【国史研究】応仁・文明の乱における旧南朝(後南朝)皇族の動向

投稿日:2013-09-15 - 投稿者(文責):mumeijin

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◇序章 小倉宮家とは

小倉宮とは室町時代前中期に存在した後亀山天皇後裔の宮家である。

南朝(大覚寺統)最後の天皇、後亀山天皇の皇子・小倉宮恒敦を初代とし、その子聖承を二代、聖承の子息教尊まで系譜を辿る事が出来る。村田正志は『小倉宮の史實と傳説』で恒敦宮を以って「良泰親王」とし親王宣下が行われたとするが、その根拠は不明である。

小倉宮

明徳和約(南北朝合一)により後亀山天皇が京都嵯峨の大覚寺に隠棲して後、大覚寺統の諸王の一部が嵯峨小倉山に 居住したことから小倉宮の宮号が生まれたとされる。南朝(大覚寺統)の天皇は後醍醐天皇(九十六代)、後村上天皇(九十七代)、長慶天皇(九十八代)そして後亀山天皇(九十九代)を以ってその最後とする。しかし、その後も小倉宮皇孫が中心となりいわゆる後南朝という後継勢力が存続される。後南朝については前述の村田正志による「南北両朝が合一の後、南朝の皇族や将士が、南朝再興をはかり、断続的に武力抗争した運動」との解釈が妥当である。しかし南北両朝合一後は「北朝」も「南朝」も無い訳であるから本来は旧南朝とすべきなのかもしれない。ただ明徳和約以降の史料において変わらず「南朝」「南方」「南朝殘党」「南主」「南帝」もしくは「吉野殿」といった呼称が行われているのもまた事実である。

元中九年(明徳三年/1392年)閏十月南北両朝の和議が成立、皇位継承に関しては大覚寺統(南朝)と持明院統(北朝)による両統迭立が約束されていた。しかし足利義満はこれを無視し持明院統の後小松天皇(百代)譲位後に、その皇子である實仁親王が践祚、称光天皇(百一代)として応永十九年(1412年)即位させている。これに先立つ応永十七年(1410)十一月、後亀山上皇は嵯峨を出奔し吉野に遷っており、また正長元年(1428)七月、上皇の孫小倉宮聖承が嵯峨 から北畠親房の曾孫にあたる伊勢国司北畠満雅を頼り出奔。北畠満雅は聖承を奉じ挙兵するが幕府軍との戦闘で敗死、聖承は結局降伏して永享二年 (1430)には帰洛している。

村上源氏出身の公家である北畠氏が伊勢国司とされるのは、南北朝期に南朝から伊勢国司に補任されたことに始まる。南北朝合一後も朝廷や幕府の文書・記録類に北畠氏をさして伊勢国司とあっても、それはあくまで北畠氏の通称として使用されていたのであり、朝廷や幕府が『伊勢国司』を制度上の所職として認めていたわけではないとのこと。この時期の「伊勢国司」とは通称ということである。なお北畠氏は文明三年(1471)頃、伊勢守護職を補任されたと考えられている(大薮 海 『室町時代の「知行主」-「伊勢国司」北畠氏を例として-『史學雑誌』第116編第11号 史學会 平成十九年)。なお国司制は守護の設置によりその実態を失っており戦国時代には、いわゆる「三国司(姉小路氏、土佐一條氏、北畠氏)」を最後として消滅する。しかし制度としては明治維新までは公家や大名らの身分、栄誉職としては存続していたとのことである。

「御位競望の宮」(『椿葉記』)と目されていた聖承の王子教尊は、永享二年(1430)十一月将軍足利義教の猶子となり真言宗勧修寺門跡に入室、皇位回復の望みは絶たれた。その後教尊は嘉吉三年(1443)旧南朝による禁闕の変(京都御所襲撃、三種神器奪取事件)への関与が疑われ同年幕府により隠岐島に配流されている。

小倉宮聖承には同時代史料のなかに圓寂(死去)に伴う簡潔な略歴がある。『建内記』嘉吉三年(1443)五月九日條がそれである。

後聞南方小倉宮、後醍醐玄孫、後村上曾孫、後亀山院御孫、故恒敦宮御子、去正長比出勢、依懇望歸京之後、以子息爲普廣院御猶子、入 室勸修寺門跡、其身得度、法名聖承云々、俗名可尋之、近年自嵯峨移住下京邊給、近日所勞邪氣云々、圓寂云々、與海門和尚同日、希代事也、南北兩朝、元弘建 武以兩不安不休之處、近年無争論止干戈、今巳歸皇統自然天運之理、可云神慮、遺領等附属勸修寺宮云々、彼弟小生歟、而先年巳先父云々、於今者彼御流斷絶了

「以子息爲普廣院御猶子、入室勸修寺門跡、其身得度、法名聖承云々、俗名可尋之」とは「(聖承は)子息(教尊を指す)を普廣院(第六代将軍 足利義教)の猶子として勸修寺門跡に入室させ、自ら得度(出家)、法名を聖承としたが、俗名は分からない」という意味になる。この記事によると同じ日に海 門(承朝)が入滅したが、海門和尚の父長慶天皇と聖承祖父の後亀山天皇は兄弟の関係となる。聖承の遺領は御子の勸修寺宮教尊に譲渡されたが、教尊には「彼弟小生」がいたようである。すると聖承には少なくとも二王子がいたことになる。ただ「而先年巳先父」とあるので、既にこの教尊の弟は没している可能性もあ る。

