「皇紀(紀元)」概念(平成二十六年=紀元二六七四年)は140年前と新しい

投稿日:2014-02-10 - 投稿者(文責):mumeijin

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歴史的事件を起点として年代を数える方法に「紀元」というものがある。

世界で最も広く使用されている紀元はキリストの生誕を起点とする西暦であろう。またイスラム教国家では、ムハンマドがメディナに遷った年を紀元としており聖遷紀元(ヒジュラ暦)、一般にはイスラム暦と呼ばれるものがある。複数の暦法が存在するインドでは1957年に統一したインド国定暦というものが制定されており、ユダヤ民族国家イスラエルでは当然ながらユダヤ暦を公式の暦としている。

また台湾で西暦と共に使用されているのが民国暦である。清朝末期に康有為が孔子生誕(前551)を起点とする孔子紀元というものを唱えていたが(*1)、武昌蜂起(1911年10月10日)に始まる辛亥革命の結果、中華民国成立年(1912年1月1日)を元年とする民国紀元(中華民国暦)が使用され、国共内戦で中国国民党が台湾へ遁走してからも使用が続けられており、三年前の2011年(平成23)には「中華民国建国百周年」を記念する行事が大きく行われていた。なお100年前の中華民国建国時、台湾は日本統治時代(1895-1945)に当たる。台湾で国民党が「中華民国建国100周年」を主張するという事は中国国民党による台湾不法占領の問題を喚起する。大陸で成立した中華民国は、共産党に敗れた後、その後継政権(熱烈な台湾人意識の持ち主は「中華民国=亡命政権」と断定する)を軍事占領中の台湾に樹立する以外に存続する事が不可能であったのだ。

我が国では、神武天皇の橿原宮即位を起点とした神武天皇紀元(「皇紀」と略称される)がある。2674年とは遠大な歴史、由緒有る様に思える。

しかし実際には神武天皇紀元(皇紀)は140年前の明治5年(1872)11月に公定された新しい概念である。明治5年(1872)11月9日に、この年12月3日を明治6年(1873)1月1日とする太陽暦採用の詔書が出され、その直後の明治5年11月15日「太政官布告第三四二号」によるもので、明治6年=紀元2533年とすることが諸外国にも通知された(*1)。この時に併せて神武天皇即位の日を祝日とすることが決定されている。これが現在の「建国記念日」(2/11)の始めとなる紀元節である。

それでは皇紀元年の算出はどのように行われたのだろうか?おおよそ次の様なものとなる。

皇紀(こうき)
「日本書記」は神武即位を「辛酉年春正月庚申朔」と記しているが、皇紀ではこの年を西暦紀元前六六〇年とする。その根拠は年の干支が辛酉に当たる年は天の命が革まるという古代中国の辛酉革命説にあった。古代中国では干支一循六〇年を一元、七元の三倍二一元を一蔀と呼び、とくに重要な周期としたが、皇紀の算出の際は推古天皇九年辛酉を西暦六〇一年に比定し、そこより一蔀(一二六〇)前の辛酉の年を神武天皇即位の年に当てた(*)

神武天皇即位年代を推測するにはあまりに粗雑な方法である。平成26年(2014)は皇紀2674年。繰り返しとなるが逆算すると(2674-2014=660)、皇紀元年とは西暦紀元前660年になる。これは縄文時代末期、もしくは弥生時代最初期に該当するという説も有る。また邪馬臺国の女王卑弥呼は2世紀後半から3世紀中頃の人物と考えられる。すると神武天皇即位後、900年後に卑弥呼が史上に現れるという奇妙な状況になる。平成二十六年=皇紀二六七四年を主張するほど神武天皇の実在性を妨げる結果となるのだ。合理的的解釈の可能性は幾つか学説があるものの、ここでは述べない。

いずれにせよ日本固有の紀元として明治初期に創出された神武紀元(皇紀)が広く使用された期間は、第二次世界大戦終結までの70年間程であり、それ以降は神社関係で使用されるなど限定的なものとなっている。これが連綿と続く年号(元号)との違いである。

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紀元二千六百年式典を報じる朝日新聞(昭和15年11月11日 月曜日 臨時夕刊)


(*1)
清朝末期、革命軍は清朝の年号(宣統)を廃止し、黄帝紀元4609年(西暦1911)を採用したが、孫文らにより民国紀元(中華民国暦)が使用された。

(*2)
この時期の太陽暦採用に関しては明治政府の財政危機によるものという次の説が以前から指摘されており興味深い。
「太陽暦採用は開国による諸外国との外交・通商上の便宜を図るためだったには違いないが、この時期に唐突に施行されたのは、当時明治政府が深刻な財政的状況にあり、改暦によってわずか二日となる明治五年十二月分と旧暦のままなら生ずるはずの明治六年閏六月分との二ヵ月の官吏俸給を節約でき、また旧暦下では諸官省の休日が一と六の日と定められ、月六回、年七二回に上がったが、これを西暦によって日曜日のみとすることで大幅に削減できたからだとされている」
『日本史大辞典 3』平凡社 平成9年

つまり給与削減策の一環として太陽暦が緊急に採用されたというのが、有力な説なのである。

(*3)『日本史大事典 3』平凡社 平成九年(1997)「皇紀」の項


 

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