Archive for the ‘国史探訪’ Category

[1月2日(火)]初詣 橿原神宮参拝

2018-01-03
このエントリーをはてなブックマークに追加


.
京都は水っぽく、奈良は土が香ると表現したのは、岡潔(数学者/思想家)先生。古代日本の首府でありながら、京都に比べ観光化への情熱が薄く、商売っ気は無く、泥くさい暢気な風土であり続ける奈良の田園地方を散策すると、心穏やかになるものがあります。岡潔氏は数学者として世界的業績を残したが、日本と日本民族の将来を憂いた思想家、憂国の士としても知られる。以下に岡潔の気性を表す一文がありますが、これはわかる人には解ると思うので紹介致します。

…特に、道義のセンスのうちでも正義的衝動が、私たちの学生時代には大いに見られたように思う。例えば、車中でおばあさんに席を譲る場合、気の毒だからというのではなく、他に立つ者がいないのは、けしからんというので立つといった正義心である。(略)。社会に正義的衝動がなくなれば、その社会はいくらでも腐敗する。これが一番恐ろしいことである『春宵十話』
..
深田池
アマテラスと一言主神の邂逅、神話的な風景:境内の深田池東端から大和葛城山を望む。動画

深田池から全景
当日、境内の仮設展示場で掲示されていた「神武天皇御一代記絵巻」展より古写真
深田池から橿原神宮全景(左上:畝傍山、中央上:耳成山)

日本書紀 推古天皇廿一年(613年)冬十一月に「作 掖上池・畝傍池・和珥池、又自難波至京置大道」とあり、畝傍山南面を水源地とする人工池である深田池は飛鳥時代・女帝の推古天皇が造成した畝傍池の名残ではないかと言われている。また「難波から京(飛鳥=奈良県明日香村)へ至る大道」とは最古の官道とされる竹内街道のこととされる。

【深田池周辺Google Map】http://goo.gl/niHQ5G


 

橿原神宮&畝傍山
外拝殿、畝傍山(198.5m)

kasiharaguu
「橿原神宮の変遷」

『國史大辭典第』2巻(吉川弘文館 平成10年)より引用
(略)幕末の神武天皇陵の決定に続いて、明治二十一年(1888)奈良県県会議員西内成郷らの請願により、畝傍山の東西麓の畝火村字タカハタケ(高畠、橿原市畝傍町)の地が宮址と伝えられていること、キザハシ(階段橋)・ホンガ(宝算)などの字名があることから宮址と決定され、翌年京都御所の内侍所および神嘉殿が下賜され、橿原神宮となった。昭和十五年(1940)の皇紀二千六百年記念事業として、神域拡張工事が行われ、その際縄文時代後期・晩期の遺跡と奈良・平安時代の井戸とが発見され、また白檮林があったことが判明した

橿原神宮は神武天皇が即位し、皇居とした址である訳だが、その創建は、明治23(1890)年4月2日と新しい。また初代天皇の神武天皇の御陵はその所在が長らく不明となっていた(!)。幕末勤皇思想の隆盛により、江戸幕府は現在の地に神武天皇陵を決定している(文久三年/1863)。本日我々がみていた日本建国の旧蹟は実際には新しいものといえます。

荒蕪図 
江戸末期『文久山陵図』に記録された神武天皇陵の候補地として「神武田(ジブタ)」と呼ばれていた水田の中に小丘が二つ描かれている。江戸期にはこの周辺の字はミサンザイ(≒御山陵)であったが、「糞田」でもあったという。要は荒廃した土地であったのだが、現在の神武天皇陵はこの小丘を中心として大規模に改修されたものである。なおこの丘は多武峰寺(トウノミネジ)の末寺・国源寺の遺跡の一部とする説もある。

IMG_0632古代最大の内乱・壬申の乱(西暦672年)において大海人皇子(後、天武天皇として即位)が神武天皇陵に先勝祈願のための祭祀を行ったという『日本書記』天武天皇元年七月壬子(23日)条の記述(「於神日本磐余彥天皇(カンヤマトイワレヒコノ スメラミコト)之陵、奉馬及種々兵器」)から、神武天皇の陵墓が七世紀には存在していたことが良く知られており、またその場所は現在の神武天皇陵と同一場所であったというのが有力である。

その後、長らく日本の始祖王・神武天皇の陵墓は忘却され、人々の意識からその存在を失う。そして江戸末期、幕府が朝廷対策の一環として荒廃した歴代天皇陵墓を調査する過程で、再発見されるまでの千二百年間埋没していた、ということになる。

[関連]
平成二十六年(2012)2月10日記事
「皇紀(紀元)」概念(平成二十六年=紀元二六七四年)は140年前と新しい
http://ilha-formosa.org/?p=31750


 

日露戦争・日本海海戦(明治38年/1905/5/27-29)勝利111年

2016-05-27
このエントリーをはてなブックマークに追加


東郷平八郎図
『三笠艦橋の図』東城鉦太郎画/三笠保存会
.
中央:東郷平八郎大将(聯合艦隊司令長官)
左隣:加藤友三郎少将(聯合艦隊参謀長兼第一艦隊参謀長)
右隣:秋山真之中佐(作戦参謀)
.

左上:檣頭(ショウトウ)のZ旗は聯合艦隊がバルチック艦隊と遭遇した後、5月27日13時55分に掲揚。なお「バルチック」とは「バルト海」の意。

.
[日露戦争略年表]

明治37年(1904)
2月  4日 御前会議で対露交渉中止、軍事行動採用を採択
2月  6日 小村寿太郎外相、ロシア公使に日露交渉打ち切りを通告。聯合艦隊、佐世保を出撃
2月  8日 日本軍第12師団、仁川港に上陸、旅順港奇襲
2月10日 日露両国、相互宣戦布告
2月12日 清国、中立宣言
2月24日 第一回旅順口閉塞作戦開始
6月20日 満州軍総司令部設置、総司令官大山巌大将
7月23日 ウラジオストク艦隊 九十九里浜沖から下田沖に出現、商戦を砲撃
8月10日 黄海海戦、ロシア艦隊、旅順脱出失敗
8月14日 蔚山沖海戦、ウラジオストク艦隊壊滅
8月19日 日本第三軍、旅順総攻撃開始(失敗)
9月  4日 日本軍、遼陽占領
10月9日 沙河会戦
10月21日 バルチック艦隊による英国漁船団攻撃事件(ドッカーバンク事件)発生。英露間緊張
11月30日 日本軍、旅順要塞「203高地」を占領

明治38年(1905)
1月  1日 旅順要塞司令官ステッセル降伏
1月  5日 乃木希典大将、ステッセル中将と旅順水師営で会見
1月22日 血の日曜日事件(首都サンクトペテルブルクで軍が労働者に発砲/第一次ロシア革命)
2月22日 日本軍奉天攻略開始
3月  9日 ロシア軍総司令官クロパトキン大将、全軍に退却命令
3月10日 奉天会戦終わる
5月27日 日本海海戦始まる
5月28日 バルチック艦隊壊滅
6月  7日 セオドア・ルーズベルト米大統領、金子堅太郎特使に日本軍の樺太占領を勧告
7月  7日 日本軍、樺太南部に上陸(7/31 全樺太のロシア軍降伏)
8月10日 米国東部メイン州ポーツマスで日露講和会議が始まる
8月12日 第二回日英同盟協約調印
8月29日 日露講和会議。日本は軍費要求と樺太北半分放棄を決定、講和成立
9月  5日 日露講和条約調印(10月16日公布)、同日日比谷焼き討ち事件発生

参考『図説 日露戦争』河出書房新社 平成16年(2004)


 

東郷平八郎
東郷平八郎元帥(TIME誌/1926年11月8日号)
http://content.time.com/time/covers/0,16641,19261108,00.html


 

幸哉、依小人虚詐、成大謀高譽

2015-06-11
このエントリーをはてなブックマークに追加


楠木正成公像   楠木正成公像 (2)
楠木正成騎馬像 於 高鴨神社(奈良県御所市)   『七生報國/陸軍大将 本庄繁謹書』

Q.楠木氏の発祥地はどこであったのだろうか。やはり河内国(大阪府南部)なのか?

A.駿河国入江荘(静岡市清水区)の可能性がある。


これまで楠木氏の出自を河内国に求めることが多かった。楠木正成(?-1336)が河内で挙兵し、後醍醐天皇の建武政権下で河内・和泉守に就任したことから本貫地=河内国というイメージが先行していた結果である。現在、楠公生誕地が大阪府南河内郡千早赤阪村水分(スイブン/ミクマリ)の地比定され、楠木正成館址とされるものや楠公産湯井戸までしつらえられているが、あくまで地元での伝承の粋を出ておらず、学術的検証に耐えられるものではない。なお史上「楠木」姓の初見は、『吾妻鏡』建久元年(1190年)十一月七日条に見出すことが出来る。源頼朝の東大寺落慶供養にともなう上洛に随行する武士団の名前のなかに楠木四郎という人物が見出されている。

『吾妻鏡』建久元年十一月七日条
四十一番 玉井四郎 岡部小三郎 三輪寺三郎
四十二番 楠木四郎 忍三郎 同五郎
四十三番 和田五郎 青木丹五 寺尾三郎太郎

「頼朝の上洛は、日本を平定した武威を朝廷に示したもので、その随従の武士もまた幕下の精鋭を選ったものである。従って楠木四郎もかなり名のある武士と思われる(植村清二『楠木正成』中央公論社 平成元年)」。しかし楠木四郎に関するこれ以上の情報はなく、次に楠木氏が史上に表れるのは、永仁二年(1294)「河内楠入道が、播磨国(兵庫県西南部)大部荘に乱入」した事件であり、これは東大寺文書に記載されている。この河内楠入道と楠木四郎との関係は不明である。『吾妻鏡』に併記される忍(おし)氏が武蔵国の武士団であることから、楠木四郎も関東方面に本拠があったと思われるのである。

近年の研究では、楠木氏の出自が駿河国にあるという根拠が推測を含めたうえで、以下の様に提示されている。

(A)楠木氏の根拠地には観心寺がある。この南河内の名刹は、鎌倉中期には有力御家人である安達義景(1210-1253)が管理権を有していた。この義景の三男が霜月騒動(弘安八年/1285)で滅亡した安達泰盛である。観心寺の支配権がこの泰盛に受け継がれていたとすれば、泰盛死後に幕府は観心寺領に得宗被官人を送り込んだ可能性がある。

(B)正応六年(1293)七月、駿河国入江荘の長崎郷の一部と楠木村が鶴岡八幡宮に寄進されたと言う記録がある。この寄進の直前、当時権勢を誇っていた平頼綱が主君である九代執権北条貞時により誅殺される事件(平禅門の乱)が発生している。ゆえにこの土地が平頼綱の没収された土地、いわゆる闕所地であったと推察出来、この地が北条得宗家の支配下にあったと考えられる。そしてこの楠木村には楠木氏が居住したと思われ、当然楠木氏は得宗被官人であったであろうこと。霜月騒動で安達氏は入江荘長崎郷所縁の長崎氏に滅ぼされており、長崎氏と同郷の楠木氏は安達氏滅亡後に観心寺荘に幕府の代官として送り込まれた、のではないか。

(C)元弘元年(元徳三/1331)九月、北条得宗被管人・楠木正成は討幕をかかげて河内国赤坂城で蜂起する。僅かな手勢で関東勢を引き付けたものの、結局赤坂城は落城する。元弘三年(1333)閏二月、再挙兵した楠木正成を鎮圧出来ずにいる強大な幕府勢の不甲斐無さを嘲笑する京童の落首を二條道平が次の様に記録している(『後光明照院関白記』正慶二年(1333)閏二月一日条)。御醍醐天皇に近かった二條道平は注意深くこれを採録していたものと思われるが、感心するばかりである。

「くすの木の ねハかまくらに成るものを 枝をきりにと 何の出るらん」

意味は「楠木の本拠地はもとは鎌倉にあるにもかかわらず、楠木正成(連枝)を討伐するために、わざわざ河内までやってきている」との解釈が成り立つ。「鎌倉」を地名とともに北条得宗家を指すことも出来るが、当時の京の人々は御醍醐天皇挙兵に最初に応じた楠木氏がルーツを東国に持つ得宗被官人であることを知っており、それを踏まえたうえで楠木追討に鎌倉から河内、大和に馳せ参じて来た強大な幕府勢を嘲笑しているのである。

金剛山遠景
楠木正成が幕府勢を相手に立て籠もった千早城の位置する金剛山遠景


湊川の戦い(建武三年/1336) で楠木正成は没する。その後も楠木氏は南朝の主力として正行、正行、そして正勝が楠木党棟梁を引き継いだとされ、反幕行動を継続するが、次第に勢力は衰退。南朝自体が明徳の和約(明徳三年/1392)により北朝と和睦を成立させると消滅する。同時に楠木氏の動向も次第に不明なものとなっていく。

ところが伏見宮貞成親王(フシミノミヤ サダフサ シンノウ/第百二代 後花園天皇の父)が日記『看聞御記』において、永享元年(1429)に楠木光正という人物が密かに南都(奈良)に潜伏、将軍足利義教暗殺を企図して捕縛されたことを記録している。永享九年は楠木正成湊川合戦から93年後であり、その子正行が四條畷で戦死してから81年を経過している。楠木氏の足利氏に対する抵抗がいかに長期間に亘っていることかが解る。なお数多く存在する楠木氏系図に光正の名は記載されておらず、唯一『看聞御記』にのみ名が残っている。謎が多い楠木氏の最後の行動者も、また謎の人物であった。恐怖政治によりその名を残した足利義教の暗殺を企てた豪胆さ、死を前にした楠木光正の矜恃に貞成親王が感嘆している様子がうかがえる。そしてまた光正の言葉からは成否は真の目的ではなかったかの様な印象を受ける。いずれにせよ彼は後世に名を残した。


『看聞御記』永享元年九月十八日
十八日雨下、楠木僧躰也、俗名五郎左衛門尉光正、被召捕上洛、此間南都ニ忍居、是室町殿御下向為伺申云々、筒井搦取高名也、為天下珍重也、

廿四日、晴、先日被召捕楠木、今夕於六條河原被刎首、侍所赤松、所司代六七百人取囲斬之、切手魚スミ、其躰尋常ニ被斬、先召寄硯紙作頌、
幸哉、依小人虚詐、成大謀高譽、珍重々々、
不來不去攝眞空 萬物乾坤皆一同 即是甚深無二法 秋霜三尺斬西風

なか月や、すゑ野の原の草の上に、身のよそならできゆる露かな
我のみか、誰が秋の世もすゑの露、もとのしづくのかゝるためしぞは
夢のうち、都の秋のはては見つ、こゝろは西にありあけの月

永享元年九月廿三日 楠木五郎左衛門尉光正 常泉
見物人河原充滿、自南都御使立、急可斬之由被仰、其形僧也、頌歌等天下美談也、楠木首四塚ニ被懸云々、

———————————————————————————————————————————
【現代訳】
9月18日 降雨。楠木は僧体である。俗名は五郎左衛門尉光正、奈良(=南都)へ向かう室町殿(六代将軍足利義教)を狙い奈良で潜伏していたところ、筒井(順覚か?=興福寺一乗院坊人)によって捕縛された。

24日 晴 先日捕えられた楠木は京都六条河原で斬首された。侍所(サムライドコロ)は赤松氏、所司代は六~七百人でこれを警戒した。執行人は魚住某である。楠木光正は硯と紙を取り寄せ、詩一篇と和歌三首を書き残した。

幸哉、依小人虚詐、成大謀高譽、珍重々々、
(幸いかな、小物の虚詐で、大謀高誉を成した、めでたい目出度い)

不來不去攝眞空 萬物乾坤皆一同 即是甚深無二法 秋霜三尺斬西風
なか月やすゑ野の原の草のうへに身のよそならてきゆる露かな
我のみかたか秋の世もすゑの露もとのしつくのかゝるためしそ
夢のうちに宮この秋のはてはみつこゝろは西にあり明の月

永享元年(1429)9月23日 楠木五郎左衛門尉光正 法名常泉
見物人が六条河原に充満、奈良から将軍義教の使いがやって来て、急いで斬るべきと仰せであった。楠木光正は僧形で、詩と和歌は天下の美談となった。そして京都四塚に於いて梟首された。
.


