)が、江戸時代生まれの祖母から御神像のことについて伝え聞いていました。その像は錫杖を持ち、膝を立てていたといいます。つまり「役行者像」だという(後略)


「池峯大明神」→「池大明神」→「池神社」と現在の名となったのは明治六年のこと。
元は池峯村小字辻堂というところに鎮座していたものを、元和年間(1615-1625)現在地に遷座したという。池神社の例祭は11月3日で、境内社として天照神社、菅原神社、大山祇神社が本殿の背後に鎮座している。

また境内に「下北山報效會」が明治三十九年(1906)に建立した「日露役念碑(1)(2)」がひっそりと佇んでいる。石碑背面には日露戦争(明治37年(1904) – 明治38年(1905))に従軍した下北山村池峰出身者の名が刻まれているのだが、一世紀の風雪に耐え、読み辛くなって来た氏名を判読していくうち、喉の奥が熱くなる感情を抑えられなくなる。紀伊半島の最深部から、国家存亡の危機を賭けた総力戦に従軍した人々が確かに存在していたことにである。また明治四十年の下北山村の人口は3,474人(『角川日本地名大辞典 29 奈良県』)であったということで、現在(559世帯、人口 1,039人/平成22年10月調査)の三倍以上の人口を擁していたことに驚かされる。

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もともと明神池の南端は現在の赤鳥居まであったが、明治初年に埋め立てられた。今は池神社と明神池の間に国道425号線が通っているが、池神社と明神池はひとつの聖域としてみなされている。


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標高およそ四百米程の地点に広がる明神池、この付近は「池の平」と呼ばれており、位置としては大峰山脈の最南端に当たると言って良いだろう。無風の夜には星が池に映り込み美しいそうであるが、日中でも山間の湖沼というものは神秘的な雰囲気が漂っている。

明神池は周囲1km程で水深1.5~7mと起伏が有る県下最大の天然池。20万年前に川底が隆起して、川が堰き止められ出来た「川跡湖」になるという。なお明神池自体が御神体(聖域)であることから、奈良県神社庁による「不浄な行為は慎むべし」の立て札が注意を促している。

下北山村では『「明神池」の七不思議』と題して此の池に関する伝承や禁忌とされる行為をホームページに掲載している。御注意を。


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明神池から東南に向って直線20kmで熊野灘となる。初春を想わせる陽光が気持ちを躍らせる。
写真は花窟神社(ハナノイワヤ ジンジャ)近くから撮影。

上北山村、下北山村の「北山」とは太平洋側の熊野や新宮から見た北方山岳地域を指しただろうことが想像される。熊野(三重)・新宮(和歌山)の文化風土が、北山川を遡上して北山(奈良)の地に影響を与えているように感じたのだが、「上・下北山村」の西隣の十津川郷がその北方の吉野・五條からの影響や結び付きが強い土地である事とを比較すると面白い。


 

異形の神-「常世神」信仰事件-

2015-01-03
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常世神(トコヨノカミ)事件の記述

『日本書紀』
巻第二十四 天豐財重日足姫天皇 皇極天皇 三年

[原文]秋七月、東國不盡河邊人大生部多、勸祭蟲於村里之人曰、此者常世神也。祭此神者、到富與壽。巫覡等遂詐、託於神語曰、祭常世神者、貧人到富、老人還少、由是、加勸捨民家財寶、陳酒、陳菜六畜於路側、而使呼曰、新富入來。都鄙之人、取常世蟲、置於淸座、歌儛、求福棄捨珍財。都無所益、損費極甚。於是、葛野秦造河勝、惡民所惑、打大生部多。其巫覡等、恐休勸祭。時人便作歌曰、禹都麻佐波、柯微騰母柯微騰、枳舉曳倶屢、騰舉預能柯微乎、宇智岐多麻須母。此蟲者、 常生於橘樹。或生於曼椒。曼椒、此云褒曾紀 其長四寸餘、其大如頭指許、其色緑而有黑點。其皃全似養蠶(1)

