【探訪】郷社「池神社」-奈良県下北山村大字池峰-

投稿日:2015-01-16 - 投稿者(文責):mumeijin

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[撮影]平成27年1月15日 小正月

池神社は明神池(奈良県下北山村大字池峰)の東南岸に位置しており、水の神とされる市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)が御祭神。なお市杵島姫命は本地垂迹(仏や菩薩が救民の為、日本の神の姿となり出現すること)においては辯才天とされており、その辯才天はもとはインド神話に起源をもつ“河川の女神”が仏教とヒンドゥー教に取り入れられ、その姿は琵琶を弾く天女として表されている、とのこと。明神池の別称が「琵琶池」とされているのはひとつにこれが理由なのかもしれない。

神仏習合の頃(明治以前)は「池峯大明神」とされていたが創祀や由緒は不明。下北山村のHPには次の様な役行者伝承が解説されており興味深い。


「池神社」についての詳しい記録は火災によって全て消失しており、本殿の奥に祀られている「絶対秘仏」の御神像が何であるのかは、ずっと謎のままでした。宮司すら、開けることを許されていなかったからです。しかし明治元年の「神仏分離令」の直後に神社の氏子総代を務めた人物のひ孫にあたる村の古老(2011年現在で88歳)が、江戸時代生まれの祖母から御神像のことについて伝え聞いていました。その像は錫杖を持ち、膝を立てていたといいます。つまり「役行者像」だという(後略)


「池峯大明神」→「池大明神」→「池神社」と現在の名となったのは明治六年のこと。
元は池峯村小字辻堂というところに鎮座していたものを、元和年間(1615-1625)現在地に遷座したという。池神社の例祭は11月3日で、境内社として天照神社、菅原神社、大山祇神社が本殿の背後に鎮座している。

また境内に「下北山報效會」が明治三十九年(1906)に建立した「日露役念碑(1)(2)」がひっそりと佇んでいる。石碑背面には日露戦争(明治37年(1904) – 明治38年(1905))に従軍した下北山村池峰出身者の名が刻まれているのだが、一世紀の風雪に耐え、読み辛くなって来た氏名を判読していくうち、喉の奥が熱くなる感情を抑えられなくなる。紀伊半島の最深部から、国家存亡の危機を賭けた総力戦に従軍した人々が確かに存在していたことにである。また明治四十年の下北山村の人口は3,474人(『角川日本地名大辞典 29 奈良県』)であったということで、現在(559世帯、人口 1,039人/平成22年10月調査)の三倍以上の人口を擁していたことに驚かされる。

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もともと明神池の南端は現在の赤鳥居まであったが、明治初年に埋め立てられた。今は池神社と明神池の間に国道425号線が通っているが、池神社と明神池はひとつの聖域としてみなされている。


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標高およそ四百米程の地点に広がる明神池、この付近は「池の平」と呼ばれており、位置としては大峰山脈の最南端に当たると言って良いだろう。無風の夜には星が池に映り込み美しいそうであるが、日中でも山間の湖沼というものは神秘的な雰囲気が漂っている。

明神池は周囲1km程で水深1.5~7mと起伏が有る県下最大の天然池。20万年前に川底が隆起して、川が堰き止められ出来た「川跡湖」になるという。なお明神池自体が御神体(聖域)であることから、奈良県神社庁による「不浄な行為は慎むべし」の立て札が注意を促している。

下北山村では『「明神池」の七不思議』と題して此の池に関する伝承や禁忌とされる行為をホームページに掲載している。御注意を。


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明神池から東南に向って直線20kmで熊野灘となる。初春を想わせる陽光が気持ちを躍らせる。
写真は花窟神社(ハナノイワヤ ジンジャ)近くから撮影。

上北山村、下北山村の「北山」とは太平洋側の熊野や新宮から見た北方山岳地域を指しただろうことが想像される。熊野(三重)・新宮(和歌山)の文化風土が、北山川を遡上して北山(奈良)の地に影響を与えているように感じたのだが、「上・下北山村」の西隣の十津川郷がその北方の吉野・五條からの影響や結び付きが強い土地である事とを比較すると面白い。


 

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