幸哉、依小人虚詐、成大謀高譽

投稿日:2015-06-11 - 投稿者(文責):mumeijin

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楠木正成公像   楠木正成公像 (2)
楠木正成騎馬像 於 高鴨神社(奈良県御所市)   『七生報國/陸軍大将 本庄繁謹書』

Q.楠木氏の発祥地はどこであったのだろうか。やはり河内国(大阪府南部)なのか?

A.駿河国入江荘(静岡市清水区)の可能性がある。


これまで楠木氏の出自を河内国に求めることが多かった。楠木正成(?-1336)が河内で挙兵し、後醍醐天皇の建武政権下で河内・和泉守に就任したことから本貫地=河内国というイメージが先行していた結果である。現在、楠公生誕地が大阪府南河内郡千早赤阪村水分(スイブン/ミクマリ)の地比定され、楠木正成館址とされるものや楠公産湯井戸までしつらえられているが、あくまで地元での伝承の粋を出ておらず、学術的検証に耐えられるものではない。なお史上「楠木」姓の初見は、『吾妻鏡』建久元年(1190年)十一月七日条に見出すことが出来る。源頼朝の東大寺落慶供養にともなう上洛に随行する武士団の名前のなかに楠木四郎という人物が見出されている。

『吾妻鏡』建久元年十一月七日条
四十一番 玉井四郎 岡部小三郎 三輪寺三郎
四十二番 楠木四郎 忍三郎 同五郎
四十三番 和田五郎 青木丹五 寺尾三郎太郎

「頼朝の上洛は、日本を平定した武威を朝廷に示したもので、その随従の武士もまた幕下の精鋭を選ったものである。従って楠木四郎もかなり名のある武士と思われる(植村清二『楠木正成』中央公論社 平成元年)」。しかし楠木四郎に関するこれ以上の情報はなく、次に楠木氏が史上に表れるのは、永仁二年(1294)「河内楠入道が、播磨国(兵庫県西南部)大部荘に乱入」した事件であり、これは東大寺文書に記載されている。この河内楠入道と楠木四郎との関係は不明である。『吾妻鏡』に併記される忍(おし)氏が武蔵国の武士団であることから、楠木四郎も関東方面に本拠があったと思われるのである。

近年の研究では、楠木氏の出自が駿河国にあるという根拠が推測を含めたうえで、以下の様に提示されている。

(A)楠木氏の根拠地には観心寺がある。この南河内の名刹は、鎌倉中期には有力御家人である安達義景(1210-1253)が管理権を有していた。この義景の三男が霜月騒動(弘安八年/1285)で滅亡した安達泰盛である。観心寺の支配権がこの泰盛に受け継がれていたとすれば、泰盛死後に幕府は観心寺領に得宗被官人を送り込んだ可能性がある。

(B)正応六年(1293)七月、駿河国入江荘の長崎郷の一部と楠木村が鶴岡八幡宮に寄進されたと言う記録がある。この寄進の直前、当時権勢を誇っていた平頼綱が主君である九代執権北条貞時により誅殺される事件(平禅門の乱)が発生している。ゆえにこの土地が平頼綱の没収された土地、いわゆる闕所地であったと推察出来、この地が北条得宗家の支配下にあったと考えられる。そしてこの楠木村には楠木氏が居住したと思われ、当然楠木氏は得宗被官人であったであろうこと。霜月騒動で安達氏は入江荘長崎郷所縁の長崎氏に滅ぼされており、長崎氏と同郷の楠木氏は安達氏滅亡後に観心寺荘に幕府の代官として送り込まれた、のではないか。

(C)元弘元年(元徳三/1331)九月、北条得宗被管人・楠木正成は討幕をかかげて河内国赤坂城で蜂起する。僅かな手勢で関東勢を引き付けたものの、結局赤坂城は落城する。元弘三年(1333)閏二月、再挙兵した楠木正成を鎮圧出来ずにいる強大な幕府勢の不甲斐無さを嘲笑する京童の落首を二條道平が次の様に記録している(『後光明照院関白記』正慶二年(1333)閏二月一日条)。御醍醐天皇に近かった二條道平は注意深くこれを採録していたものと思われるが、感心するばかりである。