[現代訳]秋七月に、東国の不尽河(富士川)のほとりの大生部多という人が、虫を祭ることを村里の人々に勧めて、「これは常世の神だ。この神を祭る人は、富と長寿とを得るぞ」と言った。巫覡達も人々を欺き、神のお告げだと言って、「常世の神を祭るなら、貧しい人は富を得、老人は若返るぞ」といった。その上、民に勧めて家の財宝を捨てさせ、酒を並べ、野菜や六畜(中国で馬・牛・羊・豚・犬・鶏)を道ばたに並べて、「新しい富が入って来たぞ」と呼ばわらせた。そこで都鄙の人々は常世の虫をとらえて座に安置し、歌ったり舞ったりして幸福を求め、珍しい財宝を捨ててしまったが、何の益もなく、損ばかりがはなはだしかった。この時、葛野(京都盆地)の秦造河勝は、人々が惑わされているのを憎み、大生部多を打ちすえた。巫覡たちは恐れて人々に祭りを勧めるのを止めた。そこで人々は、「太秦は 神とも神と 聞こえ来る 常世の神を 打ち懲ますも(太秦の河勝様は、神の中でも神という評判の高いあの常世の神を打ち懲らしになったことよ)」という歌を作った。この虫は、いつも橘の木や曼椒(山椒)に生まれ、長さは四寸余り、大きさは人差し指程、色は緑で黒の斑点が有り、形は蚕にそっくりであった(2)


皇極天皇治世

これは皇極天皇三年(西暦644)七月、常世神信仰を広げた大生部多(オオフベノ オオ(3))という人物を、秦河勝が打ちすえた、という事件である。常世神は「緑色、黒色斑点をした、橘の木に生まれ、蚕に良く似た形の虫」であることからアゲハチョウの幼虫(写真)であろうというのが通説となっている。

推古天皇に次ぎ史上二人目の女性天皇となる皇極天皇の治世(在位642-645)は長雨、旱魃、客星(怪星)、暖冬、冷夏、地震といった気象の異変が多かったという。皇極天皇元年(642)6~8月は特に大変な日照りであった。民は初め村々の祝部(ハフリベ=広義の神職で、「巫覡(シャーマン)」を連想させると共に、祝部や巫覡の身分は民衆に近かった事が判る)が教えた通りに、牛馬を殺し、それを供えて諸社の神々に祈ったり、市をしきりに移したり、河伯(カワノカミ)に祈禱した(隨村々祝部所教、或殺牛馬、祭諸社神。或頻移市。或禱河伯(4))が効果が無かった。次に蘇我蝦夷が「寺々で大乗経典を転読し、悔過をして恭しく雨を祈るべき」と多くの僧を集めて発願したものの、僅かに降雨が降っただけであった。そこで天皇は南淵(明日香村)の川のほとりで四方拝を行い、天を仰ぎ雨乞いを行った。すると雷鳴とともに大雨が五日間降り続け、国中の百姓は大喜びし天皇の徳を讃えたとある(天皇幸南淵河上、跪拜四方。仰天而祈。卽雷大雨。遂雨五日。溥潤天下。或本云、五日連雨、九穀登熟。於是、天下百姓、倶稱萬歲曰、至德天皇)。

天変地異の記録が非常に多い皇極天皇記事のなかで、茨田池(マムタノイケ/マンダノイケ(5)の異変の記述に注目してみたい。

是月、茨田池水大臭、小蟲覆水、其蟲口黑而身白。八月戊申朔壬戌、茨田池水、變如藍汁、死蟲覆水。溝瀆之流、亦復凝結、厚三四寸。大小魚臭、如夏爛死。由是、不中喫焉(この月=「皇極天皇二年(西暦643)七月」、茨田池の水が酷く臭くなり、小さな虫が水面を覆った。その虫は、口が黒く、体が白かった。八月十五日、茨田池の水は、また変わって藍の汁の様になった。死んだ虫が水面を覆い、溝瀆(ウナテ=用水路)の流れもこりかたまり、その厚さは三、四寸ばかりであった。大小の魚は夏に腐れ死んだように臭って、とても食用にはならなかった)。

