[論語]実践躬行(ジッセン キュウコウ)/実践の大切さ

投稿日:2014-07-15 - 投稿者(文責):mumeijin

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実践躬行
「實踐躬行」李登輝 揮毫
(みたままつり初日7/13 靖國神社境内[撮影]森本淳一氏)

実践躬行(ジッセン キュウコウ)の語源は元来戒めの言葉のようである。
原典とされる『論語』(金谷 治訳注/ワイド版 岩波文庫/平成二十二年版/P80)にはこうある。


子曰、古者、言之不出、恥之不逮也/(里仁第四 二二)
(先生がいわれた、「昔の人がことばを〔軽々しく〕口にしなかったのは、実践がそれに追いつけないことを恥じたからだ)

現在では、おおよそ「理論や信条を、口先ではなく実際に実践する事の重要さ」を意味する言葉となっている。また「躬(キュウ)」とは=「自ら」を意味し、「躬行実践」と反転された使用法も有るとのこと。

世間では多くの言論が飛び交っている。談論風発、百家争鳴、結構なことだろうと思う。その一方、饒舌な批評に終始し、結局は傍観者に徹した生き方を選ぶ事も少なく無い。それを孔子は弟子に対して恥であると戒めているのだ。確かに非実践者は多弁というのは、日常でも感じられる現象であり、多くはそれを恥とも自覚しない。饒舌さを誇る、その背景には無行動であることを恥とは思わない精神が窺える。

論語は多弁を上辺のものとして嫌う。世上有名な「巧言令色鮮矣仁」他に次の記述がある。
『論語』(金谷 治訳注/ワイド版 岩波文庫/平成二十二年版/P41)

子貢党君子、子曰、先行其言、而後從之/(為政第二 十三)
(子貢(=孔子の弟子)が君子のことをおたずねした。先生はいわれた、「まずその言おうとすることを実行してから、後でものを言うことだ」)

語られる以上の事が行われることは無いのだ。


 

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