【記事】宜蘭県が日本統治時代年代に日本の年号使用提案

投稿日:2011-08-05 - 投稿者(文責):mumeijin

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 平成23年(2011)7月29日付 西日本新聞朝 より

■歴史教科書に日本の年号を 台湾・宜蘭県が政府に提案へ【台北・佐伯浩之】

台湾北東部・宜蘭県は、台湾の歴史教科書で使われている日本統治時(1895-1945年)の年代表記を、現在の台湾の年号「民国」や西暦から日本の年号「明治、大正、昭和」に改めるよう台湾政府に提案する方針を28日までに決めた。

 宜蘭県は「民国や西暦の使用は日本統治の史実を無視するもので、歴史を正確に伝える必要があると判断した」としている。一方、台湾の歴史学者の中には、教科書で学んでいる学生の混乱を避けるために日本統治時の年号は西暦のみの使用を求める声もあり、今後論議を呼びそうだ。

 台湾では、中華民国成立(1912年)を元年とした年号・民国と西暦が併用されている。メディアや宜蘭県によると、台湾の教科書は日本統治が始まる1895年以前は清朝の年号を使用。日本統治時は西暦を用い、終戦後は民国と表記している。学校の記録や校史では、日本統治時を民国と記載しているケースもあるという。

 同県は提案の理由について「日本統治の功罪は別にして、日本統治時の史実は中華民国と関係がないので、正しい歴史教育とは言えない」と説明している。これに対し台湾教育部(文科省に相当)は「提案は微妙な問題であり、提案書を見て回答する」と話している。

 宜蘭県は日本統治時、薩摩(鹿児島県)藩士、西郷隆盛の息子・西郷菊次郎が、初代の旧宜蘭庁長を務めたことで知られる。

 西暦645年の乙巳の変(イッシノヘン)後、日本に最初の元号(=年号、大意は同じ)「大化」が創設された。以降現在の平成まで247の元号が制定されている。

 元号自体は支那とその周辺国家で多く使用されていた。近くは琉球国で日本と支那の元号が併用されていたそうですが、20世紀に入り王朝の終焉とともに消滅したものとして李氏朝鮮「光武」、その後継国・大韓帝国の「隆熙」、越南帝国の「保大」、清の「宣統」、満洲帝国「康徳」がある。

また日本国内では朝廷の制定した年号以外の私年号の存在が多く確認されている。南北朝時代に南朝勢力が北陸で使用した「白鹿」や後南朝関係者が広範囲に使用したとされる「天靖」、応仁・文明の乱で、吉野奥・熊野で「南主兄弟」が蜂起した際に呼称した「明應元年」等、日本における私年号(偽年号・異年号・逸年号とも)は40例以上が確認されているそうです。

私の自宅近くにある観音寺(河内長野)蔵の『大般若経』奥書に、1395年に該当する年の記録として「興徳元年」という年号が記録されている。当時朝廷が定めた年号ではこの年が「応永二年」である事から私年号とされています。また「興徳」の使用例がこの一例だけであることから短期間、ごく狭い範囲で限られた人々の間で使用された私年号なのかも知れません。

また1895年(明治28)に清の官吏らが樹立した台灣民主國においても「永清」という清朝の願いが込められた私年号が使われたそうです。元号(年号)の本質的な意味を理解しておりませんが、政治権力がその治世(時間)を元号(年号)という形で掌握しようとしている様でとても興味深い。

 現在、世界では便宜上西暦を共通暦と使用する事が多く、日本もそうした国である。その一方で元号を使用し続ける事は、元号法(昭和54年6月12日公布施行)に於いて「元号は、皇位の継承があつた場合に限り改める」と法制化されており、これは明治元年布告の「年號ハ御一代一號ニ定メ慶應四年ヲ改テ明治元年ト爲ス及詔」(略して「一世一元の詔」)を実質的に踏襲するものであるが、元号法の制定に伴い「一世一元の詔」は昭和54年に消滅した(との学説が有るそうです)。

現在は東南アジアの仏教国では仏暦が、サウジアラビアではヒジュラ暦(イスラム暦)が公式暦であり、複数の暦法が存在するインドでは1957年に統一したインド国定暦というものが制定されている。ユダヤ民族の国家イスラエル共和国は当然ながらユダヤ暦と呼ばれるものを公式の暦としている。

 御存知の様に台灣で西暦と共に使用されているのが民国暦である。辛亥革命の端緒となる武昌蜂起(1911年10月10日)によって、先述の清朝の元号「宣統」は廃止され、1912年1月1日からを新たに中華民国元年とした。この民国暦は大陸で創設され、国共内戦で中国国民党率いる中華民国が亡命先の台灣を実効支配するにあたり現在に至るまで使用しているのである。台灣の中華民国亡命政権の主張によると台灣は今年「民国100年」つまり中華民国建国100周年の年にあたるという。なお100年前の中華民国建国時、台灣は日本(大日本帝国)領土であった事はいうまでもない。つまり民国100周年を主張するという事は国共内戦で敗北し台灣に潰走せざるおえなかった中国国民党による台灣不法占領の問題に行き当るのだ。 

 中国共産党(中華人民共和国)・中国国民党(台灣の中華民国体制を主張)の両党は「日本は戦後、台灣を中国(中華民国を指す)に返還した」とするが、これは政治的主張で有り事実ではない。

 昭和27年(1952)4月発効のサンフランシスコ平和条約で日本は台湾に関する主権を放棄したが、その後台湾のその後の主権・領土的位置付けという点については「それを発言する立場にない」としており、また昭和47年(1972)9月の「日中共同声明」では中華人民共和国の「台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明する」という主張に対しては日本政府は「中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重する」としながらも、台湾が中華人民共和国の領土で有る事は承認していない。英米も同じく「中国の主張については認識はする、しかし承認はせず」との立場を保持している。

 サンフランシスコ平和条約の条文に台灣の地位についての規定がなされていないのである。1910年まで国家として存在していた朝鮮の独立が明文化されていたのとは対照的である。

日本国との平和条約(=サンフランシスコ平和条約) 

 第二条
(a)日本国は、朝鮮の独立を承認して、済洲島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する

(b)日本国は、台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。               


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