異形の神-「常世神」信仰事件-

投稿日:2015-01-03 - 投稿者(文責):mumeijin

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常世神(トコヨノカミ)事件の記述

『日本書紀』
巻第二十四 天豐財重日足姫天皇 皇極天皇 三年

[原文]秋七月、東國不盡河邊人大生部多、勸祭蟲於村里之人曰、此者常世神也。祭此神者、到富與壽。巫覡等遂詐、託於神語曰、祭常世神者、貧人到富、老人還少、由是、加勸捨民家財寶、陳酒、陳菜六畜於路側、而使呼曰、新富入來。都鄙之人、取常世蟲、置於淸座、歌儛、求福棄捨珍財。都無所益、損費極甚。於是、葛野秦造河勝、惡民所惑、打大生部多。其巫覡等、恐休勸祭。時人便作歌曰、禹都麻佐波、柯微騰母柯微騰、枳舉曳倶屢、騰舉預能柯微乎、宇智岐多麻須母。此蟲者、 常生於橘樹。或生於曼椒。曼椒、此云褒曾紀 其長四寸餘、其大如頭指許、其色緑而有黑點。其皃全似養蠶(1)

[現代訳]秋七月に、東国の不尽河(富士川)のほとりの大生部多という人が、虫を祭ることを村里の人々に勧めて、「これは常世の神だ。この神を祭る人は、富と長寿とを得るぞ」と言った。巫覡達も人々を欺き、神のお告げだと言って、「常世の神を祭るなら、貧しい人は富を得、老人は若返るぞ」といった。その上、民に勧めて家の財宝を捨てさせ、酒を並べ、野菜や六畜(中国で馬・牛・羊・豚・犬・鶏)を道ばたに並べて、「新しい富が入って来たぞ」と呼ばわらせた。そこで都鄙の人々は常世の虫をとらえて座に安置し、歌ったり舞ったりして幸福を求め、珍しい財宝を捨ててしまったが、何の益もなく、損ばかりがはなはだしかった。この時、葛野(京都盆地)の秦造河勝は、人々が惑わされているのを憎み、大生部多を打ちすえた。巫覡たちは恐れて人々に祭りを勧めるのを止めた。そこで人々は、「太秦は 神とも神と 聞こえ来る 常世の神を 打ち懲ますも(太秦の河勝様は、神の中でも神という評判の高いあの常世の神を打ち懲らしになったことよ)」という歌を作った。この虫は、いつも橘の木や曼椒(山椒)に生まれ、長さは四寸余り、大きさは人差し指程、色は緑で黒の斑点が有り、形は蚕にそっくりであった(2)


皇極天皇治世

これは皇極天皇三年(西暦644)七月、常世神信仰を広げた大生部多(オオフベノ オオ(3))という人物を、秦河勝が打ちすえた、という事件である。常世神は「緑色、黒色斑点をした、橘の木に生まれ、蚕に良く似た形の虫」であることからアゲハチョウの幼虫(写真)であろうというのが通説となっている。

推古天皇に次ぎ史上二人目の女性天皇となる皇極天皇の治世(在位642-645)は長雨、旱魃、客星(怪星)、暖冬、冷夏、地震といった気象の異変が多かったという。皇極天皇元年(642)6~8月は特に大変な日照りであった。民は初め村々の祝部(ハフリベ=広義の神職で、「巫覡(シャーマン)」を連想させると共に、祝部や巫覡の身分は民衆に近かった事が判る)が教えた通りに、牛馬を殺し、それを供えて諸社の神々に祈ったり、市をしきりに移したり、河伯(カワノカミ)に祈禱した(隨村々祝部所教、或殺牛馬、祭諸社神。或頻移市。或禱河伯(4))が効果が無かった。次に蘇我蝦夷が「寺々で大乗経典を転読し、悔過をして恭しく雨を祈るべき」と多くの僧を集めて発願したものの、僅かに降雨が降っただけであった。そこで天皇は南淵(明日香村)の川のほとりで四方拝を行い、天を仰ぎ雨乞いを行った。すると雷鳴とともに大雨が五日間降り続け、国中の百姓は大喜びし天皇の徳を讃えたとある(天皇幸南淵河上、跪拜四方。仰天而祈。卽雷大雨。遂雨五日。溥潤天下。或本云、五日連雨、九穀登熟。於是、天下百姓、倶稱萬歲曰、至德天皇)。

天変地異の記録が非常に多い皇極天皇記事のなかで、茨田池(マムタノイケ/マンダノイケ(5)の異変の記述に注目してみたい。

是月、茨田池水大臭、小蟲覆水、其蟲口黑而身白。八月戊申朔壬戌、茨田池水、變如藍汁、死蟲覆水。溝瀆之流、亦復凝結、厚三四寸。大小魚臭、如夏爛死。由是、不中喫焉(この月=「皇極天皇二年(西暦643)七月」、茨田池の水が酷く臭くなり、小さな虫が水面を覆った。その虫は、口が黒く、体が白かった。八月十五日、茨田池の水は、また変わって藍の汁の様になった。死んだ虫が水面を覆い、溝瀆(ウナテ=用水路)の流れもこりかたまり、その厚さは三、四寸ばかりであった。大小の魚は夏に腐れ死んだように臭って、とても食用にはならなかった)。

茨田池はこの後、同年九月「水漸々變成白色。亦無臭氣」し、翌十月に「池水還淸」している。なお都でも知られていたはずの茨田池の記録は案外少なく、現在此の池の名残と伝承される湖沼はあるものの、明確な痕跡として確認はなされていない。

この茨田池の異常の前後の書紀の記録には、蘇我氏の横暴が多く記述されており、異常気象を蘇我氏の悪徳を強調すべく不吉な事象を結びつけた記述ではないかとの指摘もなされている。茨田池の「水腐り、虫死に、魚腐る話しは、みな後漢書などの五行志の書き方に似る(6)」。果たして脚色であろうか。