なお二年前『建内記』嘉吉元年(1441)七月十七日條に嘉吉の乱に関する次の記事がある。

南方御子孫小倉入道宮御末子奉盗、播州赤松歟(カ)云々、

「南方御子孫小倉入道宮」とは当時三五、六歳の聖承だろうと思われるのだが、その「御末子」が播州の赤松氏により「奉盗」られたというのだ。やはり 教尊には弟がいたことが推察される。これは先程の『建内記』の記述と合致する。同一人物で有ったろうか。この「小倉入道宮御末子」のその後は不明である。

そしてここに小倉宮家は断絶したと思われた。


しかしその後も小倉宮と称される系譜不明の皇親の存在が散見されている。

その最後の王子は、応仁文明の乱の最中である文明二年(1470)に山名宗全(持豊)を主将とする西軍の援助のもと大和から上洛。東軍の後土御門天皇に対抗する「新主上」の役割を得る。しかし大乱の終息と共に、北陸地方を流離したのち史上から姿を消す人物である。この時期の南朝皇胤の常として宮の諱は不明である。『大乗院寺 社雑事記』文明三年閏八月九日條に於いて「小倉宮御息」とのみ記述されているに過ぎない。「小倉宮御息」とは小倉宮の御子息という意味である。以降 は便宜上「小倉宮王子」と、もしくは史料表記に基づく表記を行いたい。新たな知見も無く、主に単純な史料解釈となるが後醍醐天皇最後の皇胤となる小倉宮王子の足跡を追ってみたい。


第一章 小倉宮王子上洛以前の動向

第一節 文明元年(1469)に於ける行動

『大乗院寺社雑事記』に於いて小倉宮王子だと推定される王が最初に登場するのは文明元年十月五日條に於いてである。

自箸尾藤徳方申上云々、南方自□□御上洛、越智御迎進之之由、光宣法印□□□上之由、光秀相語者也、自先日世間及此沙汰、西陣之計略云々、希有事也、

これによると越智氏(家栄)が王子を迎えようとしており、これは西陣の計略であるとしている。応仁文明の乱に於いて西軍が後南朝の王子を迎えるという情報が初めて記載された一文である。「希有事」という論評が為されている。

応仁文明の乱は応仁元年(1467)から文明九年(1477)の間、畠山氏、斯波氏そして足利将軍家の家督争いを契機として、東軍細川勝元と西軍山 名宗全とを総大将として京を中心に争った大乱である。文明五年(1473)に細川勝元、山名宗全が相次いで没したが、その後も内乱が止む事は無く、時代は 戦国時代へと引き継がれる。西軍は山名宗全邸宅を本陣としており、これが西陣の名の起こりである。

越智家栄は大和国の有力国人。高市郡高取城を本拠として、南大和に勢力を維持していた。この時期、河内守護畠山氏や幕府とも接近して活発な行動を 行っている。畠山政長、同義就の内紛に関しては一貫して義就方に加担、積極的に支援を行い、応仁文明の乱後には南大和を統一している。なお越智氏は一乗院属し、南北朝期には南朝を支持し、明徳和約後も旧南朝勢力との関係が深い。すなわちこの後の小倉宮王子の大和高取への逗留等を考える際に納得し易い。

この時期の『大乗院寺社雑事記』の記録主は大乗院門跡尋尊(1430-1508)である。父は関白一條兼良。八歳の時、経覚の後を継ぎ興福寺の子院 である大乗院門跡に第二十七代門主として入院している。康正二年(1456)に興福寺別当となり、長谷寺、橘寺、薬師寺の別当も兼務している。当代随一の 知識人でもあり、『大乗院寺社雑事記』での記述は政治、経済に広い範囲にわたっており、名門一條家という出自のもあり、京に於ける幕府、朝廷の動向に関し ても詳細である。南朝のその後(後世にいう「後南朝」)についても尋尊は深く関心を寄せており、幾つもの記録が残っている。ここでは出来るだけそれらを紹介したい。

先程の記事の翌月、『大乗院寺社雑事記』文明元年十一月二十一日條に南朝皇族の動向が記されている。

口遊南主蜂起、兄弟一所ハ吉野奥、一所ハ熊野、十方被廻宣云々、年号ハ明應元年云々、希有事也、

ここで「南主」兄弟が、一方が吉野の奥で、もう一人が熊野に於いて蜂起した。あちこちに命令を出すと共に独自に「明應元年」という年号(私年号)を定めているという。この南主兄弟の蜂起が『大乗院寺社雑事記』文明元年十月五日條で計画されていた旧南朝王子擁立の最初の具体的行動であった様である。しかしこの兄弟宮が一体いかなる系譜を継ぐ皇族であるのか不明である。これ以前にも後南朝は幾度か蜂起を行っていたが、年号を定めたというのは信頼出来る史料に於いて初めての事で有る。この吉野奥と熊野(現在の三重県熊野市)での蜂起とは、三年前に勃発した応仁文明の乱に乗じた後南朝勢力の反攻である。なお「口遊」は「くちずさみ」と読み、「風聞に依ると」程の意味で有る。

この時期の南方蜂起は既に室町幕府に対し脅威を与える勢力では無かった、というよりはその存在自体が忘却されていたのではないかという思いがする。しかしながら南朝勢力が明徳和約から七十七年が経過したこの時期に紀伊半島に於いていまだ勢力を維持していたという事実が確認されるのである。


第二節 文明二年(1470)に於ける動向

この年三月十六日の『大乗院寺社雑事記』には前述の「南主蜂起」及び、その余波について次の様に記録されている。

難波新左衛門自大和和泉庄上洛、去々年分御年貢未進少々致催促罷上了、相語云、南方蜂起条事實也、廻分御使僧於和泉国召籠、所々御請文等取返于京都、和泉國ハ大略南方ニ参申、露顯上者両守護可令下向歟云々、