 

【探訪】郷社「池神社」-奈良県下北山村大字池峰-

2015-01-16
このエントリーをはてなブックマークに追加


IMG_3432
[撮影]平成27年1月15日 小正月

池神社は明神池(奈良県下北山村大字池峰)の東南岸に位置しており、水の神とされる市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)が御祭神。なお市杵島姫命は本地垂迹(仏や菩薩が救民の為、日本の神の姿となり出現すること)においては辯才天とされており、その辯才天はもとはインド神話に起源をもつ“河川の女神”が仏教とヒンドゥー教に取り入れられ、その姿は琵琶を弾く天女として表されている、とのこと。明神池の別称が「琵琶池」とされているのはひとつにこれが理由なのかもしれない。

神仏習合の頃(明治以前)は「池峯大明神」とされていたが創祀や由緒は不明。下北山村のHPには次の様な役行者伝承が解説されており興味深い。


「池神社」についての詳しい記録は火災によって全て消失しており、本殿の奥に祀られている「絶対秘仏」の御神像が何であるのかは、ずっと謎のままでした。宮司すら、開けることを許されていなかったからです。しかし明治元年の「神仏分離令」の直後に神社の氏子総代を務めた人物のひ孫にあたる村の古老(2011年現在で88歳)が、江戸時代生まれの祖母から御神像のことについて伝え聞いていました。その像は錫杖を持ち、膝を立てていたといいます。つまり「役行者像」だという(後略)


「池峯大明神」→「池大明神」→「池神社」と現在の名となったのは明治六年のこと。
元は池峯村小字辻堂というところに鎮座していたものを、元和年間(1615-1625)現在地に遷座したという。池神社の例祭は11月3日で、境内社として天照神社、菅原神社、大山祇神社が本殿の背後に鎮座している。

また境内に「下北山報效會」が明治三十九年(1906)に建立した「日露役念碑(1)(2)」がひっそりと佇んでいる。石碑背面には日露戦争(明治37年(1904) – 明治38年(1905))に従軍した下北山村池峰出身者の名が刻まれているのだが、一世紀の風雪に耐え、読み辛くなって来た氏名を判読していくうち、喉の奥が熱くなる感情を抑えられなくなる。紀伊半島の最深部から、国家存亡の危機を賭けた総力戦に従軍した人々が確かに存在していたことにである。また明治四十年の下北山村の人口は3,474人(『角川日本地名大辞典 29 奈良県』)であったということで、現在(559世帯、人口 1,039人/平成22年10月調査)の三倍以上の人口を擁していたことに驚かされる。

IMG_3430 IMG_3454
もともと明神池の南端は現在の赤鳥居まであったが、明治初年に埋め立てられた。今は池神社と明神池の間に国道425号線が通っているが、池神社と明神池はひとつの聖域としてみなされている。


IMG_3462

標高およそ四百米程の地点に広がる明神池、この付近は「池の平」と呼ばれており、位置としては大峰山脈の最南端に当たると言って良いだろう。無風の夜には星が池に映り込み美しいそうであるが、日中でも山間の湖沼というものは神秘的な雰囲気が漂っている。

明神池は周囲1km程で水深1.5~7mと起伏が有る県下最大の天然池。20万年前に川底が隆起して、川が堰き止められ出来た「川跡湖」になるという。なお明神池自体が御神体(聖域)であることから、奈良県神社庁による「不浄な行為は慎むべし」の立て札が注意を促している。

下北山村では『「明神池」の七不思議』と題して此の池に関する伝承や禁忌とされる行為をホームページに掲載している。御注意を。


IMG_3467

明神池から東南に向って直線20kmで熊野灘となる。初春を想わせる陽光が気持ちを躍らせる。
写真は花窟神社(ハナノイワヤ ジンジャ)近くから撮影。

上北山村、下北山村の「北山」とは太平洋側の熊野や新宮から見た北方山岳地域を指しただろうことが想像される。熊野(三重)・新宮(和歌山)の文化風土が、北山川を遡上して北山(奈良)の地に影響を与えているように感じたのだが、「上・下北山村」の西隣の十津川郷がその北方の吉野・五條からの影響や結び付きが強い土地である事とを比較すると面白い。


 

異形の神-「常世神」信仰事件-

2015-01-03
このエントリーをはてなブックマークに追加


常世神(トコヨノカミ)事件の記述

『日本書紀』
巻第二十四 天豐財重日足姫天皇 皇極天皇 三年

[原文]秋七月、東國不盡河邊人大生部多、勸祭蟲於村里之人曰、此者常世神也。祭此神者、到富與壽。巫覡等遂詐、託於神語曰、祭常世神者、貧人到富、老人還少、由是、加勸捨民家財寶、陳酒、陳菜六畜於路側、而使呼曰、新富入來。都鄙之人、取常世蟲、置於淸座、歌儛、求福棄捨珍財。都無所益、損費極甚。於是、葛野秦造河勝、惡民所惑、打大生部多。其巫覡等、恐休勸祭。時人便作歌曰、禹都麻佐波、柯微騰母柯微騰、枳舉曳倶屢、騰舉預能柯微乎、宇智岐多麻須母。此蟲者、 常生於橘樹。或生於曼椒。曼椒、此云褒曾紀 其長四寸餘、其大如頭指許、其色緑而有黑點。其皃全似養蠶(1)

[現代訳]秋七月に、東国の不尽河(富士川)のほとりの大生部多という人が、虫を祭ることを村里の人々に勧めて、「これは常世の神だ。この神を祭る人は、富と長寿とを得るぞ」と言った。巫覡達も人々を欺き、神のお告げだと言って、「常世の神を祭るなら、貧しい人は富を得、老人は若返るぞ」といった。その上、民に勧めて家の財宝を捨てさせ、酒を並べ、野菜や六畜(中国で馬・牛・羊・豚・犬・鶏)を道ばたに並べて、「新しい富が入って来たぞ」と呼ばわらせた。そこで都鄙の人々は常世の虫をとらえて座に安置し、歌ったり舞ったりして幸福を求め、珍しい財宝を捨ててしまったが、何の益もなく、損ばかりがはなはだしかった。この時、葛野(京都盆地)の秦造河勝は、人々が惑わされているのを憎み、大生部多を打ちすえた。巫覡たちは恐れて人々に祭りを勧めるのを止めた。そこで人々は、「太秦は 神とも神と 聞こえ来る 常世の神を 打ち懲ますも(太秦の河勝様は、神の中でも神という評判の高いあの常世の神を打ち懲らしになったことよ)」という歌を作った。この虫は、いつも橘の木や曼椒(山椒)に生まれ、長さは四寸余り、大きさは人差し指程、色は緑で黒の斑点が有り、形は蚕にそっくりであった(2)


皇極天皇治世

これは皇極天皇三年(西暦644)七月、常世神信仰を広げた大生部多(オオフベノ オオ(3))という人物を、秦河勝が打ちすえた、という事件である。常世神は「緑色、黒色斑点をした、橘の木に生まれ、蚕に良く似た形の虫」であることからアゲハチョウの幼虫(写真)であろうというのが通説となっている。

推古天皇に次ぎ史上二人目の女性天皇となる皇極天皇の治世(在位642-645)は長雨、旱魃、客星(怪星)、暖冬、冷夏、地震といった気象の異変が多かったという。皇極天皇元年(642)6~8月は特に大変な日照りであった。民は初め村々の祝部(ハフリベ=広義の神職で、「巫覡(シャーマン)」を連想させると共に、祝部や巫覡の身分は民衆に近かった事が判る)が教えた通りに、牛馬を殺し、それを供えて諸社の神々に祈ったり、市をしきりに移したり、河伯(カワノカミ)に祈禱した(隨村々祝部所教、或殺牛馬、祭諸社神。或頻移市。或禱河伯(4))が効果が無かった。次に蘇我蝦夷が「寺々で大乗経典を転読し、悔過をして恭しく雨を祈るべき」と多くの僧を集めて発願したものの、僅かに降雨が降っただけであった。そこで天皇は南淵(明日香村)の川のほとりで四方拝を行い、天を仰ぎ雨乞いを行った。すると雷鳴とともに大雨が五日間降り続け、国中の百姓は大喜びし天皇の徳を讃えたとある(天皇幸南淵河上、跪拜四方。仰天而祈。卽雷大雨。遂雨五日。溥潤天下。或本云、五日連雨、九穀登熟。於是、天下百姓、倶稱萬歲曰、至德天皇)。

天変地異の記録が非常に多い皇極天皇記事のなかで、茨田池(マムタノイケ/マンダノイケ(5)の異変の記述に注目してみたい。

是月、茨田池水大臭、小蟲覆水、其蟲口黑而身白。八月戊申朔壬戌、茨田池水、變如藍汁、死蟲覆水。溝瀆之流、亦復凝結、厚三四寸。大小魚臭、如夏爛死。由是、不中喫焉(この月=「皇極天皇二年(西暦643)七月」、茨田池の水が酷く臭くなり、小さな虫が水面を覆った。その虫は、口が黒く、体が白かった。八月十五日、茨田池の水は、また変わって藍の汁の様になった。死んだ虫が水面を覆い、溝瀆(ウナテ=用水路)の流れもこりかたまり、その厚さは三、四寸ばかりであった。大小の魚は夏に腐れ死んだように臭って、とても食用にはならなかった)。

茨田池はこの後、同年九月「水漸々變成白色。亦無臭氣」し、翌十月に「池水還淸」している。なお都でも知られていたはずの茨田池の記録は案外少なく、現在此の池の名残と伝承される湖沼はあるものの、明確な痕跡として確認はなされていない。

この茨田池の異常の前後の書紀の記録には、蘇我氏の横暴が多く記述されており、異常気象を蘇我氏の悪徳を強調すべく不吉な事象を結びつけた記述ではないかとの指摘もなされている。茨田池の「水腐り、虫死に、魚腐る話しは、みな後漢書などの五行志の書き方に似る(6)」。果たして脚色であろうか。

皇極五年(645)6月12日、中大兄皇子により入鹿が討ち取られ、13日入鹿の父・蘇我蝦夷は自害(乙巳の変・大化の改新)、14日、皇極天皇は同母弟・軽皇子に皇位を譲り、孝徳天皇として即位、これが譲位の最初の例とされている。孝徳天皇治世(645-654)に、初の元号「大化」が制定され、中大兄皇子と中臣鎌足が天皇を補佐した。なお孝徳天皇崩御後に皇極(皇祖母尊、当時「上皇」の尊号が存在しなかった)が斉明天皇として再び皇位に就いた。これが我が国初の重祚となる。


「常世神」信仰について

書紀の記述を信じるならば、七世紀に大生部多という人物がアゲハチョウの幼虫を常世神(トコヨノカミ)と称し、これを祭祀すれば富貴と不老長生を得ると喧伝、巫覡(フゲキ/カムナ キ=シャーマン)が媒介して東国(富士川周辺地域)の民衆の間で流行した。彼等は民衆に対しては私財放棄を勧奨する一方で、酒・野菜・肉を道端に並べて「新しい富が入った」と人々を誘った。民はこれを信じて、アゲハチョウの幼虫を座に安置し、歌舞を行い、財産を(恐らく大生部多に)寄進したという。この流行は都まで及んだが、「求福棄捨珍財」の結果は「都無所益、損費極甚(益無く、損ばかり)」であった。秦河勝は、人々が常世神信仰に惑わされている事を憎み、大生部多を打ちすえ、巫覡達は(秦河勝の威を)恐れ、人々に祭りを勧めるのを止めた。

国史大辞典には「常世神」と共に上田正昭氏により「常世国」が立項されているが、“常世”という名称との関連をどうみるかは議論があろうかと思う。

【常世神】
「常住不変の異郷。常世郷とも書く。『古事記』の神話に国作りを終えた少名毘古那神(少彦名命)が常世国へ渡ったと記し、『日本書紀』の神話では淡島に到り粟茎にはじかれて常世郷に至ったと伝える。『日本書紀』神武天皇即位前紀では三毛入野命が常世郷に赴いたとし、また『古事記』垂仁天皇段(『日本書紀』では垂仁天皇九十年二月条)に多遅摩毛理(田道間守、たじまもり)が常世国へ派遣されて「時じくの香菓(かぐのみ)」を求めた説話がみえる。常世国の観念には、本来、海上他界観が濃厚であり、神仙思想と結びついて不老長生の国とも意識されるようになった。

また個人の現世的欲求を求めた常世神信仰について、「その祭祀の内容・儀礼は不老長生富貴に基礎をおくことは明確であって、道教信仰に由来するものであることは明らかである。日本へ伝来した道教は教団道教でなく民間道教であったが、この常世神の運動は、中国の教団道教の原段階であった五斗米道と近似している。その意味で、日本における教団道教の初現的なものとして注目される」という見解がある(7)が、これ以上の実態は判明しておらず謎の“神”といえる。

