[紀元二六七八年]橿原神宮参拝 -紀元節(建国記念日)-

投稿日:2018-02-14 - 投稿者(文責):mumeijin

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台湾建国と日本の弥栄祈願のため、紀元節の日に建国の地・橿原神宮と、神武天皇御陵に参拝致しました。天気には恵まれましたが、寒風厳しい一日となりました。そのためだろうか、例年に比べるとやや参拝者が少なく感じました。
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神武天皇と紀元祭
橿原神宮庁発行の冊子『紀元祭』
戦前の紀元節は、戦後「建国記念の日」として復活。橿原神宮の最も重要な祭祀(例祭)は2月11日の紀元祭

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橿原神宮の御祭神は、神武天皇と皇后の媛蹈鞴五十鈴媛命(ヒメ タタラ イスズヒメ)。古事記によると皇后の父は天照大御神の弟スサノオの子孫である大物主神(大国主神の和魂とされる)。天照大御神の五世孫が神武天皇であるので、天照大御神の子孫と、スサノオの子孫同士の婚姻ということにある。なおタタラといえば製鉄を連想させるが、媛蹈鞴五十鈴媛命の出自である出雲の製鉄技術の大和への伝播との関連性が指摘されているという。

ところで「神武天皇即位日=紀元節=建国記念の日は、なぜ2月11日なのか?」という問題である。

神武天皇紀元、略して「皇紀」は、160年前の明治5年(1872)11月に公定されたものである。
明治5年(1872)11月9日に、この年12月3日を明治6年(1873)1月1日とする太陽暦採用の詔書が出され、その直後の明治5年11月15日「太政官布告第三四二号」によって、明治6年=紀元二五三三年とすることが諸外国に通知されている。同時に神武天皇即位の日を祝日とすることが決定されたのだが、これが現在の「建国記念の日」の始めとなる紀元節である。

紀元節 神武天皇
民間団体による幟、一番左端のものは神武天皇から今上陛下までの歴代天皇の諡号が記されていた
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2月11日、これは明治初期に太政官地誌課長の塚本明毅(1833-1885)もしくはその周辺の人物らが算定したものである。その算定方法の過程を塚本は「今般御歴代御祭日推歩仕候モ、干支ニ相立、簡法相立、僅数十日ニテ出来仕、且御祭典ニモ干支而巳相用候モ有之候間、御据置ノ方可然候」と記している。

端的に言うと「干支によって、簡法を立て」算定したといっているのだが、肝心の「簡法」の方法がどの様なものなのか判然としておらず、何度か変更したことから、学者などから「明治政府の役人が適当に算出した日で科学的根拠がない」という批判を受ける結果となっている。戦後、紀元節の復活に異を唱え、また「南京事件」の存在を肯定する発言などにより、赤い宮様とも呼ばれた三笠宮崇仁親王もその一人である。

そのため、第一回紀元節(明治七年/1874)は、皇室や国家機関においては盛大に執り行われたものの、民間では「神武建国」を祝うということが浸透しなかった。また当時の日本人には誕生日を毎年祝うという習慣自体が無かったそうで、天皇誕生日(天長節)への関心も薄く、節句(五節句:神社本庁による「節句」の解説→)を中心とする生活スタイルが重視されていた。

日本国民が紀元節や天長節を、公の行事として強く意識したのは、大日本帝国憲法発布(明治二十二/1889/2/11)以降のことであったようである。

[参考]『研究史 神武天皇』星野良作 吉川弘文館 昭和五十五年


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橿原神宮外拝殿と畝傍山(198.5m)

周辺でひときわ目立つ畝傍山は、死火山で元々は現在の2倍以上の規模があったが、年月をかけて侵食され、現在のような形になったそうである。また畝傍(うねび)の意味は、「田の畝」のようにくねくねした尾根を多く持つところから名付けられ、記紀では、「畝火山」「雲根火山」「宇禰縻夜摩」「御峯山」などと表記されているそうである。

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橿原神宮境内にある神武天皇御陵、参拝者は少ない。


 

 

 

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