ここでは南主兄弟の蜂起が事実である事、南主兄弟の命令書であろう廻分を所持していた使者僧が和泉国(現在の大阪府南部)で幕府の人により捕縛された事、また和泉国の大半が南方に応じている事が記されている。この廻分を出した人物は誰なのであろうか。これについては後述する。この時期から『大乗院寺社雑事記』には後南朝関連の記事が多く記載されており、これは後南朝勢力の行動が活発になった事を意味する。

これまで紀伊国での後南朝勢力が蜂起したという情報が尋尊のもとに漠然と伝わっていたが、更なる動向が記事となっているのが『大乗院寺社雑事記』同月二十一日の條である。

       

南方去月末於(紀州紀田郡)宇惠左衛門之所被上御旗、中將教政自越智馳參畢、當月八日藤白仁御出云々、郡者共大略成御方、皆以畠山義就之披官人等云々、以外大義也、宇知郡狩野之説也、

上の文は概ねこの様な意味と成る。南方(後南朝勢力)が二月末、紀州紀田郡(有田郡の誤記であろうか)住人の宇惠左衛門のもとで旗を挙げ、翌三月八 日に藤白(紀伊国海南郡)に進軍している。紀(有)田郡の者達は大方が味方となっており、それらは紀伊国守護の畠山政長と対立する従兄弟の畠山義就の配下 の国人(被官人)達に従う者が多かったという。この一連の挙兵と先の南朝皇胤「南主兄弟」との関連は不明である(ただこの「南方」の領導人が後述する南朝末裔とされる日尊という王であると断定する研究者もいる)

『大乗院寺社雑事記』文明二年(1470)三月二十五日條は小倉宮王子(「小倉宮御息」)とみられる人物の姿が描写された最初の記録である。以下の通り。

楠葉備中守相語、南方御旗以下被上越智郷歟、御勢共ニ於橘寺邊奉見之由、備中之中間相語云々、不審事也、長櫃三荷上下七十騎計、本人兩人ハ錦直垂云々、昨日事也云々、

これによると、錦の直垂を着用した「本人両人」が随兵七十騎、長櫃三荷を従えて橘寺(大和国高市郡)周辺で目撃されたというのである。昨日の事とあるので三月二十四日の事である。次に後花園法皇(第百二代天皇)は、熊野検校を兼務した聖護院准后道興を通じて熊野三山宗徒が旧南朝勢力の挙兵(南方残黨 蜂起)に与しなかった事を賞し、なおその討伐を命じる院宣を出している。この事を所収しているのは『若王子神社文書』文明二年四月二十六日の條である。

今度就南方残黨蜂起、不及同心、存忠之由被聞食了、尤以神妙也、彌抽精祈、可致軍功之由、可令下知熊野三所給、者院宣如此、仍言上如件、兼顯謹言、  四月廿六日 權右中辦兼顯 奉

 四月廿六日   權右中辦兼顯 奉

  進上 聖護院僧正御房

就今度南方殘黨蜂起、院宣如此、別而被抽懇篤可被專軍忠由、檢校(原文は手偏)僧正御房御氣色所候也、仍執達如件、

   文明二

   五月廿二日   權少僧都經親 判

上書如此、但長床別帋也、二通、

 熊野本宮長床衆徒三昧御中

 新宮    衆徒神官御中

 那智山   執行法院御房

紀州で兵を挙げた後南朝勢力は各地の旧南朝勢に対して挙兵を促していた事が判る。しかし結局熊野社はこの呼び掛けには応じなかったのである。

尋尊の『大乗院寺社雑事記』文明二年五月十一日條では、応仁文明の乱の西軍により小倉宮王子を禁中に迎える計画がなされている。少し長いが重要と思われるので引用する。

南帝事内々計略子細有之歟云々、如風聞者、西方大名以下悉以同心、可奉入内禁云々、院内御留守衆公卿・殿上人、則可致奉公之由内々 申合子細有之歟云々、希代事也、去年以来御蜂起之間、畠山衞門佐一人難義之由申入之間、于今延引、其故ハ紀州・河内事南主御領也、楠木分國之間迷惑之由相 存歟、仍西方大名共不一同、依之于今遅々也、畠山方事内々御計略子細有之歟、於于今致同心云々、風聞可有入内裏支度云々、為事實者尚々公家滅亡之基也、

これは明らかに東軍(主将細川勝元)が奉じる御土御門天皇(第百三代)・後花園法皇に対抗出来る権威として、西軍(主将山名宗全)が南朝皇族の小倉宮王子を担ぎ出したものである。西軍大名は悉く同意したにもかかわらず、畠山義就はひとり「南帝」推戴に反対している(畠山衞門佐一人難義之由)。現代文にするとこの様になるだろう。「南帝の事は内々に子細な計略が有ったのだろうか。噂によると西軍大名は皆悉く賛成したという。内裏に入り奉られるべきだと。御留守衆、公卿、殿上人は即ち(南帝に)奉公する事を内々に申し合わせていたとか。稀代の事ではある。昨年以来の蜂起の間、畠山義就が一人で文句を 言っているので、今まで南帝擁立計画は引き延ばされていた。その理由は紀州・河内は南帝(南主)の御領地だからであり、楠木氏の分国であるからだ。それに より西軍大名は一致せず今まで遅々としていた。畠山義就には何らかの計画が有るのではないか。だが今に成ってようやく南帝の擁立に同意したという。南帝は 内裏に入られる心積もりが有る様である。これが事実であるならば公家(ここでは公家ではなく天皇、皇室を指す)滅亡のもとである。