これが我が国最古の新興宗教事件-常世神信仰事件-の顚末である。「常世神」という異端の神は、これ以降の記録が残されておらず、チョウの幼虫を神と崇め、私財を寄進しながら更なる個人の欲望を求めた奇妙な熱狂は消滅したと考えられる。


大生部氏について

常世神運動の中心人物である富士川辺の人物・大生部多についての記述は書紀の記載のみで詳細は不明であり、大生部は長らく不詳の氏とされていたが、平城京跡等で発掘された天平年間の木簡から「伊豆国田方郡棄妾郷埼里戸主大生部祢麻呂」「伊豆国田方郡棄妾郷埼里大生部安麻呂」「伊豆国田方郡棄妾郷瀬前里大生部古麻呂」「伊豆国田方郡棄妾郷許保里戸主大生部真高」と記されたものが発掘された(8)ことで、富士川畔とはいえないが、大生部氏が伊豆国(田方郡)由縁の人であることが判明した。木簡記載の天平七年といえば西暦715年となるので、常世神事件で「打ちすえられた(これの意味するところは不詳であるが)」大生部多の一族はその後も伊豆国周辺に本拠を持っていたと推測される。なお「棄妾郷」は現在静岡県沼津市西浦木負としてその地名が現存している(9)。天平年間に記録された郷名「棄妾(キショウ)」は、十三世紀の歳月に耐え「木負(キショウ)」として今も記憶されているのである。


(1)原文『日本古典文学大系68 日本書紀 下』岩波書店 昭和62年
(2)現代語訳『日本書紀Ⅲ』中央公論新社 平成15年
(3)大生部多氏は「オオフベ」「オオミブべ」「オオシミブべ」の何れかで訓むと思われる。
『日本書紀索引(六國史索引)』吉川弘文館(平成6年)には「オオウベノタ」と立項されている。
(4)これらはいずれも支那風の雨乞い行事とのこと。我が国では行われていないとされる「或殺牛馬、祭諸社神」だが、潤色の可能性も考えられる。
(5)茨田池、現在の大阪府寝屋川市を中心に広がっていたとされる池
(6)『日本古典文学大系68 日本書紀 下』p274補注 岩波書店 昭和62年
(7)下出積與「常世神」『國史大辭典 10』吉川弘文館 平成9年
(8)『平城宮発掘調査出土木簡概報(二十二) 二条大路木簡 一』P24~25
奈良国立文化研究所 平成2年
(9)『謎の渡来人 秦氏』水谷千秋 文藝春秋 平成21年
『人物叢書 秦河勝』井上満郎 吉川弘文館 平成23年


 

「皇紀(紀元)」概念(平成二十六年=紀元二六七四年)は140年前と新しい

2014-02-10
このエントリーをはてなブックマークに追加

.


歴史的事件を起点として年代を数える方法に「紀元」というものがある。

世界で最も広く使用されている紀元はキリストの生誕を起点とする西暦であろう。またイスラム教国家では、ムハンマドがメディナに遷った年を紀元としており聖遷紀元(ヒジュラ暦)、一般にはイスラム暦と呼ばれるものがある。複数の暦法が存在するインドでは1957年に統一したインド国定暦というものが制定されており、ユダヤ民族国家イスラエルでは当然ながらユダヤ暦を公式の暦としている。

また台湾で西暦と共に使用されているのが民国暦である。清朝末期に康有為が孔子生誕(前551)を起点とする孔子紀元というものを唱えていたが(*1)、武昌蜂起(1911年10月10日)に始まる辛亥革命の結果、中華民国成立年(1912年1月1日)を元年とする民国紀元(中華民国暦)が使用され、国共内戦で中国国民党が台湾へ遁走してからも使用が続けられており、三年前の2011年(平成23)には「中華民国建国百周年」を記念する行事が大きく行われていた。なお100年前の中華民国建国時、台湾は日本統治時代(1895-1945)に当たる。台湾で国民党が「中華民国建国100周年」を主張するという事は中国国民党による台湾不法占領の問題を喚起する。大陸で成立した中華民国は、共産党に敗れた後、その後継政権(熱烈な台湾人意識の持ち主は「中華民国=亡命政権」と断定する)を軍事占領中の台湾に樹立する以外に存続する事が不可能であったのだ。

我が国では、神武天皇の橿原宮即位を起点とした神武天皇紀元(「皇紀」と略称される)がある。2674年とは遠大な歴史、由緒有る様に思える。

しかし実際には神武天皇紀元(皇紀)は140年前の明治5年(1872)11月に公定された新しい概念である。明治5年(1872)11月9日に、この年12月3日を明治6年(1873)1月1日とする太陽暦採用の詔書が出され、その直後の明治5年11月15日「太政官布告第三四二号」によるもので、明治6年=紀元2533年とすることが諸外国にも通知された(*1)。この時に併せて神武天皇即位の日を祝日とすることが決定されている。これが現在の「建国記念日」(2/11)の始めとなる紀元節である。

それでは皇紀元年の算出はどのように行われたのだろうか?おおよそ次の様なものとなる。

皇紀(こうき)
「日本書記」は神武即位を「辛酉年春正月庚申朔」と記しているが、皇紀ではこの年を西暦紀元前六六〇年とする。その根拠は年の干支が辛酉に当たる年は天の命が革まるという古代中国の辛酉革命説にあった。古代中国では干支一循六〇年を一元、七元の三倍二一元を一蔀と呼び、とくに重要な周期としたが、皇紀の算出の際は推古天皇九年辛酉を西暦六〇一年に比定し、そこより一蔀(一二六〇)前の辛酉の年を神武天皇即位の年に当てた(*)

神武天皇即位年代を推測するにはあまりに粗雑な方法である。平成26年(2014)は皇紀2674年。繰り返しとなるが逆算すると(2674-2014=660)、皇紀元年とは西暦紀元前660年になる。これは縄文時代末期、もしくは弥生時代最初期に該当するという説も有る。また邪馬臺国の女王卑弥呼は2世紀後半から3世紀中頃の人物と考えられる。すると神武天皇即位後、900年後に卑弥呼が史上に現れるという奇妙な状況になる。平成二十六年=皇紀二六七四年を主張するほど神武天皇の実在性を妨げる結果となるのだ。合理的的解釈の可能性は幾つか学説があるものの、ここでは述べない。

いずれにせよ日本固有の紀元として明治初期に創出された神武紀元(皇紀)が広く使用された期間は、第二次世界大戦終結までの70年間程であり、それ以降は神社関係で使用されるなど限定的なものとなっている。これが連綿と続く年号(元号)との違いである。

img083

紀元二千六百年式典を報じる朝日新聞(昭和15年11月11日 月曜日 臨時夕刊)


(*1)
清朝末期、革命軍は清朝の年号(宣統)を廃止し、黄帝紀元4609年(西暦1911)を採用したが、孫文らにより民国紀元(中華民国暦)が使用された。

(*2)
この時期の太陽暦採用に関しては明治政府の財政危機によるものという次の説が以前から指摘されており興味深い。
「太陽暦採用は開国による諸外国との外交・通商上の便宜を図るためだったには違いないが、この時期に唐突に施行されたのは、当時明治政府が深刻な財政的状況にあり、改暦によってわずか二日となる明治五年十二月分と旧暦のままなら生ずるはずの明治六年閏六月分との二ヵ月の官吏俸給を節約でき、また旧暦下では諸官省の休日が一と六の日と定められ、月六回、年七二回に上がったが、これを西暦によって日曜日のみとすることで大幅に削減できたからだとされている」
『日本史大辞典 3』平凡社 平成9年

つまり給与削減策の一環として太陽暦が緊急に採用されたというのが、有力な説なのである。

(*3)『日本史大事典 3』平凡社 平成九年(1997)「皇紀」の項


 

[国史研究]楠木氏覚書

2013-11-28
このエントリーをはてなブックマークに追加

.


DSC020980
【撮影】平成25年(2013)11月28日/【場所】伝 楠公誕生地

楠木氏の本貫地は河内国(現 大阪府)と長らく考えられてきたが、近年楠木氏駿河国(現 静岡県)発祥説が提唱されており興味深い(なお摂河泉には「楠」「楠木」の地名は存在していない)


日本有聖人  其名謂楠公  誤生干戈世  提劍作英雄 (日柳燕石)
(日本に聖人有り その名を楠公という 誤って戦乱の世に生まれ 剣を提げて英雄となる)
.

日柳燕石[クサナギ・エンセキ/文化十四年(1817)- 慶応四年(1868)]は讃岐の人で名は政章、燕石は号、侠客名は加賀屋長次郎という。幕末に活動した勤皇博徒と説明されているが、その尊王思想の直接的な影響は頼山陽にあるそうである。そして当時の多くの文人、志士と交流を持っており、特に高杉晋作、桂小五郎、品川弥二郎ら数十名の尊王派志士を匿ったことから、慶應元年(1865)五月捕縛され高松藩獄に四年間入獄させられている。燕石は元来攘夷論者であったが、明治元年(1868)に出獄した後は、一転して開港論者となり木戸孝允らと行動したという。そして徴士として登用され軍務局勘定方・日誌方・史官として征討将軍仁和寺兵部卿宮(後の小松宮嘉彰親王)に属して北越柏崎に進軍、同年八月二十五日陣没している。享年は五十二(『國史大辭典 第四巻』吉川弘文館 平成八年版を参照)

日柳燕石は行動の人であったが、また詩人でもあった。 冒頭の一文は燕石の最も有名な詩で彼が三十一歳の時に作詩したもので、松下村塾での愛吟詩であったと伝わる。幕末の尊王派志士にとり楠公は聖人であり崇拝の対照であったのだ。幕藩体制を打倒して王政復古を目指した当時の尊王攘夷運動の思想的基礎には水戸学の影響があったそうで、その水戸学とは南朝正統イデオロギーともいうべきものであり、それは最も具体的には楠木正成讃仰として現れ出た。尊王派志士が自らの理想を楠公(楠木正成)に見出したことは必然であったのかもしれない。なお現在、皇統は北朝(持明院統)を起源とするものであるが、皇居前には南朝(大覚寺統)の柱石であった楠木正成像を眺める事が出来る訳である。

この正成に悲劇的な英雄性を決定的に付与した書が『太平記』である。戦乱の時代を描きながらも太平の世を追い求めたであろう『太平記』は史料的には疑問が多い。だが、その文学性は後世の軍記物語に大きな影響を与え、江戸期には『太平記』中の合戦場面が講談として読み伝えられる等している。ここでは『太平記』その他史料に表れた楠木氏に対する評価などを覚書として記してみたい。


『太平記』[巻三]
楠ハ…陳平・陳良ガ肺肝ノ間ヨリ流出セル兵ナレバ…(赤坂籠城に際して)

「アナ哀レヤ、楠、ハヤ自害ヲシテケリ、敵ナガラモ、弓矢ヲ取ツテ、尋常ニ死ニタル物」ト、惜シマヌ人コソナカリケレ(正成の偽装自殺に際して)

[巻五]
コレ皆智深ク慮(オモンバカリ)遠クシテ、良将タリシ故ナリトテ、讃メヌ物コソナカリケレ(天王寺合戦)

正成の神秘性を表現したものが次の記述あろう

[巻六]
ワヅカニ千人ニ足ラザル小勢ニテ、誰ヲ憑(タノ)ミイツヲ待ツトシモナク、城中ニ怺(コラ)ヘテ防ギ戦ヒケル、楠ガ心ノ程コソ不思議ナレ(千早籠城に際して/流布本に「不敵ナレ」)

『太平記』は後醍醐天皇、新田義貞をも時に批判の対象としているが、正成に対しては批判が無い。著者不詳の太平記のひとつの謎と言える。次などは最大級の讃辞といえる。

[巻十六]
智仁勇ノ三徳ヲ兼ネテ、死ヲ善導ニ守リ、功ヲ天朝ニ施ス事、イニシヘヨリ今ニ至ルマデ、コノ正成ホドノ者ハ未ダ無カリツルニ…(正成兄弟討死の事)

この讃辞と美化の姿勢は正成死後の楠木党棟梁である小楠公、正行にも送られている。

[巻二十六]
(摂津合戦において、橋から落ちた山名時氏、細川顕之の兵五百余騎を正行が助け、乾いた衣服と薬を与えらえた者達がその恩に感激して正行勢に属し四条畷合戦で果てる様子を描く)
サレバ敵ナガラ其情ヲ感ズル人ハ、今日ヨリ後心ヲ通ゼント事ヲ思ㇶ、其恩ヲ報ゼントスル人ハ、ヤガテ彼手ニ属シテ後、四條縄手ノ合戦ニ討死ヲゾシケル

『太平記』は軍記物語であり、史書としての評価は低く、「敵兵五百騎」という表現もにわかには信じ難い。楠木氏は、建武三年(1336)楠木正成が弟正季ら一族で兵庫湊川で自死し、正平三年(1348)楠木正行、正時兄弟が四条畷で敗死すると正成三男の正儀が棟梁の地位を引き継いでいる。

『太平記』は次のように正行の死を惜しんでいる。

[巻二十六]
和田・楠ガ一類皆片時ニ亡ビハテヌレバ、聖運已ニ傾ヌ。武徳誠ニ久シカルベシト、思ハヌ人モ無リケリ

当時南朝は強硬派の長慶天皇が即位しており和睦推進派の正儀は北朝に転向し、応安六年(1373)には長慶天皇を攻撃して河内天野山金剛寺から吉野に退却させている。その後南朝に帰順したが、そのやや曖昧な態度から楠木贔屓の太平記の記事もやや厳しくなっている。

[巻三十一]
楠ハ父ニモ不似兄ニモ替リテ、心少し述タル者也ケレバ、今日ヨ明日ヨト云許(イウバカリ) ニテ、主上ノ大敵ニ囲マレテ御座アルヲ、如何ハセントモ心ニ懸ケザルコソ方見タテケレ。堯ノ子堯ノ如クナラズ、舜ノ弟舜ニ似ズトハ云ヒナガラ、此楠ハ正成ガ子也、正行ガ弟也、何ノ程ニカ親ニ替リ、兄ニ是マデ劣ルラント、謗ラヌ人モ無カリケリ