茨田池はこの後、同年九月「水漸々變成白色。亦無臭氣」し、翌十月に「池水還淸」している。なお都でも知られていたはずの茨田池の記録は案外少なく、現在此の池の名残と伝承される湖沼はあるものの、明確な痕跡として確認はなされていない。

この茨田池の異常の前後の書紀の記録には、蘇我氏の横暴が多く記述されており、異常気象を蘇我氏の悪徳を強調すべく不吉な事象を結びつけた記述ではないかとの指摘もなされている。茨田池の「水腐り、虫死に、魚腐る話しは、みな後漢書などの五行志の書き方に似る(6)」。果たして脚色であろうか。

皇極五年(645)6月12日、中大兄皇子により入鹿が討ち取られ、13日入鹿の父・蘇我蝦夷は自害(乙巳の変・大化の改新)、14日、皇極天皇は同母弟・軽皇子に皇位を譲り、孝徳天皇として即位、これが譲位の最初の例とされている。孝徳天皇治世(645-654)に、初の元号「大化」が制定され、中大兄皇子と中臣鎌足が天皇を補佐した。なお孝徳天皇崩御後に皇極(皇祖母尊、当時「上皇」の尊号が存在しなかった)が斉明天皇として再び皇位に就いた。これが我が国初の重祚となる。


「常世神」信仰について

書紀の記述を信じるならば、七世紀に大生部多という人物がアゲハチョウの幼虫を常世神(トコヨノカミ)と称し、これを祭祀すれば富貴と不老長生を得ると喧伝、巫覡(フゲキ/カムナ キ=シャーマン)が媒介して東国(富士川周辺地域)の民衆の間で流行した。彼等は民衆に対しては私財放棄を勧奨する一方で、酒・野菜・肉を道端に並べて「新しい富が入った」と人々を誘った。民はこれを信じて、アゲハチョウの幼虫を座に安置し、歌舞を行い、財産を(恐らく大生部多に)寄進したという。この流行は都まで及んだが、「求福棄捨珍財」の結果は「都無所益、損費極甚(益無く、損ばかり)」であった。秦河勝は、人々が常世神信仰に惑わされている事を憎み、大生部多を打ちすえ、巫覡達は(秦河勝の威を)恐れ、人々に祭りを勧めるのを止めた。

国史大辞典には「常世神」と共に上田正昭氏により「常世国」が立項されているが、“常世”という名称との関連をどうみるかは議論があろうかと思う。

【常世神】
「常住不変の異郷。常世郷とも書く。『古事記』の神話に国作りを終えた少名毘古那神(少彦名命)が常世国へ渡ったと記し、『日本書紀』の神話では淡島に到り粟茎にはじかれて常世郷に至ったと伝える。『日本書紀』神武天皇即位前紀では三毛入野命が常世郷に赴いたとし、また『古事記』垂仁天皇段(『日本書紀』では垂仁天皇九十年二月条)に多遅摩毛理(田道間守、たじまもり)が常世国へ派遣されて「時じくの香菓(かぐのみ)」を求めた説話がみえる。常世国の観念には、本来、海上他界観が濃厚であり、神仙思想と結びついて不老長生の国とも意識されるようになった。

また個人の現世的欲求を求めた常世神信仰について、「その祭祀の内容・儀礼は不老長生富貴に基礎をおくことは明確であって、道教信仰に由来するものであることは明らかである。日本へ伝来した道教は教団道教でなく民間道教であったが、この常世神の運動は、中国の教団道教の原段階であった五斗米道と近似している。その意味で、日本における教団道教の初現的なものとして注目される」という見解がある(7)が、これ以上の実態は判明しておらず謎の“神”といえる。