◇『大乗院寺社雑事記』文明二年六月六日條◇

この件については翌月に更なる記述が有る。『大乗院寺社雑事記』文明二年六月二十五日條

吉田相語、南方御蜂起事、於于今者事實云々、西方大名同心、此間者畠山右衞門佐、就紀州内兩國事、令存六借歟云々、不同心處、諸大 名並權大納言殿被仰子細之間、於畠山モ同心云々、和州儀越智計略云々、伊勢国司一左右未聞云々、於南主者近所ニ御座歟云々、御手者少々紀州合戦云々、高野山ハ南方云々、根比ハ北朝方也、當國布施以下可帰國支度、來秋可有合戰云々、

一部に意味が判然としない点も有るが、大まかに補足しながら訳してみよう。「南方の蜂起は事実である。西軍の大名は同意した。この間畠山義就は紀州、(河)内両国の事が有るので同意しなかったが、諸大名と權大納言殿(足利義視)に説得されようやく同意するに至った。大和の事は越智家栄の計略である。伊勢国司(北畠教具か)の動向については聞かない。南主達は近くにおられる様で、配下の者は少々、紀州合戦云々。高野山は南方、根来寺は北朝方であった。当国 布施以下帰国支度をすべきである。秋には合戦が有るという。

ここでも南帝擁立に西軍大名が同意しているが、畠山義就は紀州、河内を後南朝に奪われる事を恐れていたが、諸大名や足利義視の説得に応じ結局「同心」するに至ったという事で有る。次に同年の『大乗院寺社雑事記』七月二日條に於いては「南帝」と称されていた小倉宮王子が壷阪寺におり、厳重に保護されているが、越智氏はその事を知らないとある。原文は次の通り。

慶英瓶子并瓜等持參之、慶英相語云、南帝ハ壺坂寺ニ御座、越智ハ無存知分と云々、毎日供御以打火等致其沙汰、嚴重無双云々、興憲法師爲彼寺學頭下向相語云々、

その二週間後、『大乗院寺社雑事記』文明二年七月十八日條

昨日宗藝法師來、於當國可有合戰歟云々、布施・高田等可打入之由支度歟云々、越智十方於相語、先可入和泉・河内云々、此条不審事、 但自去年爲西方大名之沙汰、被成和泉守護職之由風聞、則可入國之由支度之處、于今不及是非条、誠以不審事也、伊勢國司ニ申合子細有之歟之由云々、南朝御事哉、南主ハ御座越智之館壺坂、給云々

引き続き、南主は壷阪の越智氏の館に滞在していることが述べられている。


第三節 日尊についての考察

次に小倉宮王子とは別の南朝皇胤の出現を見てみよう。

『親長卿記』文明二年十二月六日條には南朝の末裔が越智氏の敵方になる畠山政長により討ち取られた事が記されている。この王は翌文明三年閏八月十六日の『大乗院寺社雑事記』により日尊という名が明らかにされている。この僧名とおもわれる名を称した人物は一体誰なのか。史料を確認してみよう。

十二月六日、晴、南方餘流人打取云々、賊首京著之由尾張守注進、廻文、刀等執進上之、自武家被進仙洞、廣橋大納言持參、予執進之、 嵬 之由有仰、賊首事爲公家御沙汰可請取歟 之由自武家申之、文安五年故畠山 硝榮 道南棟梁仁躰打取進之、時有勅問于關白、兼良公、以官人行向河原可請取歟云々、三月廿七日、官人行向河原、請取賊首云々、不及被懸獄門、 是又關白勅答之 内也云々、

『親長卿記』の記主は甘露寺親長。甘露寺家は弁官・蔵人を兼務し大納言まで昇進する名家である。親長自身も弁官・蔵人として後花園天皇の側近として 従事し、御土御門天皇の側近として仕えた高級貴族である。その為に『親長卿記』の大半は宮廷行事の記録等に多くが費やされているそうである。続いて二日後の八日條『親長卿記』である。

八日晴、南方賊首、奉行頭辨、春房朝臣持參、次來十一日十二日云々、十二日分仰也、官人行向河原可請取云々

続いて『重胤記』同月十二日の項にはこうある。

一、今朝卯刻、於北白川武田(信賢)陣麓、南帝御頸實檢在之、勢田判官實檢之、装束之躰立烏帽子白張著用、

細川勝元方(東軍)の武将で北白川の武田信賢の陣で「南帝」の首実検がおこなわれたというのだ。「南方餘流人」「南方(賊首)」「南帝(御頸實檢)」とあるのは日尊の事である。この日尊がどのような系譜を引く人物かは全く不明である。ただ大覚寺統の皇族らしい事を当時の人達は認識していたようで ある。

『親長卿記』文明二年十二月十八日條

十八日晴、(中略)入夜廣橋大納言申云、南方廻文、及數十通、於關所不知其所有喧嘩事露顯、於彼輩者打取云々、廻文被備叡覧、仰云、廻文被執進之條神妙、

南方による数十通に及ぶ廻文の存在が明らかにされている。場所は不明であるが或る関所での喧嘩を原因として廻文が露見したとある。


第二章 京における南帝

第一節 小倉宮王子の大和からの上洛

西軍が擁立しようとしている「南帝」は、一体誰で有るのか。この疑問に対する答えが『大乗院寺社雑事記』文明三年(1471)八月二十六日條により初めて明らかにされる。

八月廿六日、南主御上洛云々、西方御座、但小倉宮御末、岡崎前門主御息歟云々、法躰御事也云々、

この一文により西軍擁立の王とは「小倉宮御末で、岡崎前門主の子息」であることが明らかにされる。岡崎前門主の事績は不明であるが、文明二年三月に越智郷に入り、その後壷阪寺を経て越智氏の館に庇護され「南方」「南帝」「南主」と呼称されていた人物は後亀山天皇の系譜を引く小倉宮流の皇胤である事が確認されたのである。またその小倉宮王子が僧体であることも注目される。この時期小倉宮王子の情報は増加している。『大乗院寺社雑事記』同年閏八月九日條 において「後村上院之御末」である「新主上」が上洛、松梅院に入った事が記録されている。