その一方で、中立的、やや良い評価というのもある。

[巻三十四]
楠ハ元来、思慮深キニ以テ、急ニ敵ニ当ル機少シ

[巻三十六]
楠父祖ノ仁慧ヲツギ、有情者ナリケレバ…

鮮烈な死を遂げた父兄の前にすると、楠木正儀に対する太平記の評価はやはり精彩に欠ける。なお太平記が成立したのは應永年間(1368-1375頃)とするのが一般的である。正儀の没年は諸説があるが、おおよそ明徳元年(1390)頃とされている。中村直勝『南朝の研究』によると正儀の死後、明徳元年(1390)には楠木党棟梁となったのは正儀の嫡子正勝だと考えられているが、史料的根拠が乏しいのと他の人物との混同もあり、没年にも諸説が有る。恐らく應永年間(1400年以降)に死去したと思われる。


『應永記』は『明徳記』『永享記』『嘉吉記』『應仁記』などと同じ室町軍記のひとつである。一般に『太平記』の系譜を継ぎ、なおかつ公的軍記としての性格を持つという。これらの題材は主に頻発する室町幕府と有力大名との争いを描いている。『應永記』は応永の乱(応永六年/1399)を記録しているが、この乱は南北朝統一後、足利義満が権力強化を目的に西国の有力守護大名・大内義弘を挑発して起こした事件とされている。大内義弘は、和泉国(現在の大阪府)堺に拠点を置き幕府に対抗するも敗死する。この時、足利政権の内部抗争を利用するために楠木某(楠木正勝、楠木正秀、楠木正元であったともいうが資料的根拠は無い)が大内氏に加担していることを『應永記』は記録している。

『應永記』
楠二百餘騎、今迄ハ眼前ノ御敵ニテ今更降参申サント無益ナリトテ、大和路ニ懸リテ行方不知落失セヌ。中ニモ菊池肥前ハ自證ニモ不似、討死ニセズシテ行方不知成ニケル

応永六年(1399)十二月二十一日、堺が落城すると「楠二百余騎」は「今更降参するのは無益である」として「大和方面へ向け遁走する」。記録に徹した表現であるが、勝機を逸した「楠二百余騎」が大和路を目指し疾駆する姿がこの簡潔な一文から想像される。楠木党にしてみれば、応永の乱は反足利の行動であって大内氏と命運を共にする様な義理は無かったということであろう。この時の楠木氏が誰に比定されるかについては諸説有るが、定説はない。不明ということである。なお楠木氏と共に、菊池肥前という南朝由縁であろう人物が楠木一族と共に大内氏を援けていることが注目される。

伏見宮貞成親王(第百二代 後花園天皇の父)の『看聞御記』には應永の乱の三十年後、永享元年(1429)に楠木光正という人物が密かに南都に潜伏、将軍足利義教暗殺を企図して筒井氏により捕縛、「魚スミ」という者に斬首されたことが記録されている。刑場の六條河原には見物人が充満し、幕府は六~七百人でこれを警戒したという。看聞御記にはこの楠木光正の頌歌と辞世の歌が紹介されている。

『看聞御記』
永享元年九月十八日、雨降、楠木僧躰也、俗名五郎左衛門尉光正、被召捕上洛、此間南都ニ忍居、是室町殿御下向為伺申云々、筒井搦取高名也、為天下珍重也、

廿四日、晴、先日被召捕楠木、今夕於六條河原被刎首、侍所赤松、所司代六七百人取囲斬之、切手魚スミ、其躰尋常ニ被斬、先召寄硯紙作頌、
幸哉、依小人虚詐、成大謀高譽、珍重々々、
不來不去攝眞空 萬物乾坤皆一同 即是甚深無二法 秋霜三尺斬西風

なか月やすゑ野の原の草のうへに身のよそならてきゆる露かな
我のみかたか秋の世もすゑの露もとのしつくのかゝるためしそ
夢のうちに宮この秋のはてはみつこゝろは西にあり明の月

永享元 九月廿三日 楠木五郎左衛門尉光正 常泉
見物人河原充滿、自南都御使立、急可斬之由被仰、其形僧也、頌歌等天下美談也、楠木首四塚ニ被懸云々、

ここで室町殿(第六代足利義教)は九月十五日に将軍宣下があり、十二日には春日大社参詣する為に南都に向かう予定であったという。暗殺を企てた光正の最期の様を伏見宮貞成親王は「天下の美談」と言及しているのである。この当時は正成末孫の威光が有った様であるが、一方で死に臨む楠木光正はふてぶてしく「幸哉、依小人虚詐、成大謀高譽」と語っているのである。果たしてこの事件は楠木氏の関係者を騙った「小人の詐称」であったのであろうか。不思議なことに、「万人恐怖」の時代を作り出し、歴代将軍でも特筆されるべき足利義教暗殺未遂犯の名「楠木五郎左衛門尉光正/法名 常泉」はあらゆる(各種)楠木系図にも記されておらず不詳の人物である。なお正成以前の楠木氏の事跡が全くと言ってよいほど不明であるにも係らず、敏達天皇に繋がる楠木氏系図が不自然なほど詳細であることは、楠木氏系図が却って信用出来ない事を意味する。

なおこの当時の楠木氏の和歌として伝わるのは楠木光正と、『太平記』[巻二十六]所収の正行の「返らじと 兼て思へば 梓弓 なき数にいる 名をぞとどむる」だけということである。後者は非常に有名な歌であるが、一般には『太平記』作者による潤色であろうとされている。

『薩戒記』永享九年(1437)八月三日の記事には、「河内國凶徒楠木黨」が挙兵、城を包囲し守護兵(畠山持国)と戦ったが、打ち取られたとある。同日の『看聞御記』には「楠兄弟被討」たとして「朝敵悉滅亡、天下大慶珍重無極、公家御悦喜御快然云々」という伏見宮貞成親王の感想が述べられている。楠木正成の湊川での戦死から既に百年が経過した当時にあって、楠木氏は「朝敵」でありその滅亡は「天下大慶」であったというのである。この「楠兄弟」の名前及び系統は不明である。その末路は「抑楠首上洛、河原十一頭被懸云々(『看聞御記』永享九年(1437)八月五日)」というものであった。正成死して100年以上が経過してもなお楠木党は幕府側に相対する実力を保持していたようである。

楠木氏の最後の動向は長禄四年(1460)の『蔭涼軒日録』、『經覺私要鈔』そして『碧山日録』記事に残されている。これは楠木正成の死後、124年後の楠木氏に対する評価である。

『蔭涼軒日録』
長禄四年三月廿八日、南方楠木一族、於于東寺四塚被誅戮云々、

『經覺私要鈔』同日

去比楠木部類ト云者、以廻文成僧遊行之間、曾祢崎ト云者召取進了、仍今日六條河原被伐之了、即頚ヲ四塚被懸之云々、

『碧山日録』長録四年三月廿八日

南朝將軍之孫楠木某、與其儻竊謀反、既而事發、遂遭囚擒下於大理、是日於六條河上、吏刎其頭、日録曰、楠木氏、往昔領天下兵馬之權、斬人頭不知幾萬級、強半戮殺無辜之民、潰亡之滅、其遺孽被獲於官者、咸死刑官之手、惟積惡之報也、可悲矣也、

総合すると、「南方楠木一族」「楠木部類(仲間、身内程の意味)」「南朝将軍の孫(正確には数世孫の意味)」である楠木某が、秘かに謀反を企んだが、露見して囚われの身となり、六條河原でその首を刎ねられ四塚にて梟首されたというものである。『碧山日録』筆者で東福寺の雲泉大極という僧は感想(「日録曰」以下を指す)として「楠木氏は往昔より天下兵馬の権を領して、人の首を斬る事、幾万と数知れないほどで、無辜の民を殺戮した。このように刑死するのは、積悪の報いである」と筆記している。

「南朝将軍」とは楠木正成を指すと思われるので、室町中期において「南朝将軍 楠木正成」の評価とは足利将軍に対する逆賊であり、朝廷(持明院統=北朝)に対する朝敵であった。その一族は無辜の民を殺戮する凶徒であり、その刑死は当然であるという認識となっており、往古の「忠臣楠木」に対する礼讃は見られない。そもそもこの人物の名前すら記されていないのである。なお東寺の西側、平安京南に位置する羅城門跡周辺が四塚にあたり、古代には「四陵」とも「四墓」とも呼ばれていたが、いずれにせよ四つの塚があったという。曰く「狐塚、光明塚、経塚等是也、今一箇所不知其所、狐塚ハ昔日罪アル人ヲ刑戮ノ地ナリ、今ハ東寺ノ僧徒遷化ノ時葬場トナレリ(『近畿歴博記』)」。正長元年(1428)12月、小倉宮聖承を擁して敗死した北畠満雅もここ四塚において梟首されている。

永禄二年(1559)、楠木正成十一世孫を称する大饗正虎が幕府を通じて朝廷から朝敵恩免の綸旨を得る。室町幕府はすでに十三代足利義輝の時代となり、衰退の一途を辿っていた。ここに足利幕府からみた「逆賊」楠木氏の復権と再評価が始まる。

「楠木」が最後に最も劇的に現れ出たのは第二次世界大戦の最末期であったのかもしれない。そこには敗れるを承知で最後の戦闘に出陣した正成の姿を自らに重ねているようで、悲愴さを際立たせている様に思う。連合国軍による沖縄侵攻作戦に対抗するべく行われた決死の特別攻撃は、楠木氏の家紋から菊水作戦とされ、水上特攻の戦艦大和には非理法権天(江戸期に創出された楠木正成が使用したとする旗印)の幟が掲げられていた、という。また昭和45年11月、「七生報國」の日の丸鉢巻をした憂国の作家が、その理想に殉じ劇的な最期を遂げる。七生報國が『太平記』に記された死に臨む楠木正成の故事「七生滅敵」にあることは良く知られている。

『太平記』巻十六 「正成兄弟討死事」

楠ガ一族十三人、手ノ者六十余人、六間ノ客殿ニ二行ニ双居テ、念仏十返計同音ニ唱テ、一度ニ腹ヲゾ切タリケル。正成座上ニ居ツゝ、舎弟ノ正季ニ向テ、抑(ソモソモ)最期ノ一念ニ依テ、善悪ノ生ヲ引ヒクトイヘリ。九界ノ間ニ何カ御辺ノ願ナル ト問ㇶケレバ、正季カラゝト打笑テ、七生マデ只同ジ人間ニ生レテ、朝敵ヲ滅サバヤトコソ存候ヘト申ケレバ、正成ヨニ嬉シゲナル気色ニテ、罪業深キ悪念ナレ共我モ加様カヨウニ思フ也。イザゝラバ同ク生ヲ替テ此本懐ヲ達セン

楠木正成の四十数年の人生の殆どは不詳である。ただ後醍醐天皇の大博打の様な討幕行動に最も早く呼応、建武政権の一翼として過ごした晩年の僅かに5年足らずの活動の一端が判明しているにすぎない。すなわち後醍醐天皇に見出され、河内国下赤坂城で挙兵したことで史上に出現したのが元弘元年(1331)九月、兵庫湊川で足利尊氏と戦い敗死するのは延元元年(1336)五月という短い期間が史上に記録された。

『太平記』には、その最初期「ワヅカニ千人ニ足ラザル小勢ニテ、誰ヲ憑(タノ)ミイツヲ待ツトシモナク、城中ニ怺(コラ)ヘテ防ギ戦ヒケル、楠ガ心ノ程コソ不思議ナ」神秘性を帯びた人物として描かれ、その敗北の人生の最後、従容と死地に赴いて散りゆく姿が描かれる。正成没後、既に七百年近くを経過するが、それでもなお至誠と勤皇の人として、また敗者の悲劇性と美しさを兼ね備えた日本的英雄のひとりとして、楠木正成は人々を魅了して止まないのである。

img071
楠木正成像(楠妣庵観音寺蔵/伝 狩野山楽画)


【国史研究】応仁・文明の乱における旧南朝皇族の動向

2013-09-15
このエントリーをはてなブックマークに追加

.


◇序章 小倉宮家とは

小倉宮とは室町時代前中期に存在した後亀山天皇後裔の世襲宮家である。

南朝(大覚寺統)最後の天皇、後亀山天皇の皇子・小倉宮恒敦を初代とし、その子聖承を二代、聖承の子息教尊まで系譜を辿る事が出来る。村田正志は『小倉宮の史實と傳説』で恒敦宮を以って「良泰親王」とし親王宣下が行われたとするが、その根拠は不明である。

小倉宮

明徳和約(南北朝合一)により後亀山天皇が京都嵯峨の大覚寺に隠棲して後、大覚寺統の諸王の一部が嵯峨小倉山に 居住したことから小倉宮の宮号が生まれたとされる。南朝(大覚寺統)の天皇は後醍醐天皇(九十六代)、後村上天皇(九十七代)、長慶天皇(九十八代)そして後亀山天皇(九十九代)を以ってその最後とする。しかし、その後も小倉宮皇孫が中心となりいわゆる後南朝という後継勢力が存続される。後南朝については前述の村田正志による「南北両朝が合一の後、南朝の皇族や将士が、南朝再興をはかり、断続的に武力抗争した運動」との解釈が妥当である。しかし南北両朝合一後は「北朝」も「南朝」も無い訳であるから本来は旧南朝とすべきなのかもしれない。ただ明徳和約以降の史料において変わらず「南朝」「南方」「南朝殘党」「南主」「南帝」もしくは「吉野殿」といった呼称が行われているのもまた事実である。

元中九年(明徳三年/1392年)閏十月南北両朝の和議が成立、皇位継承に関しては大覚寺統(南朝)と持明院統(北朝)による両統迭立が約束されていた。しかし足利義満はこれを無視し持明院統の後小松天皇(百代)譲位後に、その皇子である實仁親王が践祚、称光天皇(百一代)として応永十九年(1412年)即位させている。これに先立つ応永十七年(1410)十一月、後亀山上皇は嵯峨を出奔し吉野に遷っており、また正長元年(1428)七月、上皇の孫小倉宮聖承が嵯峨 から北畠親房の曾孫にあたる伊勢国司北畠満雅を頼り出奔。北畠満雅は聖承を奉じ挙兵するが幕府軍との戦闘で敗死、聖承は結局降伏して永享二年 (1430)には帰洛している。

