橿原神宮→御神武天皇御陵→畝傍山

投稿日:2012-02-12 - 投稿者(文責):mumeijin

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北北西の方角に橿原神宮外拝殿、その奥に畝傍山を望む。

【橿原神宮】

奈良県橿原市久米町に鎮座。旧官幣大社。祭神は神武天皇ならびに皇后の媛蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめ)命。神武天皇は第一代の天皇であり、早くより広く景仰されてきたが、近世尊王論が勃興するや、天皇奉祀の神社や山稜の補修が唱えられ、明治政府は新政の大本を天皇の創業に則ることとなった。明治五年(1872)太陽暦の施行とともに天皇の即位紀元が行われ、紀元節(即位の日とされた2月11日)が定められ、同22年の紀元節に大日本帝国憲法が発布された。そのころ奈良県高市郡の人々が橿原宮の遺跡に天皇奉斎の神社の創建を請願し、同年7月聴許、京都御所の内侍所(温明殿)を神(本)殿に、神嘉殿を拝殿に賜わった(のちに拝殿は新しく造営され、旧拝殿は御饌殿、現在は神楽殿となり、神殿とともに重要文化財に指定)。翌23年3月20日祭神・社号・社格が定まり、同年4月2日鎮座祭を執行した。例祭は2月11日。昭和15年(1940)の紀元2600年に際し、社殿の改築、神苑の拡張、競技場の開設など大いに内外を整備した。戦後は国家管理を離れて宗教法人となったが、勅祭社である。(國史大辭典第3巻 吉川弘文館 平成9年)


橿原神宮参拝後は神武天皇陵へと向かいました。

  こちらは橿原神宮の北北東すぐの場所に所在していますが参拝者はまばらです。

【畝傍橿原宮】

神武天皇の皇居。『日本初期』によれば、神武天皇が東征し、大和平定の後、己未年(即位前二年)三月丁卯、「夫畝傍山東南橿原地者、蓋国之墺区乎、可 治之」と宮の造成を命じ、辛酉年正月庚辰朔に「天皇即帝位於橿原宮、是歳為天皇元年」とあり、七十六年三月甲辰橿原宮で崩御したとある。『古事記』神武天皇段には「坐畝火之白檮原宮治天下」とある。『万葉集』二〇に「可之波良能宇禰備乃宮」と表わされている。近世畝傍山の付近には橿原の地名を失ったので、宮を大和国葛上群柏原(奈良県御所市柏原)にあてる説も現われた。幕末の神武天皇陵の決定に続いて、明治二十一年(1888)奈良県県会議員西内成郷らの請願により、畝傍山の東西麓の畝火村字タカハタケ(高畠、橿原市畝傍町)の地が宮址と伝えられていること、キザハシ(階段橋)・ホンガ(宝算)などの字名があることから宮址と決定され、翌年京都御所の内侍所および神嘉殿が下賜され、橿原神宮となった。昭和十五年(1940)の皇紀二千六百年記念事業として、神域拡張工事が行われ、その際縄文時代後期・晩期の遺跡と奈良・平安時代の井戸とが発見され、また白檮林があったことが判明した。(國史大辭典第2巻 吉川弘文館 平成10年)

神武天皇御陵を参拝後、大和三山のひとつとして名高い畝傍山の頂を目指しました。所要時間約15分くらいでしょうか。

【H24/2/11】畝傍山(198.5m)登山

橿原神宮俯瞰(写真左〔南〕側にみえるのが「深田池」、右上が畝傍山の方角となる)

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