安位寺殿入御、寶壽院御訪問爲被申太閤云々、京都西方ニ新主上被申立云々、十二三歳(十八歳云々)、此間越智壷坂寺ニ御座、經古市御上洛、北野松梅院ニ入御、但其邊御用心不可然之間、山名入道之妹比丘尼寺安山院ニ遷御、後村上院之御末云々、先日女房躰ニテ御輿ニテ、古市ヲ御通條分明也云々、安位寺殿仰也、自京都顕阿ミ罷下、同前ニ相語者也、小倉宮御息云々、御父、並御弟御座云々、

この記事を追ってみよう。

「京都の西方に新しい天皇が取り立てられたという。十二、三歳または十八歳であるともいう。この間越智の壷坂寺におられた。古市を経て御上洛され、北野松梅院に入られた。但しその辺り御用心の為に然るべき間、山名宗全の妹が住む比丘尼寺安山院に遷られた。後村上院の子孫だという。先日婦人の恰好をして御輿に乗られて古市を通られた事は明らかになった。小倉宮王子上洛に際して、父である岡崎前門主と小倉宮王子の弟宮が同行している。」

そうすると前年に畠山政長に討たれた日尊は岡崎前門主とは別人ということになる。ともあれ建武三年(1336)後醍醐天皇の吉野遷幸から数えて135年目にして南朝皇族が再び「新主上」つまり天皇として帰京したことになる。伝聞による事実誤認等は考慮しなければならないが、小倉宮王子を「小倉宮御息」とするからには、素直に読むと父である「岡崎前門主」自身が小倉宮を称していた事になろう。


小倉宮系譜


『經覺私要鈔』文明三年閏八月七日條にも「南方で王と成られるべき人」が壷坂より上洛し北野松梅院に御座した事を記述している。

或者語云、南方可王人被上洛、只今北野松梅院御座云々、爲事實者以外事也、彌両方大名諍不可止前表也、此躰者自壷坂御出云々、

東軍が擁する後土御門天皇に対抗するために西軍が南朝系皇胤を奉じた。ということは当時、大覚寺統の(南朝の)この小倉宮王子が皇位継承の可能性を有する貴種で有る事を、尋尊は認識し世間もそれを納得していた事が伺えられる。


第二節 再び日尊について

まず『大乗院寺社雑事記』文明三年閏八月十六日條を確認してみたい。

一 中御門被相語、南朝方ニ此一兩年日尊と号シテ十方成奉書、種々計略人在之、後酉酉院之御末也云々、南朝御方ニハ隨分人也、 可成將軍所存在之歟云々、去年 召取之被○了、其靈之所爲ニ法皇俄ニ崩御云々、彼靈ウツヽニ相見事及度々、然之間被立石塔種々 佛事有之被訪之其以後ハ不見靈云々、希有事也、今西方ニ御 出之南朝ハ、則日尊取立申君也云々、

現代文は次の様なものである。

「中御門が語られて言うには、南朝方にこの一、二年、日尊と号してあちこちに奉書を出して様々な計略を行っている者がいる。後醍醐天皇の子孫だという。南朝の人物ではかなり名の知れた人である。将軍と成る事が出来る存在ではないかということである。昨年捕えられて殺害された。日尊の霊が現れて、法皇(後花園法皇)が俄かに崩御された。霊は現実に現れる事が度々あり、そうしているうちに石塔を建て様々な仏事を行った。するとそれ以降は日尊の霊が現れる事は無 くなったという。稀有な事で有る。今、西方に御出の南朝はすなわち日尊が取り立てられた君であるという」

日尊もまた後醍醐天皇後裔であったのだ。しかし「南朝御方ニハ隨分人」である日尊の系譜はおろか俗名も判っていない。なお西軍の要請で大和から上洛 して「新主上」となった小倉宮王子は日尊により「取立申君」なのである。日尊は檄を十方に飛ばして兵を集っていた。「南方餘流人(『親長卿記』文明二年十 二月六日條)」であった日尊は「尾張守」つまり畠山政長に討たれている。現在までに確認されているこの時期の後南朝蜂起記事は『大乗院寺社雑事記』文明元 年十一月二十一日條「口遊南主蜂起、兄弟一所ハ吉野奥、一所ハ熊野、十方被廻宣云々、年号ハ明應元年云々」と『大乗院寺社雑事記』文明二年三月二十一日條 「南方去月末於宇惠左衛門之所被上御旗」の二件である。この時期の旧南朝盟主とは小倉宮王子を「取立申君」の立場にあった日尊であったのかもしれない。後 花園法皇崩御を日尊の霊に結び付けている事や、その霊を鎮める為の仏事の件などは「南方餘流人」とはいえ「南朝御方ニハ隨分人」「可成將軍所存在之歟」な 皇族を弑殺した事への配慮が行われており興味深い。

