風説の流布

投稿日:2015-11-27 - 投稿者(文責):mumeijin

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欲求不満を持つ者にとっては、完全な論理で結合された正確な言葉よりも、辻褄の合わない興奮した話や、調子の高い繰り返しの文句の中に、自分で想像した事を発見する方が容易なのだ。
エリック・ホッファー(Eric Hoffer/米国の港湾労働者、社会学者:1902-1983)

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この写真は、いわゆる「南京事件(大虐殺)」の存在を幻として完全に否定する人々が時々引用するものであるが、文章の引用元の明記がなく、文末記載の年齢はありえない。つまり1975年に満87歳で没した蔣介石は、1966年9月時点では78歳となるはずである。これらからも学術的には無意味で眉唾な文章であろうことが判る。世間の一部で、検証されず流布され続ける『マッカーサー証言』『アインシュタインの予言』といった、一連の日本擁護論、日本讃美もの同様、あるタイプの日本人に好まれる願望の産物である。

写真記載の文章は松井石根中将(南京攻略戦最高指揮官)秘書・田中正明氏。昭和41(1966)年9月、台北で蔣介石と会見した際に蔣介石が田中正明氏に語った言葉というが、現在では田中氏の創作ということが通説となっている。この田中氏は戦後、松井岩根陣中日誌の数百か所以上を削除、加筆、誤記、文章の移動を行い、南京虐殺を否定した人物であるが、このことを本人が認めている。

つまり、この写真を引用することは、日本側の史料を平然と捏造する人物の言葉を根拠として、南京大虐殺を否定することになり、足下をすくわれかねない。また南京陥落後の日本兵と中国人の友好の写真を紹介して南京事件は存在しなかったことの傍証とする手法が流行っているが、これも南京事件非存在の証明には成り難いのではないか。都合の良い写真を持ち出したと言われればそれまでだからである。ちなみに「従軍慰安婦」問題解明の功労者である秦郁彦氏の試算では、南京での虐殺は3.8~4.2万人(新史料の発見の可能性を加味のうえ、この数字を上限として、これ以下に過ぎないという観点からの人数)としている。

「南京大虐殺」を政治利用した蔣介石、その言葉と称するものを有り難がり、事件の不存在を語らせるということは滑稽である。また繰り返されられる怪文書の出現とは、ある種の人々が真実を知りたいと思っているのではない事がわかる。ただ自分が見たいものを見ようとしているだけで、真贋は二の次なのである。そして今後も怪文書を好む人々によって、風説は流布され続けるのだ。


サンケイ新聞社が昭和51年に刊行した『蔣介石秘録12 日中全面戦争』には「南京事件」について次の様な記載がある。

「(前略)こうした戦闘員・非戦闘員、老若男女を問わない大量虐殺は二ヵ月に及んだ。犠牲者数は三十万人とも四十万人ともいわれ、未だにその実数がつかみえないほどである(後略)/p70」。サンケイが犠牲者数を「三十万人~四十万人」と提示した根拠は不明であるが、中国国民党の代弁者として南京大虐殺を喧伝した事実は残っている。

そもそも日本で、蔣介石が自由中国(その実態は個人崇拝と権威主義的な警察国家体制であった)の指導者として称讃された契機に『蔣介石秘録』の存在が挙げられる。サンケイ新聞に昭和49年8月15日~51年12月25日まで650回にわたり連載された『蔣介石秘録』は、その後(昭和50年2月28日~52 年4月)サンケイ新聞社出版局により全15巻の単行本として刊行されている(連載開始日が8月15日であるのは偶然ではないだろう。蔣介石による「抗戦に勝利し全国の軍民、および世界の人々に告げる演説」いわゆる「以徳報怨」演説が行われたのは1945年(昭和二十年)8月15日である)。

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台湾に中国(体制)を持ち込んだ蔣が宣伝した「南京大虐殺」は、共産党と共に再拡散され現在に至る

この『蔣介石秘録』は日中国交樹立・日華断交(昭和47年/1972)の二年後に連載されており、連載期間途中まで蔣は存命している(蔣の死は昭和50年 (1975)4月。その後この15巻は昭和60年(1985)に上下二巻の『改訂特装版 蔣介石秘録-日中関係八十年の証言』として内容を圧縮して再刊されることになる。この改訂特装版の冒頭の一節にこうある。

「(蔣介石秘録は)内容のすべてが、中華民国の公式記録にもとづいている。中華民国政府および中国国民党にファイルされた公的文献、ならびに蔣介石総統がみずから語ったことや、みずから書き残した記録にもとづいている。資料の中には、はじめて公開される極秘文書も少なくない。これらの資料をどうまとめ、どうやって日本文にするかは、たいへんな作業であった。そのため、サンケイ新聞社では、台北に「蔣介石秘録執筆室」を設け、古屋奎二、岩野弘、香川東洋男、下室進、住田良能の五記者と、間山公麿写真部記者を派遣して、この作業にあたらせた。日本文の執筆は古屋室長が行なった」

『蔣介石秘録』はサンケイ新聞社が、国民党政府の要請に応じ、刊行した蔣介石公式伝記である。そのため「南京事件」や二二八事件(大虐殺)などの記載に於いて国民党史観に基づいた、確信的な誤記述がなされている。「秘録」は、その後台湾の中央日報で翻訳掲載され、その後『蔣総統秘録 中日関係八十年之証言(全10巻)』として中央日報出版部から刊行された。いかなる立場で執筆刊行されていたかが理解出来るだろう。.


【南京事件(南京大虐殺)とは?】
日中戦争時の1937年12月、日本軍が南京を占領した際、多数の中国人を殺害したとされる事件。「南京大虐殺」とも呼ばれ、中国では1985年に 「南京大虐殺記念館」が開設され、2014年2月の全国人民代表大会(国会)常務委員会で、南京が陥落した12月13日を「国家哀悼日」に制定しているが、犠牲者数をめぐり日中間には論争がある。日本側の研究は「20万人を上限に、4万人、2万人などの推計がある」としているが、現在中国は30万人以上と主張している。


 

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