村上源氏出身の公家である北畠氏が伊勢国司とされるのは、南北朝期に南朝から伊勢国司に補任されたことに始まる。南北朝合一後も朝廷や幕府の文書・記録類に北畠氏をさして伊勢国司とあっても、それはあくまで北畠氏の通称として使用されていたのであり、朝廷や幕府が『伊勢国司』を制度上の所職として認めていたわけではないとのこと。この時期の「伊勢国司」とは通称ということである。なお北畠氏は文明三年(1471)頃、伊勢守護職を補任されたと考えられている(大薮 海 『室町時代の「知行主」-「伊勢国司」北畠氏を例として-『史學雑誌』第116編第11号 史學会 平成十九年)。なお国司制は守護の設置によりその実態を失っており戦国時代には、いわゆる「三国司(姉小路氏、土佐一條氏、北畠氏)」を最後として消滅する。しかし制度としては明治維新までは公家や大名らの身分、栄誉職としては存続していたとのことである。

「御位競望の宮」(『椿葉記』)と目されていた聖承の王子教尊は、永享二年(1430)十一月将軍足利義教の猶子となり真言宗勧修寺門跡に入室、皇位回復の望みは絶たれた。その後教尊は嘉吉三年(1443)旧南朝による禁闕の変(京都御所襲撃、三種神器奪取事件)への関与が疑われ同年幕府により隠岐島に配流されている。

小倉宮聖承には同時代史料のなかに圓寂(死去)に伴う簡潔な略歴がある。『建内記』嘉吉三年(1443)五月九日條がそれである。

後聞南方小倉宮、後醍醐玄孫、後村上曾孫、後亀山院御孫、故恒敦宮御子、去正長比出勢、依懇望歸京之後、以子息爲普廣院御猶子、入 室勸修寺門跡、其身得度、法名聖承云々、俗名可尋之、近年自嵯峨移住下京邊給、近日所勞邪氣云々、圓寂云々、與海門和尚同日、希代事也、南北兩朝、元弘建 武以兩不安不休之處、近年無争論止干戈、今巳歸皇統自然天運之理、可云神慮、遺領等附属勸修寺宮云々、彼弟小生歟、而先年巳先父云々、於今者彼御流斷絶了

「以子息爲普廣院御猶子、入室勸修寺門跡、其身得度、法名聖承云々、俗名可尋之」とは「(聖承は)子息(教尊を指す)を普廣院(第六代将軍 足利義教)の猶子として勸修寺門跡に入室させ、自ら得度(出家)、法名を聖承としたが、俗名は分からない」という意味になる。この記事によると同じ日に海 門(承朝)が入滅したが、海門和尚の父長慶天皇と聖承祖父の後亀山天皇は兄弟の関係となる。聖承の遺領は御子の勸修寺宮教尊に譲渡されたが、教尊には「彼弟小生」がいたようである。すると聖承には少なくとも二王子がいたことになる。ただ「而先年巳先父」とあるので、既にこの教尊の弟は没している可能性もあ る。

なお二年前『建内記』嘉吉元年(1441)七月十七日條に嘉吉の乱に関する次の記事がある。

南方御子孫小倉入道宮御末子奉盗、播州赤松歟(カ)云々、

「南方御子孫小倉入道宮」とは当時三五、六歳の聖承だろうと思われるのだが、その「御末子」が播州の赤松氏により「奉盗」られたというのだ。やはり 教尊には弟がいたことが推察される。これは先程の『建内記』の記述と合致する。同一人物で有ったろうか。この「小倉入道宮御末子」のその後は不明である。

そしてここに小倉宮家は断絶したと思われた。


しかしその後も小倉宮と称される系譜不明の皇親の存在が散見されている。

その最後の王子は、応仁文明の乱の最中である文明二年(1470)に山名宗全(持豊)を主将とする西軍の援助のもと大和から上洛。東軍の後土御門天皇に対抗する「新主上」の役割を得る。しかし大乱の終息と共に、北陸地方を流離したのち史上から姿を消す人物である。この時期の南朝皇胤の常として宮の諱は不明である。『大乗院寺 社雑事記』文明三年閏八月九日條に於いて「小倉宮御息」とのみ記述されているに過ぎない。「小倉宮御息」とは小倉宮の御子息という意味である。以降 は便宜上「小倉宮王子」と、もしくは史料表記に基づく表記を行いたい。新たな知見も無く、主に単純な史料解釈となるが後醍醐天皇最後の皇胤となる小倉宮王子の足跡を追ってみたい。


第一章 小倉宮王子上洛以前の動向

第一節 文明元年(1469)に於ける行動

『大乗院寺社雑事記』に於いて小倉宮王子だと推定される王が最初に登場するのは文明元年十月五日條に於いてである。

自箸尾藤徳方申上云々、南方自□□御上洛、越智御迎進之之由、光宣法印□□□上之由、光秀相語者也、自先日世間及此沙汰、西陣之計略云々、希有事也、

これによると越智氏(家栄)が王子を迎えようとしており、これは西陣の計略であるとしている。応仁文明の乱に於いて西軍が後南朝の王子を迎えるという情報が初めて記載された一文である。「希有事」という論評が為されている。

応仁文明の乱は応仁元年(1467)から文明九年(1477)の間、畠山氏、斯波氏そして足利将軍家の家督争いを契機として、東軍細川勝元と西軍山 名宗全とを総大将として京を中心に争った大乱である。文明五年(1473)に細川勝元、山名宗全が相次いで没したが、その後も内乱が止む事は無く、時代は 戦国時代へと引き継がれる。西軍は山名宗全邸宅を本陣としており、これが西陣の名の起こりである。

越智家栄は大和国の有力国人。高市郡高取城を本拠として、南大和に勢力を維持していた。この時期、河内守護畠山氏や幕府とも接近して活発な行動を 行っている。畠山政長、同義就の内紛に関しては一貫して義就方に加担、積極的に支援を行い、応仁文明の乱後には南大和を統一している。なお越智氏は一乗院属し、南北朝期には南朝を支持し、明徳和約後も旧南朝勢力との関係が深い。すなわちこの後の小倉宮王子の大和高取への逗留等を考える際に納得し易い。

この時期の『大乗院寺社雑事記』の記録主は大乗院門跡尋尊(1430-1508)である。父は関白一條兼良。八歳の時、経覚の後を継ぎ興福寺の子院 である大乗院門跡に第二十七代門主として入院している。康正二年(1456)に興福寺別当となり、長谷寺、橘寺、薬師寺の別当も兼務している。当代随一の 知識人でもあり、『大乗院寺社雑事記』での記述は政治、経済に広い範囲にわたっており、名門一條家という出自のもあり、京に於ける幕府、朝廷の動向に関し ても詳細である。南朝のその後(後世にいう「後南朝」)についても尋尊は深く関心を寄せており、幾つもの記録が残っている。ここでは出来るだけそれらを紹介したい。

先程の記事の翌月、『大乗院寺社雑事記』文明元年十一月二十一日條に南朝皇族の動向が記されている。

口遊南主蜂起、兄弟一所ハ吉野奥、一所ハ熊野、十方被廻宣云々、年号ハ明應元年云々、希有事也、

ここで「南主」兄弟が、一方が吉野の奥で、もう一人が熊野に於いて蜂起した。あちこちに命令を出すと共に独自に「明應元年」という年号(私年号)を定めているという。この南主兄弟の蜂起が『大乗院寺社雑事記』文明元年十月五日條で計画されていた旧南朝王子擁立の最初の具体的行動であった様である。しかしこの兄弟宮が一体いかなる系譜を継ぐ皇族であるのか不明である。これ以前にも後南朝は幾度か蜂起を行っていたが、年号を定めたというのは信頼出来る史料に於いて初めての事で有る。この吉野奥と熊野(現在の三重県熊野市)での蜂起とは、三年前に勃発した応仁文明の乱に乗じた後南朝勢力の反攻である。なお「口遊」は「くちずさみ」と読み、「風聞に依ると」程の意味で有る。

この時期の南方蜂起は既に室町幕府に対し脅威を与える勢力では無かった、というよりはその存在自体が忘却されていたのではないかという思いがする。しかしながら南朝勢力が明徳和約から七十七年が経過したこの時期に紀伊半島に於いていまだ勢力を維持していたという事実が確認されるのである。


第二節 文明二年(1470)に於ける動向

この年三月十六日の『大乗院寺社雑事記』には前述の「南主蜂起」及び、その余波について次の様に記録されている。

難波新左衛門自大和和泉庄上洛、去々年分御年貢未進少々致催促罷上了、相語云、南方蜂起条事實也、廻分御使僧於和泉国召籠、所々御請文等取返于京都、和泉國ハ大略南方ニ参申、露顯上者両守護可令下向歟云々、

ここでは南主兄弟の蜂起が事実である事、南主兄弟の命令書であろう廻分を所持していた使者僧が和泉国(現在の大阪府南部)で幕府の人により捕縛された事、また和泉国の大半が南方に応じている事が記されている。この廻分を出した人物は誰なのであろうか。これについては後述する。この時期から『大乗院寺社雑事記』には後南朝関連の記事が多く記載されており、これは後南朝勢力の行動が活発になった事を意味する。

これまで紀伊国での後南朝勢力が蜂起したという情報が尋尊のもとに漠然と伝わっていたが、更なる動向が記事となっているのが『大乗院寺社雑事記』同月二十一日の條である。

       

南方去月末於(紀州紀田郡)宇惠左衛門之所被上御旗、中將教政自越智馳參畢、當月八日藤白仁御出云々、郡者共大略成御方、皆以畠山義就之披官人等云々、以外大義也、宇知郡狩野之説也、

上の文は概ねこの様な意味と成る。南方(後南朝勢力)が二月末、紀州紀田郡(有田郡の誤記であろうか)住人の宇惠左衛門のもとで旗を挙げ、翌三月八 日に藤白(紀伊国海南郡)に進軍している。紀(有)田郡の者達は大方が味方となっており、それらは紀伊国守護の畠山政長と対立する従兄弟の畠山義就の配下 の国人(被官人)達に従う者が多かったという。この一連の挙兵と先の南朝皇胤「南主兄弟」との関連は不明である(ただこの「南方」の領導人が後述する南朝末裔とされる日尊という王であると断定する研究者もいる)

『大乗院寺社雑事記』文明二年(1470)三月二十五日條は小倉宮王子(「小倉宮御息」)とみられる人物の姿が描写された最初の記録である。以下の通り。

楠葉備中守相語、南方御旗以下被上越智郷歟、御勢共ニ於橘寺邊奉見之由、備中之中間相語云々、不審事也、長櫃三荷上下七十騎計、本人兩人ハ錦直垂云々、昨日事也云々、

これによると、錦の直垂を着用した「本人両人」が随兵七十騎、長櫃三荷を従えて橘寺(大和国高市郡)周辺で目撃されたというのである。昨日の事とあるので三月二十四日の事である。次に後花園法皇(第百二代天皇)は、熊野検校を兼務した聖護院准后道興を通じて熊野三山宗徒が旧南朝勢力の挙兵(南方残黨 蜂起)に与しなかった事を賞し、なおその討伐を命じる院宣を出している。この事を所収しているのは『若王子神社文書』文明二年四月二十六日の條である。

今度就南方残黨蜂起、不及同心、存忠之由被聞食了、尤以神妙也、彌抽精祈、可致軍功之由、可令下知熊野三所給、者院宣如此、仍言上如件、兼顯謹言、  四月廿六日 權右中辦兼顯 奉

 四月廿六日   權右中辦兼顯 奉

  進上 聖護院僧正御房

就今度南方殘黨蜂起、院宣如此、別而被抽懇篤可被專軍忠由、檢校(原文は手偏)僧正御房御氣色所候也、仍執達如件、

   文明二

   五月廿二日   權少僧都經親 判

上書如此、但長床別帋也、二通、

 熊野本宮長床衆徒三昧御中

 新宮    衆徒神官御中

 那智山   執行法院御房

紀州で兵を挙げた後南朝勢力は各地の旧南朝勢に対して挙兵を促していた事が判る。しかし結局熊野社はこの呼び掛けには応じなかったのである。

尋尊の『大乗院寺社雑事記』文明二年五月十一日條では、応仁文明の乱の西軍により小倉宮王子を禁中に迎える計画がなされている。少し長いが重要と思われるので引用する。

南帝事内々計略子細有之歟云々、如風聞者、西方大名以下悉以同心、可奉入内禁云々、院内御留守衆公卿・殿上人、則可致奉公之由内々 申合子細有之歟云々、希代事也、去年以来御蜂起之間、畠山衞門佐一人難義之由申入之間、于今延引、其故ハ紀州・河内事南主御領也、楠木分國之間迷惑之由相 存歟、仍西方大名共不一同、依之于今遅々也、畠山方事内々御計略子細有之歟、於于今致同心云々、風聞可有入内裏支度云々、為事實者尚々公家滅亡之基也、

これは明らかに東軍(主将細川勝元)が奉じる御土御門天皇(第百三代)・後花園法皇に対抗出来る権威として、西軍(主将山名宗全)が南朝皇族の小倉宮王子を担ぎ出したものである。西軍大名は悉く同意したにもかかわらず、畠山義就はひとり「南帝」推戴に反対している(畠山衞門佐一人難義之由)。現代文にするとこの様になるだろう。「南帝の事は内々に子細な計略が有ったのだろうか。噂によると西軍大名は皆悉く賛成したという。内裏に入り奉られるべきだと。御留守衆、公卿、殿上人は即ち(南帝に)奉公する事を内々に申し合わせていたとか。稀代の事ではある。昨年以来の蜂起の間、畠山義就が一人で文句を 言っているので、今まで南帝擁立計画は引き延ばされていた。その理由は紀州・河内は南帝(南主)の御領地だからであり、楠木氏の分国であるからだ。それに より西軍大名は一致せず今まで遅々としていた。畠山義就には何らかの計画が有るのではないか。だが今に成ってようやく南帝の擁立に同意したという。南帝は 内裏に入られる心積もりが有る様である。これが事実であるならば公家(ここでは公家ではなく天皇、皇室を指す)滅亡のもとである。

◇『大乗院寺社雑事記』文明二年六月六日條◇

この件については翌月に更なる記述が有る。『大乗院寺社雑事記』文明二年六月二十五日條

吉田相語、南方御蜂起事、於于今者事實云々、西方大名同心、此間者畠山右衞門佐、就紀州内兩國事、令存六借歟云々、不同心處、諸大 名並權大納言殿被仰子細之間、於畠山モ同心云々、和州儀越智計略云々、伊勢国司一左右未聞云々、於南主者近所ニ御座歟云々、御手者少々紀州合戦云々、高野山ハ南方云々、根比ハ北朝方也、當國布施以下可帰國支度、來秋可有合戰云々、