ここで日尊と小倉宮王子について整理してみる。

○小倉宮王子は「後村上院之御末」である・・・『大乗院寺社雑事記』文明三年閏八月九日條

○日尊は「後酉酉(後醍醐)院之御末」である=『大乗院寺社雑事記』文明三年閏八月十六日條

両者は共に大覚寺統の系譜を引く人物で、後醍醐天皇の子孫である。文明元年から三年にかけて存在が確認されている南朝皇族は次の通り。

(一)「明應元年」を称し吉野奥・熊野で蜂起した南主兄弟

『大乗院寺社雑事記』文明元年十一月二十一日條

(二)「小倉宮御息、御父(岡崎前門主と言う事に成る)、並御弟」

『大乗院寺社雑事記』文明三年閏八月九日條

(三)日尊・・・『親長卿記』『大乗院寺社雑事記』

この人物達の関連は不明であるが、(一)(二)は兄弟という共通項が有る。

なお吉田東伍編纂の『増補 大日本地名辞書』所収「藤白」項には次の様な記述があるという(未見)。

日尊者南族、亦不詳、其属文明二年春奉小倉宮猶子教尊弟某起兵、紀伊越智惟政首応之、進抵藤白、畠山義長発兵攻日尊敬、於南都殺之

「日尊という人物は南朝系の詳細不明の人物で、文明二年春に小倉宮猶子で教尊の弟「某」を擁立し挙兵した。紀伊の越智智惟という者が応じ藤白に進出。しかし畠山義長は兵を発し日尊を攻め、南都で殺害した」と指摘しているが、典拠は不明。


第三節 京における小倉宮王子

文明三年(1471)閏八月十七日の『大乗院寺社雑事記』

一 南朝御上洛事、西方諸大名沙汰也、持誓院法印者不可然旨申云々、

持誓院法印とは美濃守護代斉藤妙椿のこと。妙椿はこの年上洛し西軍に加わっている。斉藤妙椿も畠山義就同様に新帝擁立に反対している様に読める。

『經覺私要鈔』文明三年閏八月二十日條

廿日庚寅、霽 内府様御物語云、南帝只今京都へ御出王二條家門ニ御移、自其可成内裏御移云々、

霽(セイ)とは「降っていた雨が一時的に止んでいる間」を意味する。その為なのか「霽れる」と書いて「はれる」と読む。内府とは鷹司政平のこと。鷹司は「京都に上洛した王である南帝は二條家に移り、更に内裏に入られるかもしれない」と語っている。西軍による南帝擁立構想は順調に進んでいる様である。

『大乗院寺社雑事記』文明三年九月三日の條は西軍の大義名分として擁立された大覚寺統・小倉宮王子の京に於ける数少ない同行のひとつである。

小雨下南主北野御參詣云々、夜御衣等自山名方進之、今出河殿未無御參會儀云々、四條殿一向奉公云々

南主(小倉宮王子)は北野社に参詣し、山名氏によって御衣等が贈呈されたこと、「今出河殿」つまり足利義視は南主にまだ謁見しておらず、四條氏が南主に奉仕している事が記録されている。

翌々日の五日『經覺私要鈔』

 

榮清春圓大來、南帝事等子細演說了、去晦日自京罷下、直越智へ下向、今日罷上云々

『大乗院寺社雑事記』文明三年九月八日條には不思議な記載が有る。

西方新主ハ小倉宮御息、十八歳成給、今出川殿ハ御同心無之云々、自餘大名悉以同心、御禮等申入之、御器用云々、春圓大説云々、

ここには「今出川殿」こと足利義視が小倉宮王子の擁立に同意していない事が述べられている。一年前の『大乗院寺社雑事記』文明二年六月二十五日條に於いて、南帝擁立に反対していた畠山義就を説得し「同心」させたのが足利義視であった。新帝擁立推進派の義視が今度は反対しているのであるから、この間に義視になにか変心するべき事情があったか、西軍諸将の間で何らかの紛糾が起きていた可能性が有る。

また、この記事には僅かながら小倉宮王子の人物評がある。まず宮の年齢が十八歳であること。『大乗院寺社雑事記』文明三年閏八月九日條での但書の十八歳説が確認された事に成る。また「御器用(能力の有る人物)」であると情報源の栄清こと春圓によって報告されている。これは記録に残る唯一の小倉宮王子評である。

『大乗院寺社雑事記』 文明三年九月十六日

筒井律師來、對面、(中略)筒井相語、新主方仁御請申入方々請文等取之、吉野一山返事、南都衆内少々、其外諸國輩也、年號各別ニ被立之、八月御請共在之、又二宮御座之由在所見云々、

概ねこういう意味になるだろう。

「筒井(順永)律師が来て対面した。彼と語るに、新主(小倉宮王子)方に味方する方々から請文等を申入れた。吉野一山について返事を取った。南都衆のうち少々 から(返事を取った)。その他諸国の者達(から返事を取った)。年号は各別に立てられた。八月御請共これ有り。また二宮がおられるらしい」

小倉宮王子の周辺で文明年号とは異なる年号を立てた可能性があるが、肝心の年号の名称が記されていない。推測ではあるが、この年は「南主蜂起、兄弟」が打立てた「明應」の三年であったかもしれない。ここでも「二宮」の存在が再確認出来る。『大乗院寺社雑事記』 文明三年閏八月九日條には「京都西方 ニ新主上被申取立」の「後村上院御末」の「小倉宮御息」には「御父、並御弟」が御座していたことが記録されている。この「二宮」が父宮か弟宮を指すのだろ うか。

『大乗院寺社雑事記』文明四年(1472)五月廿五日條には「去廿一日夜、山名宗全入滅」との記事があるが、実際には山名宗全は文明五年に没しているので、これは誤報である。この記事の後に東西両軍の首脳に関する情報が記載されている。少々長いが引用する。応仁文明の乱に於けるこの時期の東西両軍の主要構成が判明するものとして有用だろう。

 

