【映画紹介】「緑の海平線」 ~高座台湾少年工物語~

投稿日:2011-03-10 - 投稿者(文責):mumeijin

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 〜台湾少年工の物語〜

第二次世界大戦中に台湾から8000余名の少年たちが日本に派遣され、海軍工員として軍用機の生産に従事した。彼らは日本でどのような生活を送り、戦争をどう捉えたのか、そして戦後、異なる社会や体制下でいかに生き抜いていったのか。「緑の海平線」は高齢に達した元少年工の記憶を辿りながら、公的な文書の残されることのなかった東アジアの歴史を記録したドキュメンタリーである。

映画祭・受賞歴  

* 文化庁映画賞2008(文化・記録映画部門)大賞
* 第三十回行政院新聞局「金穂賞」2008 大賞(台湾)
* ゆふいん文化・記録映画祭 2008 松川賞大賞・観客賞
* 台湾南方映画祭 最優秀ドキュメンタリー賞 2006
* 台北国際映画祭 2006 審査委員特別賞
* 台湾国際ドキュメンタリー映画祭 インターナショナルコンペティション 2007

【背景】
第二次世界大戦中、労働力不足を補うため、日本は植民地であった台湾の小中学校で海軍工員の募集を行った。1943年から1944年にかけて、8000余名の台湾の少年たちが神奈川県大和市にあった海軍空C廠(のちの高座海軍工廠)に派遣された。その後、日本各地の軍需工場で軍用機の生産に従事するが、日本の敗戦でその任務は解除され、翌年、多くの少年工たちは台湾に戻ることとなった。しかし、一部の元台湾少年工にとってはこれが新たな苦難の始まりでもあった。


台湾の少年たちはどのような理由で少年工に応募し、日本にやってきたのか。彼らの個人的な事情を当時の社会的な背景と共に明らかにされていく。台湾の少年たちが日本で軍用機の生産に関わったのはわずか1年から2年であったが、この短い日本での経験が彼らの一生を大きく左右することにもなった。「緑の海平線」は、台湾から神奈川県の高座海軍工廠に派遣された少年たちの異なった人生の歩みと彼らの多様な視点を通していかに政治に一般の人々が翻弄されたということ、そして東アジアの異なった社会や体制下で何を考え、どう生き、どのような喜びと悲しみを持ちえたのか、を記録したドキュメンタリーである。

【監督 郭亮吟】
は第二次世界大戦後に台湾に残された零式戦闘機と彼女の家族の歴史を扱ったドキュメンタリー「尋找1946消失的日本飛機」を制作する過程で元台湾少年工たちの歴史を知った。台湾では彼らの歴史はほとんど知られておらず、郭亮吟とそのドキュメンタリーで制作を務めていた藤田修平は共同でリサーチと制作を始めた。(藤田は神奈川県大和市に移り住み、日本での調査を進めた。)2004年から国家文化芸術基金会(台湾)、交流協会(日本)、駐日台北経済文化代表処などから助成を受けることになり、本格的にドキュメンタリー制作が開始された。撮影と資料調査は台湾、日本、中国、アメリカにおいて行われ、4年の歳月を経て、2006年に完成した。

【制作 藤田修平】
南カリフォルニア大学で映画製作を学び、そこで知り合った台湾の同級生に招かれ、台湾でドキュメンタリー制作に関わる。台湾で監督した初長編作品「寧静夏日」はフィラデルフィア、釜山、ファジルなど国際的な映画祭で上映された。「緑の海平線」では台湾少年工のゆかりの神奈川県大和市を拠点として長い時間をかけてリサーチと制作を行う。

映画「緑の海平線」~台湾少年工の物語~
元台湾少年工 映画で証言
「本当の姿を知って」
「誇りをもって 日本で働いた」
 

 第2次世界大戦中、座間、海老名市にあった軍需工場「高座海軍工廠(しょう)」で働いていた元台湾少年工の証言を記録した映画「緑の海平線~台湾少年工の物語」(郭亮吟監督)が31日まで、「シネマ・ジャック&ベティ」(横浜市中区)で上映されている。元少年工の生き残りとして映画に出演した大和市在住の呉春生さん(79)は、「少年工の本当の姿を知ってほしい」と呼びかけている。
呉さんは、1944年、台湾少年工の第6期工として、高座海軍工廠にやってきた。「台湾は貧しく、勉強ができなかった。働きながら勉強でき、なおかつ国のためになると思った」と当時を振り返る。

同工廠には、台湾から来た約8000人の少年工が働いていた。戦闘機の大量生産の必要に迫られた日本が、労働力不足を補うため、当時、1日本の統治下にあった台湾の優秀な少年を1943年から7回に分けて動員。少年工は、大和市上草柳にあった寄宿舎で暮らしながら、戦闘機「雷電」などを生産していた。

「緑の海平線」は、同市在住の映画プロデューサーで慶応大講師の藤田修平さん(35)らが2006年に製作。今年5月に大分県で開かれた「ゆふいん文化・記録映画祭」で優秀作に与えられる「松川賞」に入選した。地元・神奈川で上映されるのは今回が初めてだ。
4年がかりで撮影された映画は、歴史に埋もれていた台湾少年工に光を当て、貴重な同工廠の写真や映像、元少年工のインタビューを紹介、彼らが戦後をどう生きたかを描いている。

15歳だった呉さんは台湾の国民学校高等科で級長を務めた。「みんな選ばれた人間という意識を持ち、誇り高く、張り切っていた」と回想する。

すでに日本は敗色濃厚。呉さんは、同工廠に1か月いただけで群馬県の工場に派遣され、1年後、同工廠に戻って終戦を迎えた。
呉さんは終戦後、日本に残り、外交官を夢みて、働きながら勉強を続け、中央大学に入学。だが、日本国籍がないため、卒業後もすぐには職につけず、25歳で横浜市瀬谷区にある米軍・上瀬谷通信施設の法律顧問としての職を見つけ、70歳になるまで働いた。

1972年の日中共同声明では日本と台湾の国交が断絶。「裏切られた思いだった」という呉さん。「自分たちは向上心を持ち、将来を夢みて日本にやってきた。決して無理やり連れてこられたわけではない」。歴史に翻弄(ほんろう)された元少年工は静かに語った。

  

元町映画館(神戸・元町商店街のミニシアター『元町映画館』)
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SHONENKO  SYNOPSIS
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