一部に意味が判然としない点も有るが、大まかに補足しながら訳してみよう。「南方の蜂起は事実である。西軍の大名は同意した。この間畠山義就は紀州、(河)内両国の事が有るので同意しなかったが、諸大名と權大納言殿(足利義視)に説得されようやく同意するに至った。大和の事は越智家栄の計略である。伊勢国司(北畠教具か)の動向については聞かない。南主達は近くにおられる様で、配下の者は少々、紀州合戦云々。高野山は南方、根来寺は北朝方であった。当国 布施以下帰国支度をすべきである。秋には合戦が有るという。

ここでも南帝擁立に西軍大名が同意しているが、畠山義就は紀州、河内を後南朝に奪われる事を恐れていたが、諸大名や足利義視の説得に応じ結局「同心」するに至ったという事で有る。次に同年の『大乗院寺社雑事記』七月二日條に於いては「南帝」と称されていた小倉宮王子が壷阪寺におり、厳重に保護されているが、越智氏はその事を知らないとある。原文は次の通り。

慶英瓶子并瓜等持參之、慶英相語云、南帝ハ壺坂寺ニ御座、越智ハ無存知分と云々、毎日供御以打火等致其沙汰、嚴重無双云々、興憲法師爲彼寺學頭下向相語云々、

その二週間後、『大乗院寺社雑事記』文明二年七月十八日條

昨日宗藝法師來、於當國可有合戰歟云々、布施・高田等可打入之由支度歟云々、越智十方於相語、先可入和泉・河内云々、此条不審事、 但自去年爲西方大名之沙汰、被成和泉守護職之由風聞、則可入國之由支度之處、于今不及是非条、誠以不審事也、伊勢國司ニ申合子細有之歟之由云々、南朝御事哉、南主ハ御座越智之館壺坂、給云々

引き続き、南主は壷阪の越智氏の館に滞在していることが述べられている。


第三節 日尊についての考察

次に小倉宮王子とは別の南朝皇胤の出現を見てみよう。

『親長卿記』文明二年十二月六日條には南朝の末裔が越智氏の敵方になる畠山政長により討ち取られた事が記されている。この王は翌文明三年閏八月十六日の『大乗院寺社雑事記』により日尊という名が明らかにされている。この僧名とおもわれる名を称した人物は一体誰なのか。史料を確認してみよう。

十二月六日、晴、南方餘流人打取云々、賊首京著之由尾張守注進、廻文、刀等執進上之、自武家被進仙洞、廣橋大納言持參、予執進之、 嵬 之由有仰、賊首事爲公家御沙汰可請取歟 之由自武家申之、文安五年故畠山 硝榮 道南棟梁仁躰打取進之、時有勅問于關白、兼良公、以官人行向河原可請取歟云々、三月廿七日、官人行向河原、請取賊首云々、不及被懸獄門、 是又關白勅答之 内也云々、

『親長卿記』の記主は甘露寺親長。甘露寺家は弁官・蔵人を兼務し大納言まで昇進する名家である。親長自身も弁官・蔵人として後花園天皇の側近として 従事し、御土御門天皇の側近として仕えた高級貴族である。その為に『親長卿記』の大半は宮廷行事の記録等に多くが費やされているそうである。続いて二日後の八日條『親長卿記』である。

八日晴、南方賊首、奉行頭辨、春房朝臣持參、次來十一日十二日云々、十二日分仰也、官人行向河原可請取云々

続いて『重胤記』同月十二日の項にはこうある。

一、今朝卯刻、於北白川武田(信賢)陣麓、南帝御頸實檢在之、勢田判官實檢之、装束之躰立烏帽子白張著用、

細川勝元方(東軍)の武将で北白川の武田信賢の陣で「南帝」の首実検がおこなわれたというのだ。「南方餘流人」「南方(賊首)」「南帝(御頸實檢)」とあるのは日尊の事である。この日尊がどのような系譜を引く人物かは全く不明である。ただ大覚寺統の皇族らしい事を当時の人達は認識していたようで ある。

『親長卿記』文明二年十二月十八日條

十八日晴、(中略)入夜廣橋大納言申云、南方廻文、及數十通、於關所不知其所有喧嘩事露顯、於彼輩者打取云々、廻文被備叡覧、仰云、廻文被執進之條神妙、

南方による数十通に及ぶ廻文の存在が明らかにされている。場所は不明であるが或る関所での喧嘩を原因として廻文が露見したとある。


第二章 京における南帝

第一節 小倉宮王子の大和からの上洛

西軍が擁立しようとしている「南帝」は、一体誰で有るのか。この疑問に対する答えが『大乗院寺社雑事記』文明三年(1471)八月二十六日條により初めて明らかにされる。

八月廿六日、南主御上洛云々、西方御座、但小倉宮御末、岡崎前門主御息歟云々、法躰御事也云々、

この一文により西軍擁立の王とは「小倉宮御末で、岡崎前門主の子息」であることが明らかにされる。岡崎前門主の事績は不明であるが、文明二年三月に越智郷に入り、その後壷阪寺を経て越智氏の館に庇護され「南方」「南帝」「南主」と呼称されていた人物は後亀山天皇の系譜を引く小倉宮流の皇胤である事が確認されたのである。またその小倉宮王子が僧体であることも注目される。この時期小倉宮王子の情報は増加している。『大乗院寺社雑事記』同年閏八月九日條 において「後村上院之御末」である「新主上」が上洛、松梅院に入った事が記録されている。

安位寺殿入御、寶壽院御訪問爲被申太閤云々、京都西方ニ新主上被申立云々、十二三歳(十八歳云々)、此間越智壷坂寺ニ御座、經古市御上洛、北野松梅院ニ入御、但其邊御用心不可然之間、山名入道之妹比丘尼寺安山院ニ遷御、後村上院之御末云々、先日女房躰ニテ御輿ニテ、古市ヲ御通條分明也云々、安位寺殿仰也、自京都顕阿ミ罷下、同前ニ相語者也、小倉宮御息云々、御父、並御弟御座云々、

この記事を追ってみよう。

「京都の西方に新しい天皇が取り立てられたという。十二、三歳または十八歳であるともいう。この間越智の壷坂寺におられた。古市を経て御上洛され、北野松梅院に入られた。但しその辺り御用心の為に然るべき間、山名宗全の妹が住む比丘尼寺安山院に遷られた。後村上院の子孫だという。先日婦人の恰好をして御輿に乗られて古市を通られた事は明らかになった。小倉宮王子上洛に際して、父である岡崎前門主と小倉宮王子の弟宮が同行している。」

そうすると前年に畠山政長に討たれた日尊は岡崎前門主とは別人ということになる。ともあれ建武三年(1336)後醍醐天皇の吉野遷幸から数えて135年目にして南朝皇族が再び「新主上」つまり天皇として帰京したことになる。伝聞による事実誤認等は考慮しなければならないが、小倉宮王子を「小倉宮御息」とするからには、素直に読むと父である「岡崎前門主」自身が小倉宮を称していた事になろう。


小倉宮系譜


『經覺私要鈔』文明三年閏八月七日條にも「南方で王と成られるべき人」が壷坂より上洛し北野松梅院に御座した事を記述している。

或者語云、南方可王人被上洛、只今北野松梅院御座云々、爲事實者以外事也、彌両方大名諍不可止前表也、此躰者自壷坂御出云々、

東軍が擁する後土御門天皇に対抗するために西軍が南朝系皇胤を奉じた。ということは当時、大覚寺統の(南朝の)この小倉宮王子が皇位継承の可能性を有する貴種で有る事を、尋尊は認識し世間もそれを納得していた事が伺えられる。


第二節 再び日尊について

まず『大乗院寺社雑事記』文明三年閏八月十六日條を確認してみたい。

一 中御門被相語、南朝方ニ此一兩年日尊と号シテ十方成奉書、種々計略人在之、後酉酉院之御末也云々、南朝御方ニハ隨分人也、 可成將軍所存在之歟云々、去年 召取之被○了、其靈之所爲ニ法皇俄ニ崩御云々、彼靈ウツヽニ相見事及度々、然之間被立石塔種々 佛事有之被訪之其以後ハ不見靈云々、希有事也、今西方ニ御 出之南朝ハ、則日尊取立申君也云々、

現代文は次の様なものである。

「中御門が語られて言うには、南朝方にこの一、二年、日尊と号してあちこちに奉書を出して様々な計略を行っている者がいる。後醍醐天皇の子孫だという。南朝の人物ではかなり名の知れた人である。将軍と成る事が出来る存在ではないかということである。昨年捕えられて殺害された。日尊の霊が現れて、法皇(後花園法皇)が俄かに崩御された。霊は現実に現れる事が度々あり、そうしているうちに石塔を建て様々な仏事を行った。するとそれ以降は日尊の霊が現れる事は無 くなったという。稀有な事で有る。今、西方に御出の南朝はすなわち日尊が取り立てられた君であるという」

日尊もまた後醍醐天皇後裔であったのだ。しかし「南朝御方ニハ隨分人」である日尊の系譜はおろか俗名も判っていない。なお西軍の要請で大和から上洛 して「新主上」となった小倉宮王子は日尊により「取立申君」なのである。日尊は檄を十方に飛ばして兵を集っていた。「南方餘流人(『親長卿記』文明二年十 二月六日條)」であった日尊は「尾張守」つまり畠山政長に討たれている。現在までに確認されているこの時期の後南朝蜂起記事は『大乗院寺社雑事記』文明元 年十一月二十一日條「口遊南主蜂起、兄弟一所ハ吉野奥、一所ハ熊野、十方被廻宣云々、年号ハ明應元年云々」と『大乗院寺社雑事記』文明二年三月二十一日條 「南方去月末於宇惠左衛門之所被上御旗」の二件である。この時期の旧南朝盟主とは小倉宮王子を「取立申君」の立場にあった日尊であったのかもしれない。後 花園法皇崩御を日尊の霊に結び付けている事や、その霊を鎮める為の仏事の件などは「南方餘流人」とはいえ「南朝御方ニハ隨分人」「可成將軍所存在之歟」な 皇族を弑殺した事への配慮が行われており興味深い。

ここで日尊と小倉宮王子について整理してみる。

○小倉宮王子は「後村上院之御末」である・・・『大乗院寺社雑事記』文明三年閏八月九日條

○日尊は「後酉酉(後醍醐)院之御末」である=『大乗院寺社雑事記』文明三年閏八月十六日條

両者は共に大覚寺統の系譜を引く人物で、後醍醐天皇の子孫である。文明元年から三年にかけて存在が確認されている南朝皇族は次の通り。

(一)「明應元年」を称し吉野奥・熊野で蜂起した南主兄弟

『大乗院寺社雑事記』文明元年十一月二十一日條

(二)「小倉宮御息、御父(岡崎前門主と言う事に成る)、並御弟」

『大乗院寺社雑事記』文明三年閏八月九日條

(三)日尊・・・『親長卿記』『大乗院寺社雑事記』

この人物達の関連は不明であるが、(一)(二)は兄弟という共通項が有る。

なお吉田東伍編纂の『増補 大日本地名辞書』所収「藤白」項には次の様な記述があるという(未見)。

日尊者南族、亦不詳、其属文明二年春奉小倉宮猶子教尊弟某起兵、紀伊越智惟政首応之、進抵藤白、畠山義長発兵攻日尊敬、於南都殺之

「日尊という人物は南朝系の詳細不明の人物で、文明二年春に小倉宮猶子で教尊の弟「某」を擁立し挙兵した。紀伊の越智智惟という者が応じ藤白に進出。しかし畠山義長は兵を発し日尊を攻め、南都で殺害した」と指摘しているが、典拠は不明。


第三節 京における小倉宮王子

文明三年(1471)閏八月十七日の『大乗院寺社雑事記』

一 南朝御上洛事、西方諸大名沙汰也、持誓院法印者不可然旨申云々、

持誓院法印とは美濃守護代斉藤妙椿のこと。妙椿はこの年上洛し西軍に加わっている。斉藤妙椿も畠山義就同様に新帝擁立に反対している様に読める。

『經覺私要鈔』文明三年閏八月二十日條

廿日庚寅、霽 内府様御物語云、南帝只今京都へ御出王二條家門ニ御移、自其可成内裏御移云々、

霽(セイ)とは「降っていた雨が一時的に止んでいる間」を意味する。その為なのか「霽れる」と書いて「はれる」と読む。内府とは鷹司政平のこと。鷹司は「京都に上洛した王である南帝は二條家に移り、更に内裏に入られるかもしれない」と語っている。西軍による南帝擁立構想は順調に進んでいる様である。

『大乗院寺社雑事記』文明三年九月三日の條は西軍の大義名分として擁立された大覚寺統・小倉宮王子の京に於ける数少ない同行のひとつである。

小雨下南主北野御參詣云々、夜御衣等自山名方進之、今出河殿未無御參會儀云々、四條殿一向奉公云々

南主(小倉宮王子)は北野社に参詣し、山名氏によって御衣等が贈呈されたこと、「今出河殿」つまり足利義視は南主にまだ謁見しておらず、四條氏が南主に奉仕している事が記録されている。

翌々日の五日『經覺私要鈔』

 

榮清春圓大來、南帝事等子細演說了、去晦日自京罷下、直越智へ下向、今日罷上云々

『大乗院寺社雑事記』文明三年九月八日條には不思議な記載が有る。

西方新主ハ小倉宮御息、十八歳成給、今出川殿ハ御同心無之云々、自餘大名悉以同心、御禮等申入之、御器用云々、春圓大説云々、

ここには「今出川殿」こと足利義視が小倉宮王子の擁立に同意していない事が述べられている。一年前の『大乗院寺社雑事記』文明二年六月二十五日條に於いて、南帝擁立に反対していた畠山義就を説得し「同心」させたのが足利義視であった。新帝擁立推進派の義視が今度は反対しているのであるから、この間に義視になにか変心するべき事情があったか、西軍諸将の間で何らかの紛糾が起きていた可能性が有る。

また、この記事には僅かながら小倉宮王子の人物評がある。まず宮の年齢が十八歳であること。『大乗院寺社雑事記』文明三年閏八月九日條での但書の十八歳説が確認された事に成る。また「御器用(能力の有る人物)」であると情報源の栄清こと春圓によって報告されている。これは記録に残る唯一の小倉宮王子評である。

『大乗院寺社雑事記』 文明三年九月十六日

筒井律師來、對面、(中略)筒井相語、新主方仁御請申入方々請文等取之、吉野一山返事、南都衆内少々、其外諸國輩也、年號各別ニ被立之、八月御請共在之、又二宮御座之由在所見云々、