東方本城室町殿御所成、主上幷三種神器御座、

官領細川右京大夫勝元、

同讃岐守以下一族中數輩、

赤松次郎

武田大膳大夫

京極入道孫、九歳童、同伯父六郎、多賀豊後守

六角四郎雅延 初ハ西方也、

山名彈正 宗全之末子也、

斯波兵衛佐義敏 朝倉彈正佐衛門 初西方帳本、去年降參、

仁木

西方本城山名入道宗全屋形、南主、今出川殿御座、

山名相模守以下一族數輩、

一色、

土岐美乃守、齋藤黨持證院以下、

斯波治部大輔義廉、甲斐黨以下、

畠山右衛門佐義就、

同大夫以下一族、

六角四郎 龜壽、初東方也、山内宮内大輔、

大内新助、

京極 號黑、初東方、故入道三男、多賀出雲守、

公家輩者、

三條中納言公躬卿、故内府實雅入道息也、

西河前宰相房任、

葉室大納言教忠、

安野前中納言季遠、

同中納言公凞、同息、

四條藪中納言實仲、

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これによると東軍は室町殿(将軍邸)を本陣とし、御土御門天皇並びに三種の神器を擁している。29年前の嘉吉三年(1443)、旧南朝を中心とする京都御所襲撃と三種の神器奪取事件(「禁闕の変」)の前例を警戒してだろうか、三種の神器は御所よりも警備が厳重な将軍邸に安置されていたことが判る。なおこの時の将軍は第八代足利義政、義視の実兄であ る。一方の西軍は山名宗全屋敷を本陣としており、御土御門天皇に対抗する形で南主が(前年九月に南帝擁立に反対していた)足利義視の前に名前を連ねている。これにより小倉宮御息=南主が皇胤であった事は間違いないだろうと考えられる。推測するに小倉宮王子(小倉宮御息)は世代的には後亀山天皇四世王にあたる。この時期に於いてなお、旧南朝皇孫が「主上」と成りえるという事が大変興味深い。小倉宮王子の行動には南朝再興の望みをかけたものもあったであろう。


第三章 応仁文明の乱後の動向

第一節 北陸における小倉宮王子

文明五年(1473)、東西両軍の大将である細川勝元が五月に、山名宗全が三月に世を去った。その後応仁文明の乱は終息へと向かうのだが、西軍という後ろ楯を失っていくこの南帝こと小倉宮王子の消息を確認したい。しかしながら新主上となった小倉宮王子のその後の史料は少ない。小倉宮王子に関しては大乱期の五年間の記録が無いのである。ようやく文明九年にこのような情報が出てくる。

『大乗院寺社雑事記』文明九年(1477)十月晦日

晦日、京都一宮ハ鞍馬邊ニ近日中引退哉由、雑説且如何

一宮(小倉宮王子と考えられる)は鞍馬辺りで近日中に引退するであろう、という風説である。尋尊の小倉宮王子に対する強い関心が感じら れる。次に『晴富宿禰記』がその行方を伝えている。『晴富宿禰記』の記録者は壬生晴富。その内容は官務としての職掌に関する記事、主殿寮領を含む家領に関わるもの、そして応仁文明の乱後の社会情勢に関するものに分類できるという。

南帝(小倉宮王子)の最後の記録は、『晴富宿禰記』文明十一年(1479)七月十九日の記事に於いてである。

癸酉、晴 職業語云、以前山名入道暫所奉入安清院之南方宮、今自越後越中次第國人等奉送之著越前國北庄給之由、斯波内細川被管自國上洛語云々、

山名宗全が擁立した「安清(山)院之南宮」こと小倉宮王子が国人らに奉送されて、越後から越前北ノ庄に到着したという記事である。京にいる理由が無くなった「新主上」が再び安寧の地を求めて北陸に動座した事が想像出来る。しかし小倉宮王子の避難先が大和ではなく越後から越前にかけての北陸であったのだろうか。森茂暁氏はこの問題について次の様な意見を述べている。

―――文明十一年に「南方宮」が越前国に移ったことは、越前国と後南朝との深い関係の一端をうかがわせている。ここで想起されるのは、建武二年 (1335)10月、後醍醐天皇は比叡山から帰京するにさいし皇子恒良に譲位し、恒良を越前に下して、いわば北陸王朝を樹立しようとしたこと、また成仁(後村上院の孫)が応永十一年(1409)に地蔵院に入室して皇位継承の埒外におかれたが、成仁はそれ以前、越前国に居住していたことなどである。これらのことをふまえると、越前国も大和国などと同様に南朝所縁の地であったものと推測される(『闇の歴史 後南朝』p240)―――

この恒良親王、尊良親王といった後醍醐天皇皇子を奉じていた宮方の主将・新田氏が北陸を本拠地としていた事は見逃せない。南朝側の主要武将であった新田義貞は建武五年(1338)閏七月に足利側との戦闘で越前国藤島で没している。また応安元年(1368)七月には新田義宗(義貞の子)、脇屋義治(義貞の弟脇屋義助の子・新田義治とも)らが越後、上野国境で挙兵するが敗北し、義宗は敗死、脇屋義治は出羽へ逃亡しそのまま行方知れずとなったとされる。

後醍醐天皇最後の末裔である小倉宮王子(「小倉宮御息」)はこの『晴富宿禰記』文明十一年(1479)七月の記事を最後に史上から姿を消す。同時に南朝皇胤もこれを最後として現れなくなる。南朝皇統の終焉である。