これが我が国最古の新興宗教事件-常世神信仰事件-の顚末である。「常世神」という異端の神は、これ以降の記録が残されておらず、チョウの幼虫を神と崇め、私財を寄進しながら更なる個人の欲望を求めた奇妙な熱狂は消滅したと考えられる。


大生部氏について

常世神運動の中心人物である富士川辺の人物・大生部多についての記述は書紀の記載のみで詳細は不明であり、大生部は長らく不詳の氏とされていたが、平城京跡等で発掘された天平年間の木簡から「伊豆国田方郡棄妾郷埼里戸主大生部祢麻呂」「伊豆国田方郡棄妾郷埼里大生部安麻呂」「伊豆国田方郡棄妾郷瀬前里大生部古麻呂」「伊豆国田方郡棄妾郷許保里戸主大生部真高」と記されたものが発掘された(8)ことで、富士川畔とはいえないが、大生部氏が伊豆国(田方郡)由縁の人であることが判明した。木簡記載の天平七年といえば西暦715年となるので、常世神事件で「打ちすえられた(これの意味するところは不詳であるが)」大生部多の一族はその後も伊豆国周辺に本拠を持っていたと推測される。なお「棄妾郷」は現在静岡県沼津市西浦木負としてその地名が現存している(9)。天平年間に記録された郷名「棄妾(キショウ)」は、十三世紀の歳月に耐え「木負(キショウ)」として今も記憶されているのである。


(1)原文『日本古典文学大系68 日本書紀 下』岩波書店 昭和62年
(2)現代語訳『日本書紀Ⅲ』中央公論新社 平成15年
(3)大生部多氏は「オオフベ」「オオミブべ」「オオシミブべ」の何れかで訓むと思われる。
『日本書紀索引(六國史索引)』吉川弘文館(平成6年)には「オオウベノタ」と立項されている。
(4)これらはいずれも支那風の雨乞い行事とのこと。我が国では行われていないとされる「或殺牛馬、祭諸社神」だが、潤色の可能性も考えられる。
(5)茨田池、現在の大阪府寝屋川市を中心に広がっていたとされる池
(6)『日本古典文学大系68 日本書紀 下』p274補注 岩波書店 昭和62年
(7)下出積與「常世神」『國史大辭典 10』吉川弘文館 平成9年
(8)『平城宮発掘調査出土木簡概報(二十二) 二条大路木簡 一』P24~25
奈良国立文化研究所 平成2年
(9)『謎の渡来人 秦氏』水谷千秋 文藝春秋 平成21年
『人物叢書 秦河勝』井上満郎 吉川弘文館 平成23年


 

「皇紀(紀元)」概念(平成二十六年=紀元二六七四年)は140年前と新しい

2014-02-10
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歴史的事件を起点として年代を数える方法に「紀元」というものがある。

世界で最も広く使用されている紀元はキリストの生誕を起点とする西暦であろう。またイスラム教国家では、ムハンマドがメディナに遷った年を紀元としており聖遷紀元(ヒジュラ暦)、一般にはイスラム暦と呼ばれるものがある。複数の暦法が存在するインドでは1957年に統一したインド国定暦というものが制定されており、ユダヤ民族国家イスラエルでは当然ながらユダヤ暦を公式の暦としている。

また台湾で西暦と共に使用されているのが民国暦である。清朝末期に康有為が孔子生誕(前551)を起点とする孔子紀元というものを唱えていたが(*1)、武昌蜂起(1911年10月10日)に始まる辛亥革命の結果、中華民国成立年(1912年1月1日)を元年とする民国紀元(中華民国暦)が使用され、国共内戦で中国国民党が台湾へ遁走してからも使用が続けられており、三年前の2011年(平成23)には「中華民国建国百周年」を記念する行事が大きく行われていた。なお100年前の中華民国建国時、台湾は日本統治時代(1895-1945)に当たる。台湾で国民党が「中華民国建国100周年」を主張するという事は中国国民党による台湾不法占領の問題を喚起する。大陸で成立した中華民国は、共産党に敗れた後、その後継政権(熱烈な台湾人意識の持ち主は「中華民国=亡命政権」と断定する)を軍事占領中の台湾に樹立する以外に存続する事が不可能であったのだ。