皇極五年(645)6月12日、中大兄皇子により入鹿が討ち取られ、13日入鹿の父・蘇我蝦夷は自害(乙巳の変・大化の改新)、14日、皇極天皇は同母弟・軽皇子に皇位を譲り、孝徳天皇として即位、これが譲位の最初の例とされている。孝徳天皇治世(645-654)に、初の元号「大化」が制定され、中大兄皇子と中臣鎌足が天皇を補佐した。なお孝徳天皇崩御後に皇極(皇祖母尊、当時「上皇」の尊号が存在しなかった)が斉明天皇として再び皇位に就いた。これが我が国初の重祚となる。


「常世神」信仰について

書紀の記述を信じるならば、七世紀に大生部多という人物がアゲハチョウの幼虫を常世神(トコヨノカミ)と称し、これを祭祀すれば富貴と不老長生を得ると喧伝、巫覡(フゲキ/カムナ キ=シャーマン)が媒介して東国(富士川周辺地域)の民衆の間で流行した。彼等は民衆に対しては私財放棄を勧奨する一方で、酒・野菜・肉を道端に並べて「新しい富が入った」と人々を誘った。民はこれを信じて、アゲハチョウの幼虫を座に安置し、歌舞を行い、財産を(恐らく大生部多に)寄進したという。この流行は都まで及んだが、「求福棄捨珍財」の結果は「都無所益、損費極甚(益無く、損ばかり)」であった。秦河勝は、人々が常世神信仰に惑わされている事を憎み、大生部多を打ちすえ、巫覡達は(秦河勝の威を)恐れ、人々に祭りを勧めるのを止めた。

国史大辞典には「常世神」と共に上田正昭氏により「常世国」が立項されているが、“常世”という名称との関連をどうみるかは議論があろうかと思う。

【常世神】
「常住不変の異郷。常世郷とも書く。『古事記』の神話に国作りを終えた少名毘古那神(少彦名命)が常世国へ渡ったと記し、『日本書紀』の神話では淡島に到り粟茎にはじかれて常世郷に至ったと伝える。『日本書紀』神武天皇即位前紀では三毛入野命が常世郷に赴いたとし、また『古事記』垂仁天皇段(『日本書紀』では垂仁天皇九十年二月条)に多遅摩毛理(田道間守、たじまもり)が常世国へ派遣されて「時じくの香菓(かぐのみ)」を求めた説話がみえる。常世国の観念には、本来、海上他界観が濃厚であり、神仙思想と結びついて不老長生の国とも意識されるようになった。

また個人の現世的欲求を求めた常世神信仰について、「その祭祀の内容・儀礼は不老長生富貴に基礎をおくことは明確であって、道教信仰に由来するものであることは明らかである。日本へ伝来した道教は教団道教でなく民間道教であったが、この常世神の運動は、中国の教団道教の原段階であった五斗米道と近似している。その意味で、日本における教団道教の初現的なものとして注目される」という見解がある(7)が、これ以上の実態は判明しておらず謎の“神”といえる。

これが我が国最古の新興宗教事件-常世神信仰事件-の顚末である。「常世神」という異端の神は、これ以降の記録が残されておらず、チョウの幼虫を神と崇め、私財を寄進しながら更なる個人の欲望を求めた奇妙な熱狂は消滅したと考えられる。


大生部氏について

常世神運動の中心人物である富士川辺の人物・大生部多についての記述は書紀の記載のみで詳細は不明であり、大生部は長らく不詳の氏とされていたが、平城京跡等で発掘された天平年間の木簡から「伊豆国田方郡棄妾郷埼里戸主大生部祢麻呂」「伊豆国田方郡棄妾郷埼里大生部安麻呂」「伊豆国田方郡棄妾郷瀬前里大生部古麻呂」「伊豆国田方郡棄妾郷許保里戸主大生部真高」と記されたものが発掘された(8)ことで、富士川畔とはいえないが、大生部氏が伊豆国(田方郡)由縁の人であることが判明した。木簡記載の天平七年といえば西暦715年となるので、常世神事件で「打ちすえられた(これの意味するところは不詳であるが)」大生部多の一族はその後も伊豆国周辺に本拠を持っていたと推測される。なお「棄妾郷」は現在静岡県沼津市西浦木負としてその地名が現存している(9)。天平年間に記録された郷名「棄妾(キショウ)」は、十三世紀の歳月に耐え「木負(キショウ)」として今も記憶されているのである。


(1)原文『日本古典文学大系68 日本書紀 下』岩波書店 昭和62年
(2)現代語訳『日本書紀Ⅲ』中央公論新社 平成15年
(3)大生部多氏は「オオフベ」「オオミブべ」「オオシミブべ」の何れかで訓むと思われる。
『日本書紀索引(六國史索引)』吉川弘文館(平成6年)には「オオウベノタ」と立項されている。
(4)これらはいずれも支那風の雨乞い行事とのこと。我が国では行われていないとされる「或殺牛馬、祭諸社神」だが、潤色の可能性も考えられる。
(5)茨田池、現在の大阪府寝屋川市を中心に広がっていたとされる池
(6)『日本古典文学大系68 日本書紀 下』p274補注 岩波書店 昭和62年
(7)下出積與「常世神」『國史大辭典 10』吉川弘文館 平成9年
(8)『平城宮発掘調査出土木簡概報(二十二) 二条大路木簡 一』P24~25
奈良国立文化研究所 平成2年
(9)『謎の渡来人 秦氏』水谷千秋 文藝春秋 平成21年
『人物叢書 秦河勝』井上満郎 吉川弘文館 平成23年


 

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