応仁・文明の乱で、東軍が持明院統の後土御門天皇と後花園法皇を擁立、西軍がそれに対抗する大義名分として大覚寺統(南朝)皇族を奉じた。明徳和約により既に「北朝」は存在しないのではあるが、文明年間の記録には、後南朝方及び小倉宮御息の呼称として「南方」「南朝」「南方殘黨」「南帝」「南主」 が使用されており、南朝のその後として認識をしている。また『大乗院寺社雑事記』文明三年閏八月九日では小倉宮御息を「新主上」その後も「西方新主」「新主」と記述している(なお同時代史料には「西陣南帝」という呼称は存在しない。後世の造語ということである)。しかしながら紀伊奥地で命脈を繋いでいた南朝の後裔(「後南朝」という言葉が出現したのは江戸後期に於いてである)については皇統を保証する系譜どころか諱さえも判明していない。にもかかわらず「新主上」擁立は、大和、紀伊辺の後南朝勢力を西軍に吸収することも併せて西軍にとりやはり利用価値があったのである。南朝とその後継集団は建武三年(1336)に後醍醐天皇の吉野遷宮から、小倉宮王子の北陸流離までの143年間存続したことになる。なお今年、平成二十五年(2013)の143年前とは明治二年(1870)となる。

廃主「小倉宮御息」との直接の関係は不明であるが、最後の記録から僅か十一日後の同じく『晴富宿禰記』に次の記録が所載されている。

『晴富宿禰記』文明十一年七月卅日

甲申、晴、出羽王ニテ侍カ、武士等致緩怠之間、令遁世テ可向高野、先暫可在八幡由自稱、而令通市原野二瀬給、其躰法師ノ四十計ナ ル、赤袴ノ上ニ白布ノ袴ヲ重テ、上ニハ装束ノ様ナル者ヲ著テ、只一人有之、從類六人在後、定テ人ニナフラル丶間遅く來歟ト云々、希代之仁成ト云々、

これも一部に意味が判り辛い点が有るが、大意としては「出羽王と称している。武士達の疎略な扱いにより遁世を志し高野に向おうとしておられる。先程までしばらく八幡に居られたと称しておられ、そうして市原野二瀬(京都市左京区鞍馬二ノ瀬町)を通られた。その御姿は法師で四十歳位で赤袴の上に白布の袴を重ねて、上には装束の様なも のを着て只お一人でおられる。従者六人を連れてはいるが、きっと人に弄られる間遅く来たかと。世に稀なるお方だという事だ」

文明三年で十八歳とされる小倉宮王子は、文明十一年時点では二十六歳となるだろうから武士達に見放されたという「出羽王」と年齢的に合致しない。仮にこの王が「西方新主(小倉宮王子)」由縁の人物だと仮定するならば、その父である岡崎前門主という考えも浮かぶところだが結局のところそれ以上の事は判らない。時期的に非常に近接する事からしばしば指摘される系譜不詳の流離する王である。なお出羽王が通過したという市原野二瀬は先程の『大乗院寺社雑事記』文明九年(1477)十月晦日條「晦日、京都一宮ハ鞍馬邊ニ近日中引退哉由、雑説且如何」での鞍馬から南南西に2㎞程の距離であることから、年齢への違和感と二年間という時間差を別にすると両者が同一人物であった可能性を感じる。

◇終章 事実経過

最後に応仁文明の乱に関連した後南朝の動向の事実関係を整理しておく。「南方」「南帝」などの呼称は原典となる史料記載のものとする。

●享徳二年(1453)小倉宮王子誕生、父は岡崎前門主

(文明三年八月二十六日時点で十八歳とみなした場合)

●文明元年(1469)十月五日 西陣の計略により、越智氏が「南方」を迎えるという風説

●文明元年(1469)十一月二十一日 「南主兄弟」、吉野奥、熊野で蜂起。明應元年を宣言する。

●文明二年(1470)二月末 「南方」、宇惠左衛門の所で挙兵~三月八日 「南方」、藤白に進出~三月二十四日 「南方」、越智郡橘寺周辺で目撃 される~七月二日 「南帝」、壷坂寺に~七月十八日 南主、越智の館(壷坂)に~十二月六日 南方餘流人(日尊)、畠山政長に討たれる

●文明三年(1471)八月二十六日 「南主」上洛、西方に~閏八月七日 「南方王」、壷坂より上洛、河内古市を経て北野松梅院に~閏八月九日  「新主上」、比丘尼寺安山院に移る~閏八月二十日 「南帝」、二條家へ移る~九月三日 南主、北野社参詣。四條氏、小倉宮王子に奉仕する

●文明四年(1472)五月廿五日 西軍本陣は山名宗全屋形。「南主」、今出川殿(足利義視)御座。

●文明九年(1477)十月晦日 「一宮」、鞍馬辺りで近日中に引退との説

●文明十一年(1479)七月十九日 「南方宮」、越後から越前北ノ庄へ

(小倉宮王子の以降の行方は不明)

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【参考史料及文献】

『國史大辭典 2』 吉川弘文館 平成五年

『圖書寮叢刊 晴富宿禰記』 宮内庁書陵部編 明治書院 昭和四十六年

『大日本史料 第八 編之 四 御土御門天皇』 東京帝國大編 印刷局 大正六年

『大日本史料 第八 編之十一 御土御門天皇』 東京帝國大編 史料編纂掛 大正十五年

『菅政友全集 全』  国書刊行会編 明治四十年

『吉野皇子五百年忌記念 後南朝史論集』 瀧川政次郎 原書房 昭和五十六年

『村田正志著作集 第七巻 風塵録』 思文閣 昭和六十一年

『闇の歴史、後南朝 後醍醐流の抵抗と終焉』 森茂暁 角川書店 平成九年

『応仁の乱』 永島福太郎 至文堂 昭和四十三年


河内長野市商工会青年部オフィシャルサイト