我が国では、神武天皇の橿原宮即位を起点とした神武天皇紀元(「皇紀」と略称される)がある。2674年とは遠大な歴史、由緒有る様に思える。

しかし実際には神武天皇紀元(皇紀)は140年前の明治5年(1872)11月に公定された新しい概念である。明治5年(1872)11月9日に、この年12月3日を明治6年(1873)1月1日とする太陽暦採用の詔書が出され、その直後の明治5年11月15日「太政官布告第三四二号」によるもので、明治6年=紀元2533年とすることが諸外国にも通知された(*1)。この時に併せて神武天皇即位の日を祝日とすることが決定されている。これが現在の「建国記念日」(2/11)の始めとなる紀元節である。

それでは皇紀元年の算出はどのように行われたのだろうか?おおよそ次の様なものとなる。

皇紀(こうき)
「日本書記」は神武即位を「辛酉年春正月庚申朔」と記しているが、皇紀ではこの年を西暦紀元前六六〇年とする。その根拠は年の干支が辛酉に当たる年は天の命が革まるという古代中国の辛酉革命説にあった。古代中国では干支一循六〇年を一元、七元の三倍二一元を一蔀と呼び、とくに重要な周期としたが、皇紀の算出の際は推古天皇九年辛酉を西暦六〇一年に比定し、そこより一蔀(一二六〇)前の辛酉の年を神武天皇即位の年に当てた(*)

神武天皇即位年代を推測するにはあまりに粗雑な方法である。平成26年(2014)は皇紀2674年。繰り返しとなるが逆算すると(2674-2014=660)、皇紀元年とは西暦紀元前660年になる。これは縄文時代末期、もしくは弥生時代最初期に該当するという説も有る。また邪馬臺国の女王卑弥呼は2世紀後半から3世紀中頃の人物と考えられる。すると神武天皇即位後、900年後に卑弥呼が史上に現れるという奇妙な状況になる。平成二十六年=皇紀二六七四年を主張するほど神武天皇の実在性を妨げる結果となるのだ。合理的的解釈の可能性は幾つか学説があるものの、ここでは述べない。

いずれにせよ日本固有の紀元として明治初期に創出された神武紀元(皇紀)が広く使用された期間は、第二次世界大戦終結までの70年間程であり、それ以降は神社関係で使用されるなど限定的なものとなっている。これが連綿と続く年号(元号)との違いである。

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紀元二千六百年式典を報じる朝日新聞(昭和15年11月11日 月曜日 臨時夕刊)


(*1)
清朝末期、革命軍は清朝の年号(宣統)を廃止し、黄帝紀元4609年(西暦1911)を採用したが、孫文らにより民国紀元(中華民国暦)が使用された。

(*2)
この時期の太陽暦採用に関しては明治政府の財政危機によるものという次の説が以前から指摘されており興味深い。
「太陽暦採用は開国による諸外国との外交・通商上の便宜を図るためだったには違いないが、この時期に唐突に施行されたのは、当時明治政府が深刻な財政的状況にあり、改暦によってわずか二日となる明治五年十二月分と旧暦のままなら生ずるはずの明治六年閏六月分との二ヵ月の官吏俸給を節約でき、また旧暦下では諸官省の休日が一と六の日と定められ、月六回、年七二回に上がったが、これを西暦によって日曜日のみとすることで大幅に削減できたからだとされている」
『日本史大辞典 3』平凡社 平成9年

つまり給与削減策の一環として太陽暦が緊急に採用されたというのが、有力な説なのである。

(*3)『日本史大事典 3』平凡社 平成九年(1997)「皇紀」の項


 

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