概ねこういう意味になるだろう。

「筒井(順永)律師が来て対面した。彼と語るに、新主(小倉宮王子)方に味方する方々から請文等を申入れた。吉野一山について返事を取った。南都衆のうち少々 から(返事を取った)。その他諸国の者達(から返事を取った)。年号は各別に立てられた。八月御請共これ有り。また二宮がおられるらしい」

小倉宮王子の周辺で文明年号とは異なる年号を立てた可能性があるが、肝心の年号の名称が記されていない。推測ではあるが、この年は「南主蜂起、兄弟」が打立てた「明應」の三年であったかもしれない。ここでも「二宮」の存在が再確認出来る。『大乗院寺社雑事記』 文明三年閏八月九日條には「京都西方 ニ新主上被申取立」の「後村上院御末」の「小倉宮御息」には「御父、並御弟」が御座していたことが記録されている。この「二宮」が父宮か弟宮を指すのだろ うか。

『大乗院寺社雑事記』文明四年(1472)五月廿五日條には「去廿一日夜、山名宗全入滅」との記事があるが、実際には山名宗全は文明五年に没しているので、これは誤報である。この記事の後に東西両軍の首脳に関する情報が記載されている。少々長いが引用する。応仁文明の乱に於けるこの時期の東西両軍の主要構成が判明するものとして有用だろう。

 

東方本城室町殿御所成、主上幷三種神器御座、

官領細川右京大夫勝元、

同讃岐守以下一族中數輩、

赤松次郎

武田大膳大夫

京極入道孫、九歳童、同伯父六郎、多賀豊後守

六角四郎雅延 初ハ西方也、

山名彈正 宗全之末子也、

斯波兵衛佐義敏 朝倉彈正佐衛門 初西方帳本、去年降參、

仁木

西方本城山名入道宗全屋形、南主、今出川殿御座、

山名相模守以下一族數輩、

一色、

土岐美乃守、齋藤黨持證院以下、

斯波治部大輔義廉、甲斐黨以下、

畠山右衛門佐義就、

同大夫以下一族、

六角四郎 龜壽、初東方也、山内宮内大輔、

大内新助、

京極 號黑、初東方、故入道三男、多賀出雲守、

公家輩者、

三條中納言公躬卿、故内府實雅入道息也、

西河前宰相房任、

葉室大納言教忠、

安野前中納言季遠、

同中納言公凞、同息、

四條藪中納言實仲、

.

これによると東軍は室町殿(将軍邸)を本陣とし、御土御門天皇並びに三種の神器を擁している。29年前の嘉吉三年(1443)、旧南朝を中心とする京都御所襲撃と三種の神器奪取事件(「禁闕の変」)の前例を警戒してだろうか、三種の神器は御所よりも警備が厳重な将軍邸に安置されていたことが判る。なおこの時の将軍は第八代足利義政、義視の実兄であ る。一方の西軍は山名宗全屋敷を本陣としており、御土御門天皇に対抗する形で南主が(前年九月に南帝擁立に反対していた)足利義視の前に名前を連ねている。これにより小倉宮御息=南主が皇胤であった事は間違いないだろうと考えられる。推測するに小倉宮王子(小倉宮御息)は世代的には後亀山天皇四世王にあたる。この時期に於いてなお、旧南朝皇孫が「主上」と成りえるという事が大変興味深い。小倉宮王子の行動には南朝再興の望みをかけたものもあったであろう。


第三章 応仁文明の乱後の動向

第一節 北陸における小倉宮王子

文明五年(1473)、東西両軍の大将である細川勝元が五月に、山名宗全が三月に世を去った。その後応仁文明の乱は終息へと向かうのだが、西軍という後ろ楯を失っていくこの南帝こと小倉宮王子の消息を確認したい。しかしながら新主上となった小倉宮王子のその後の史料は余りに少ない。小倉宮王子に関しては大乱期の五年間の記録が無いのである。ようやく文明九年にこのような情報が出てくる。

『大乗院寺社雑事記』文明九年(1477)十月晦日

晦日、京都一宮ハ鞍馬邊ニ近日中引退哉由、雑説且如何

一宮(小倉宮王子と考えられる)は鞍馬辺りで近日中に引退するであろう、という風説である。尋尊の小倉宮王子に対する強い関心が感じら れる。次に『晴富宿禰記』がその行方を伝えている。『晴富宿禰記』の記録者は壬生晴富。その内容は官務としての職掌に関する記事、主殿寮領を含む家領に関わるもの、そして応仁文明の乱後の社会情勢に関するものに分類できるという。

南帝(小倉宮王子)の最後の記録は、『晴富宿禰記』文明十一年(1479)七月十九日の記事に於いてである。

癸酉、晴 職業語云、以前山名入道暫所奉入安清院之南方宮、今自越後越中次第國人等奉送之著越前國北庄給之由、斯波内細川被管自國上洛語云々、

山名宗全が擁立した「安清(山)院之南宮」こと小倉宮王子が国人らに奉送されて、越後から越前北ノ庄に到着したという記事である。京にいる理由が無くなった「新主上」が再び安寧の地を求めて北陸に動座した事が想像出来る。しかし小倉宮王子の避難先が大和ではなく越後から越前にかけての北陸であったのだろうか。森茂暁氏はこの問題について次の様な意見を述べている。

―――文明十一年に「南方宮」が越前国に移ったことは、越前国と後南朝との深い関係の一端をうかがわせている。ここで想起されるのは、建武二年 (1335)10月、後醍醐天皇は比叡山から帰京するにさいし皇子恒良に譲位し、恒良を越前に下して、いわば北陸王朝を樹立しようとしたこと、また成仁(後村上院の孫)が応永十一年(1409)に地蔵院に入室して皇位継承の埒外におかれたが、成仁はそれ以前、越前国に居住していたことなどである。これらのことをふまえると、越前国も大和国などと同様に南朝所縁の地であったものと推測される(『闇の歴史 後南朝』p240)

この恒良親王、尊良親王といった後醍醐天皇皇子を奉じていた宮方の主将・新田氏が北陸を本拠地としていた事は見逃せない。南朝側の主要武将であった新田義貞は建武五年(1338年)閏七月に足利側との戦闘で越前国藤島で没している。

後醍醐天皇最後の末裔である小倉宮王子(「小倉宮御息」)はこの『晴富宿禰記』文明十一年(1479)七月の記事を最後に史上から姿を消す。同時に南朝皇胤もこれを最後として現れなくなる。南朝皇統の終焉である。

応仁・文明の乱で、東軍が持明院統の後土御門天皇と後花園法皇を擁立、西軍がそれに対抗する大義名分として大覚寺統(南朝)皇族を奉じた。明徳和約により既に「北朝」は存在しないのではあるが、文明年間の記録には、後南朝方及び小倉宮御息の呼称として「南方」「南朝」「南方殘黨」「南帝」「南主」 が使用されており、南朝のその後として認識をしている。また『大乗院寺社雑事記』文明三年閏八月九日では小倉宮御息を「新主上」その後も「西方新主」「新主」と記述している(なお同時代史料には「西陣南帝」という呼称は存在しない。後世の造語ということである)。しかしながら紀伊奥地で命脈を繋いでいた南朝の後裔(「後南朝」という言葉が出現したのは江戸後期に於いてである)については皇統を保証する系譜どころか諱さえも判明していない。にもかかわらず「新主上」擁立は、大和、紀伊辺の後南朝勢力を西軍に吸収することも併せて西軍にとりやはり利用価値があったのである。南朝とその後継集団は建武三年(1336)に後醍醐天皇の吉野遷宮から、小倉宮王子の北陸流離までの143年間存続したことになる。なお今年、平成二十五年(2013)の143年前とは明治二年(1870)となる。

廃主「小倉宮御息」との直接の関係は不明であるが、最後の記録から僅か十一日後の同じく『晴富宿禰記』に次の記録が所載されている。

『晴富宿禰記』文明十一年七月卅日

甲申、晴、出羽王ニテ侍カ、武士等致緩怠之間、令遁世テ可向高野、先暫可在八幡由自稱、而令通市原野二瀬給、其躰法師ノ四十計ナ ル、赤袴ノ上ニ白布ノ袴ヲ重テ、上ニハ装束ノ様ナル者ヲ著テ、只一人有之、從類六人在後、定テ人ニナフラル丶間遅く來歟ト云々、希代之仁成ト云々、

これも一部に意味が判り辛い点が有るが、大意としては「出羽王と称している。武士達の疎略な扱いにより遁世を志し高野に向おうとしておられる。先程までしばらく八幡に居られたと称しておられ、そうして市原野二瀬(京都市左京区鞍馬二ノ瀬町)を通られた。その御姿は法師で四十歳位で赤袴の上に白布の袴を重ねて、上には装束の様なも のを着て只お一人でおられる。従者六人を連れてはいるが、きっと人に弄られる間遅く来たかと。世に稀なるお方だという事だ」

文明三年で十八歳とされる小倉宮王子は、文明十一年時点では二十六歳となるだろうから武士達に見放されたという「出羽王」と年齢的に合致しない。仮にこの王が「西方新主(小倉宮王子)」由縁の人物だと仮定するならば、その父である岡崎前門主という考えも浮かぶところだが結局のところそれ以上の事は判らない。時期的に非常に近接する事からしばしば指摘される系譜不詳の流離する王である。なお出羽王が通過したという市原野二瀬は先程の『大乗院寺社雑事記』文明九年(1477)十月晦日條「晦日、京都一宮ハ鞍馬邊ニ近日中引退哉由、雑説且如何」での鞍馬から南南西に2㎞程の距離であることから、年齢への違和感と二年間という時間差を別にすると両者が同一人物であった可能性を感じる。

◇終章 事実経過

最後に応仁文明の乱に関連した後南朝の動向の事実関係を整理しておく。「南方」「南帝」などの呼称は原典となる史料記載のものとする。

●享徳二年(1453)小倉宮王子誕生、父は岡崎前門主

(文明三年八月二十六日時点で十八歳とみなした場合)

●文明元年(1469)十月五日 西陣の計略により、越智氏が「南方」を迎えるという風説

●文明元年(1469)十一月二十一日 「南主兄弟」、吉野奥、熊野で蜂起。明應元年を宣言する。

●文明二年(1470)二月末 「南方」、宇惠左衛門の所で挙兵~三月八日 「南方」、藤白に進出~三月二十四日 「南方」、越智郡橘寺周辺で目撃 される~七月二日 「南帝」、壷坂寺に~七月十八日 南主、越智の館(壷坂)に~十二月六日 南方餘流人(日尊)、畠山政長に討たれる

●文明三年(1471)八月二十六日 「南主」上洛、西方に~閏八月七日 「南方王」、壷坂より上洛、河内古市を経て北野松梅院に~閏八月九日  「新主上」、比丘尼寺安山院に移る~閏八月二十日 「南帝」、二條家へ移る~九月三日 南主、北野社参詣。四條氏、小倉宮王子に奉仕する

●文明四年(1472)五月廿五日 西軍本陣は山名宗全屋形。「南主」、今出川殿(足利義視)御座。

●文明九年(1477)十月晦日 「一宮」、鞍馬辺りで近日中に引退との説

●文明十一年(1479)七月十九日 「南方宮」、越後から越前北ノ庄へ

(小倉宮王子の以降の行方は不明)

.


【参考史料及文献】

『國史大辭典 2』 吉川弘文館 平成五年

『圖書寮叢刊 晴富宿禰記』 宮内庁書陵部編 明治書院 昭和四十六年

『大日本史料 第八 編之 四 御土御門天皇』 東京帝國大編 印刷局 大正六年

『大日本史料 第八 編之十一 御土御門天皇』 東京帝國大編 史料編纂掛 大正十五年

『菅政友全集 全』  国書刊行会編 明治四十年

『吉野皇子五百年忌記念 後南朝史論集』 瀧川政次郎 原書房 昭和五十六年

『村田正志著作集 第七巻 風塵録』 思文閣 昭和六十一年

『闇の歴史、後南朝 後醍醐流の抵抗と終焉』 森茂暁 角川書店 平成九年

『応仁の乱』 永島福太郎 至文堂 昭和四十三年


一心公平無私

2013-04-24
このエントリーをはてなブックマークに追加

.


大宇陀本郷の又兵衛桜に別れを告げ、次に向かったのは東吉野村鷲家~小川。
静かな山間部の村、ここは天誅組終焉の地として知られている。
現地に赴いて初めて知ったのだが、今年は天誅組挙兵150年に当たる。

それでは「天誅組挙兵」とはどのような事件なのだろうか。平凡社の『日本史大事典』第四巻「天誅組」の項にはこうある。

「一八六三年(文久三)八月に大和で挙兵した尊攘激派グループ。
この年中央政局を動かした尊攘派のうち、真木和泉らのたてた攘夷親征計画により、八月 十三日に孝明天皇の大和行幸の詔が出された。これを機に大和の天領占拠をめざして、土佐の吉村虎太郎、備前の藤本鉄石、三河の松本奎堂らを中心とし、公卿中山忠光を擁して結成されたのが天誅組である。八月十四日に京都を出て、大坂と河内を経て大和に入り、十七日に五条代官所を襲撃して代官鈴木源内を殺害し、代官所支配地の朝廷直領化、本年の年貢半減などを布告した。はじめ土佐、筑後久留米、鳥取などの脱藩士が多かったが、河内の庄屋層が加わり、京都政変 (八月十八日)が伝えられると、十津川郷士の大量動員をはかった。二十六日、めざす高取城攻撃に失敗すると十津川郷士の離反が相次ぎ、さらに諸藩兵の追討 を受けて敗走を続け、九月二十四日、大和吉野郡鷲家口(わしかぐち)の激戦で多数の犠牲者を出して壊滅した」


天誅組の挙兵から壊滅まで僅かに40日、この間の天誅組の動向は相当に複雑である。確かに言えることは天誅組が壊滅した地がここ東吉野村鷲家ということである。

久留米の神官真木和泉は吉田松陰亡き後の幕末における尊皇攘夷運動の最重要人物。
土佐勤王党出身の中村虎太郎は「寅太郎」表記もあり、現在東吉野村では吉村寅太郎で統一しているようである。

京都政変(八・一八政変)は、長州藩やそれに与する公家の三條実美、姉小路公知、 澤宣嘉(後に澤宣嘉は福岡藩士であった平野國臣に擁立され、天誅組に呼応する為但馬の国生野で蜂起するも失敗(生野の乱)、澤は長州に逃亡、平野は幕府の命で殺害されている)ら尊皇攘夷派を薩摩藩、会津藩の公武合体派が京から追放した政変である。この事件はいわゆる「七卿落ち」に至る。この時真木和泉は七卿と行動を共にしている。

結果天誅組は賊軍とみなされてしまうが長州へ逃亡する事なく、大和に踏み止まり十津川郷士1200名を募兵、そのまま高取城攻撃を行っている。これに失敗した後に士気を喪失した十津川勢は天誅組を離脱。十津川郷の指導者 野崎主計は責任感を持った人物であったのだろう。後に自裁しており、その誠実な人柄を感じさせる辞世が残っている。

大君に 仕へぞまつる その日より 我身ありとは 思はざりけり
討つ人も 討たるる人も 心せよ 同じ御國の 御民なりせば

 
昭和62年(1987)建立「天誅組終焉之地碑」
 
吉村寅太郎 辞世歌
吉野山 風にみだるる もみぢ葉は 我が打つ太刀の 血煙と見よ
.
 