「くすの木の ねハかまくらに成るものを 枝をきりにと 何の出るらん」

意味は「楠木の本拠地はもとは鎌倉にあるにもかかわらず、楠木正成(連枝)を討伐するために、わざわざ河内までやってきている」との解釈が成り立つ。「鎌倉」を地名とともに北条得宗家を指すことも出来るが、当時の京の人々は御醍醐天皇挙兵に最初に応じた楠木氏がルーツを東国に持つ得宗被官人であることを知っており、それを踏まえたうえで楠木追討に鎌倉から河内、大和に馳せ参じて来た強大な幕府勢を嘲笑しているのである。

金剛山遠景
楠木正成が幕府勢を相手に立て籠もった千早城の位置する金剛山遠景


湊川の戦い(建武三年/1336) で楠木正成は没する。その後も楠木氏は南朝の主力として正行、正行、そして正勝が楠木党棟梁を引き継いだとされ、反幕行動を継続するが、次第に勢力は衰退。南朝自体が明徳の和約(明徳三年/1392)により北朝と和睦を成立させると消滅する。同時に楠木氏の動向も次第に不明なものとなっていく。

ところが伏見宮貞成親王(フシミノミヤ サダフサ シンノウ/第百二代 後花園天皇の父)が日記『看聞御記』において、永享元年(1429)に楠木光正という人物が密かに南都(奈良)に潜伏、将軍足利義教暗殺を企図して捕縛されたことを記録している。永享九年は楠木正成湊川合戦から93年後であり、その子正行が四條畷で戦死してから81年を経過している。楠木氏の足利氏に対する抵抗がいかに長期間に亘っていることかが解る。なお数多く存在する楠木氏系図に光正の名は記載されておらず、唯一『看聞御記』にのみ名が残っている。謎が多い楠木氏の最後の行動者も、また謎の人物であった。恐怖政治によりその名を残した足利義教の暗殺を企てた豪胆さ、死を前にした楠木光正の矜恃に貞成親王が感嘆している様子がうかがえる。そしてまた光正の言葉からは成否は真の目的ではなかったかの様な印象を受ける。いずれにせよ彼は後世に名を残した。


『看聞御記』永享元年九月十八日
十八日雨下、楠木僧躰也、俗名五郎左衛門尉光正、被召捕上洛、此間南都ニ忍居、是室町殿御下向為伺申云々、筒井搦取高名也、為天下珍重也、

廿四日、晴、先日被召捕楠木、今夕於六條河原被刎首、侍所赤松、所司代六七百人取囲斬之、切手魚スミ、其躰尋常ニ被斬、先召寄硯紙作頌、
幸哉、依小人虚詐、成大謀高譽、珍重々々、
不來不去攝眞空 萬物乾坤皆一同 即是甚深無二法 秋霜三尺斬西風

なか月や、すゑ野の原の草の上に、身のよそならできゆる露かな
我のみか、誰が秋の世もすゑの露、もとのしづくのかゝるためしぞは
夢のうち、都の秋のはては見つ、こゝろは西にありあけの月

永享元年九月廿三日 楠木五郎左衛門尉光正 常泉
見物人河原充滿、自南都御使立、急可斬之由被仰、其形僧也、頌歌等天下美談也、楠木首四塚ニ被懸云々、

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【現代訳】
9月18日 降雨。楠木は僧体である。俗名は五郎左衛門尉光正、奈良(=南都)へ向かう室町殿(六代将軍足利義教)を狙い奈良で潜伏していたところ、筒井(順覚か?=興福寺一乗院坊人)によって捕縛された。

24日 晴 先日捕えられた楠木は京都六条河原で斬首された。侍所(サムライドコロ)は赤松氏、所司代は六~七百人でこれを警戒した。執行人は魚住某である。楠木光正は硯と紙を取り寄せ、詩一篇と和歌三首を書き残した。

幸哉、依小人虚詐、成大謀高譽、珍重々々、
(幸いかな、小物の虚詐で、大謀高誉を成した、めでたい目出度い)

不來不去攝眞空 萬物乾坤皆一同 即是甚深無二法 秋霜三尺斬西風
なか月やすゑ野の原の草のうへに身のよそならてきゆる露かな
我のみかたか秋の世もすゑの露もとのしつくのかゝるためしそ
夢のうちに宮この秋のはてはみつこゝろは西にあり明の月

永享元年(1429)9月23日 楠木五郎左衛門尉光正 法名常泉
見物人が六条河原に充満、奈良から将軍義教の使いがやって来て、急いで斬るべきと仰せであった。楠木光正は僧形で、詩と和歌は天下の美談となった。そして京都四塚に於いて梟首された。
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