[右写真/天誅組遺跡](原文のまま)
文久三年九月二十七日、天誅組主将中山忠光卿らの安否を気づかい、木津川より山越えをしてここまでたどり
着いた総裁吉村寅太郎は大岩(寅太郎原えい処)の下流約三十メートル左岸の山際にあった薪小屋に潜伏休憩
中に発見密告され、藤堂勢金屋健吉の手の銃弾にて無念の最期をとげた。

 
10月に挙行される『天誅組150年記念行事/天誅組サミットと天誅志士の慰霊大法要』の情報は
http://www.vill.higashiyoshino.nara.jp/tentyugumiibento201311.26.27.html


天誅組三総裁の一人、吉村寅太郎 原瘞処(ゲンエイドコロ)、天誅組終焉の地である。

吉村は地元民に、「病気平癒の吉村大神儀」として手厚く葬られたそうである。「瘞」は「えい」と読み、「埋める」という事を意味するらしい。この場所からほど近いところで吉村寅太郎は戦死する。自尊心の強い半面、茶目気の有る人柄が皆に愛されていたという。

死の間際の言葉は「残念」
僅か150年前、27歳青年の最期の言葉である。

三総裁の他の二人、松本奎堂、藤本鉄石も天誅組による最後の戦闘である鷲家口での戦いで戦死。中村寅太郎総裁の遺骸は当初ここに埋葬されていたが、明治28年(1895)が天誅組三十三回忌に、他の天誅組隊士と共に明治谷墓地に合祀されている。そのため「原瘞」なのであろう。多くの地図が「原えい」と表記しているので意味が解り難い。

主将中山忠光ら主従七名は辛うじて鷲家口の幕府勢の包囲を突破、大坂の長州藩邸に逃れることが出来たが、その後忠光は下関で暗殺され、現在下関市の中山神社祭神として祭祀されている。

奔放、矯激な性格であったらしい公家中山忠光の甥にあたる祐宮(サチノミヤ)は後に長州により擁立され慶応4年(1868)に即位、明治天皇となられる。なお忠光の曾孫の一人が流転の王妃として知られる嵯峨浩(愛新覚羅浩、満洲国皇弟溥傑妻 )であることから、中山神社境内には愛新覚羅溥傑、愛新覚羅浩、愛新覚羅慧生(天城山中で没)を祭神とする愛新覚羅社祀られている。

(写真右上)天誅組軍旗、観心寺参拝時に木綿に「七生賊滅天后照覧 中山侍従罷通る」と墨書きしたもの。「天后」とは陰陽道でいう十二天将のひとつで“航海の安全を司る女神”を意味するという。「照覧」は「(神仏が)御覧になる」という意味。ここでの「賊」とは幕府である。

天誅組隊士の多くは新しい世を迎える事は出来なかったが、維新政府は天誅組の事績を忘れてはいなかった。現在、天忠組(天誅組)隊士の多くは靖國神社に合祀されている。

 


【大和路散策】又兵衛桜と大坂五人衆

2013-04-13
このエントリーをはてなブックマークに追加

.


.

大和を散策しました。

又兵衛桜を観察するために宇陀(奈良県宇陀市大宇陀本郷)へ。
ここ本郷地区は標高400m弱程に位置した雰囲気の良い山里です。当日は天気快晴、気温12度。平日でありながらも多くの観光客が又兵衛桜を愛でる為にこの山間に来ております。樹齢三百年とされる枝垂桜の又兵衛桜は平成12年(2000)にNHKが放送した大河ドラマ『葵 徳川三代』のオープニング映像に使用されたことで一躍広く世間に知られるところとなりました。

「又兵衛」とは大坂の陣で豊臣家を守護する為に参集した浪人衆の中で、特に大名級の武将「大坂五人衆」のひとり後藤又兵衛基次を指すそうです。宇陀市観光連盟の解説では「大阪夏の陣で活躍した戦国武将後藤又兵衛が当地へ落ち延び、僧侶となって一生を終えたという伝説が残り、この垂れ桜が残る地も、後藤家の屋敷跡にあることから地元では“又兵衛桜”と呼ばれて親しまれている」とのこと。


又兵衛桜遠景

大坂五人衆にはその他に真田信繁、長宗我部盛親、毛利勝永、明石全登といった人物がいる。
大坂の陣とは徳川家康(を盟主とする全国の大名衆)と豊臣秀頼(の呼び掛けに応じた浪人集団、10万人とも)との間の決戦であったが、その一方で関ヶ原合戦で石田三成率いる西軍に与した結果浪人となった元大名の再起を賭けた戦いという一面も当然あった。大坂城に集まった烏合の浪人衆を束ね、実戦経験のない若い豊臣秀頼にかわり戦闘の指揮をとったのが大坂五人衆だという。


又兵衛桜近景


こちらは又兵衛桜の傍らにある桃の木々


先の真田信繁、長宗我部盛親、毛利勝永、明石全登は関ヶ原で石田三成、毛利輝元らの西軍に与同して落魄した元大名、文字通り「負け組」である。その中で後藤又兵衛基次のみは関ヶ原合戦では勝者であった。彼は東軍徳川方の筑前五十二万石の太守である黒田長政の配下の武将として戦功を挙げてさえいる。その彼がなぜ大坂城で豊臣方に付いて戦ったかのだろうか。実はこの二人、後藤又兵衛と主君黒田長政は度々衝突していたらしい。身も蓋もない話となるが主従でいがみ合った結果、関ヶ原戦後に主君と決別。又兵衛は諸国を流離した後に豊臣秀頼の招きに応じて大坂に入城したということになっている。

後藤又兵衛は大坂夏の陣で戦死する。

慶長二十年(1615)五月六日、道明寺において。東軍との激戦で銃弾で胸を射抜かれ落馬、自刃して果てた。その死を知った配下の兵は退却を断念して敵地に反転して玉砕する者が多くいた事が記録されている。又兵衛が配下の将兵の人心を良く掌握し慕われていたことは当時でも良く知られていたらしい。そしてその死を惜しむ気持から後藤又兵衛がこの地に逃れたという伝承が成立したのであろう。大坂方には豊臣秀頼を筆頭にして五人衆全員に生存説が伝承のかたちで残ったが、一方の徳川家康には大坂夏の陣での戦死説がある。これは人々の願望が反映されているようで興味深い。世間は元和偃武の演出者徳川家康を憎み、豊臣家への惜別の気持ちを抱いた。寛永元年(1624)豊臣家の盛衰を見守った秀吉の正妻高台院(北政所)が世を去り、豊臣家の記憶は過去のものとなった。

なお大坂の陣において後藤又兵衛の配下で戦死した人物に伊藤源左衛門という者がいた。元の名を伊藤祐道といい織田信長の家臣であった。その後、武士の身分を捨て尾張で「呉服小間物商いとう呉服店」を営んでいたが「大坂夏の陣が起こるや、源左衛門は義によって豊臣方に加わり、戦死を遂げた」と松坂屋HPにある。彼の呉服店が松坂屋のルーツだという。豊臣勢(西軍)に加わることは「義」だというのだ。ならばその反対、東軍に付く事は「不義」ということになるだろうか。この伊藤源左衛門の父は信長小姓の伊藤蘭丸祐広というが、同じく小姓で蘭丸と称されていた森成利とは別人である。ただ森蘭丸の弟の森忠政というのが東軍として大坂の陣に従軍している。

後藤又兵衛の同輩大坂五人衆はどうなったのだろうか。

同年五月七日、徳川家康本陣を目指した真田信繁は実際に徳川本陣を大混乱に陥れたのち、四天王寺近くの茶臼山北麓一心寺で力尽きた。享年四十九歳。

土佐二十二万石の元国主であった長宗我部盛親は大坂城落城後も再起を賭け生き抜こうとした。この思いは関ヶ原合戦での石田三成が家康を討つ為生き抜こうとした姿に重なる。しかし、結局捕縛され五月二十一日京六條河原にて刑死、享年四十歳。この時には秀頼の子豊臣国松も処刑されている。僅か八歳であった。ここに豊臣氏は滅びる。

明石全登のその後は分からない。
この人物は切支丹信徒だったそうで、西軍の敗北が決定的となった時には十字架とキリスト像を掲げ、聖ヤコブ像の描かれた長旗六旒を翻しながら家康本陣を追撃した後に消息を絶った。既に禁教令を出していた反キリスト者の家康は明石全登にとり許し難い男であったに違いない。なお江戸期にはこの明石全登が九州を経て南蛮(フィリピンだろうか)亡命に成功したとの風聞が伝わっている。細川ガラシャがそうであったように自殺を禁じる切支丹の教えは当時も固く護られており、そのため明石全登の自刃は考えられず生存説が存在する。この時期には摂河泉にはキリスト教を奉じた人々が多くいた。明石全登は戦場を離脱後は彼らに庇護されたのち無事に国外に逃亡したように思う。実際、幕府の厳しい追及にも関わらず豊臣方最後の大物はその遺体が発見されなかった。

そのガラシャの子である当時三十歳の細川興秋という青年は関ヶ原合戦で東軍に属した「勝ち組」であったが弟忠利が家督相続したことを不満に思い豊臣側につき、父の細川忠興が属する東軍と戦っている。後藤又兵衛が戦死した道明寺の戦いにも参加。敗戦後父から死を命じられた。

豊臣政権下で五奉行のひとりであった増田長盛の次男に盛次という人物がいる。
家康九男の尾張 徳川義直の家臣として冬の陣では東軍の一員として従軍していた。しかし夏の陣開戦直前、何を思ったのか大坂に入城し長宗我部盛親麾下となった。西軍(豊臣方)の敗戦ほぼ必至な時、いかなる理由で豊臣方に向かったのかは不明。ただ江戸期編纂の書物の挿話には、冬の陣で増田盛次は東軍に属しながら、豊臣勢の優勢な状況を喜び、徳川勢の優勢を嘆く姿があった。これがなぜわざわざ書き留められていたのか。当時から盛次の行動の鮮烈さが話題となっていたという事に他ならない。慶長二十年五月六日、増田盛次は八尾の戦いで討ち死する。享年不明、おそらく三十五、六歳。

豊臣方には浪人だけではなくこうした不満分子ともいえる大名の子弟、そして豊臣家がキリスト教保護をちらつかせていた事から二千名程の切支丹武将が大坂城に集まっており、彼らを明石全登が統率していたとみられる。なお当時城内には七名のキリスト教宣教師が保護されていたという。左上の旗は明石全登が使用していた「花クルス」と呼ばれる旗印で、「大坂夏の陣図屏風(黒田屏風)/大坂城天守閣蔵」左隻(大坂城西側、船場を南へ向かう一隊)に明石全登の率いたと思われる部隊が描かれている。

img076

img076

豊臣方の中でもこの信仰集団の存在は異彩を放つ存在であったろうと思う。一方仏教界では豊臣家に対する忠誠を維持し続けていたのか根来寺(和歌山県岩出市)の僧兵が西軍に与している。

毛利勝永は篤実な性格の人物で敵方からもその誠実さが愛される様なところがあった。これは小説的な話ではなく当時の聞書きにそのようにある。その一方で大坂の陣の殆どの戦闘に勝利するという極めて優秀な指揮官であったが、四人衆の敗北を見届けると、最後は豊臣秀頼の介錯を務めたのち自刃。豊臣家に殉じた。秀頼二十三歳、勝永三十八歳。こうして大坂城は落城する。慶長二十年(1615)五月八日のことである。

ミクロネシア連邦大統領Emmanuel Manny Mori氏(リンク先=同国大統領事務所)はこの毛利勝永の子孫と伝わっている。

実はミクロネシアと日本との関係は想像以上に深い。大正三年(1914)第一次世界大戦が勃発すると、ドイツ帝国が占領していたこれらの地域では日本とドイツとの間で交戦も行われ、結果日本は現在のミクロネシア連邦、パラオ、マーシャル、北マリアナを含むミクロネシアを占領、南洋群島と命名している。大正九年(1920)には国際連盟から日本のミクロネシア(南洋群島)委任統治が認められ、軍政期を経て大正十一年(1922)には南洋庁という行政機関が設置され日本敗戦まで日本統治が続く。その後「南洋群島」は米国信託統治領となり独立を果たすのは1980~90年代のことである。なおミクロネシアの初代大統領はTosiwo Nakayama氏、日系二世であった。

毛利勝永十世孫に森小弁という『冒険ダン吉』のモデルとなった人物がおり、この人は青年時代には自由民権運動に参加。その後日本人として初めてのミクロネシア定住者として酋長の娘と結婚、その曾孫の一人がImmanuel Manny Mori大統領ということである。毛利勝永の本姓が森氏であったことから、大坂落城後一族が帰農した際に復姓したのかもしれない。現在ミクロネシア連邦の人口11万2千人のうち千人程が森小弁の、つまり毛利勝永の子孫だという。武士団の棟梁の末裔が遥か南方で大統領となったのだ。

昨年五月には来日され当時の野田佳彦首相と会談(リンク先=首相官邸HP)を行っている。
エマニュエル・マニー・モリ大統領の風貌が立派な武人顔に思えてくる。

二年後の2015年は大坂落城、豊臣家滅亡四百年の年となる。

【所在地】国土地理院 地形図
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?longitude=135.91970688035&latitude=34.474377360596

写真手前は本郷川。この小川は次の様に名を変え最後は大阪湾へと至る。
本郷川~宇陀川~名張川~木津川~淀川~大阪港~大阪湾。国土地理院の地形図で確認出来る。


« Older Entries
河内長野市商工会青年部オフィシャルサイト