誰の為の「国慶節」なのか

投稿日:2012-10-10 - 投稿者(文責):mumeijin

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10月1日は中華人民共和国の国慶節である。また10月10日は台湾で国慶節(双十節)が「国民の祝祭日」として各地で祝賀行事が行われている(ここでいう「国民」の国とは「中華民国」を指す)。

前者は中国共産党が中華人民共和国成立(1949.10.1)を記念するために、後者は中国国民党が清朝打倒の武昌蜂起勃発の日(1911.10.10)を記念するためのものである。

「辛亥革命の指導者」「中華民国の国父」として台湾の中国国民党が喧伝してそれなりの神格化が完成された孫逸仙(孫文)であるが、実際には辛亥革命の序章となる武昌蜂起(武昌起義)を指導したのは武昌の新軍(*1)内部にいた中国革命同盟会の反孫文派秘密結社「共進会」「文学社」である。この武昌蜂起を契機に革命は各地に広がり、以後中南部の17省が清からの独立を宣言する。その当時孫文は米国滞在中であったが、国際的知名度の高かったという理由から、翌1912年1月1日南京に「中華民国臨時政府」が樹立すると臨時大総統職に就任している。この年を以って中華民国元年とする(*2)。

しかし孫文はほどなく臨時大総統の地位を、北京で権力を掌握していた袁世凱(清朝の李鴻章配下から北洋軍閥実力者)に移譲する。なお南京で中華民国臨時政府が樹立後も北京には清朝はそのまま存続されていたが袁世凱の圧力により同年2月12日宣統帝は退位。17世紀半ばに誕生した清朝はその歴史に幕を閉じる。1913年8月、孫文は広東独立に失敗し台湾へと亡命、翌年7月に東京で中華革命党を結成。1919年10月10日には中華革命党を改組し中国国民党を結成する。

なお袁世凱は、1912年3月10日南京から首都を北京に遷都させている。これが北京政府、もしくは北洋軍閥政府とよばれるものである。1915年(民国5年)、袁世凱は共和制を廃止して短期間であるが帝政を復活、自らは「中華帝国大皇帝」に即位、年号を洪憲と改元するなど混乱が続く。この北京政府は、孫文の後継者を自認する蔣介石の国民革命軍によるいわゆる北伐により1928年6月に崩壊、蔣介石は南京国民政府を樹立させることとなる。これが大東亜戦争での日本の交戦国である中華民国国民政府である。なお支那事変(日中戦争)により南京陥落後、中華民国の首都は武漢そして重慶へと遷都(疎開)している。

南京といえば台湾にあるとされる中華民国の首都である。中華民国憲法には首都に関する明文化された規定はない。しかし「全中国を代表する国家」という立場をいまだ堅持する台湾の中華民国は「南京」が首都でなければならない。「台湾・澎湖諸島、金門、馬祖」が憲法の条文において「中華民国自由地区」とされ、台北を「臨時首都」や「中央政府所在地」等と曖昧な表現に留めている事からも明らかである。

国共内戦の敗北により南京を首都、台北を臨時首都という建前のもと台湾に逃亡、蟠踞してしまった中華民国亡命政権は孫文を国父として顕彰を行い、中国共産党は清朝打倒を導いたという革命の先駆者として孫文に対して評価を行っている。この事はそれぞれの憲法の前文において次の様に反映されている。

中華人民共和国憲法前文《抜粋》
「1911年、孫中山先生の指導する辛亥革命は、封建帝制を廃除し、中華民国を創立した。しかし中国人民の帝国主義と封建主義に反対する歴史的任務はいまだ完成しなかった」

中華民国憲法前文《抜粋》
「中華民国国民大会は、国民全体の付託を受け、中華民国を創立した孫中山先生の遺教に依拠して、国権を強固にし、民権を保障し、社会の安寧を確立し、人民の福利を増進するために、この憲法を制定し、全国に頒布施行して、永く普く遵守することを誓う」


中国国民党の場合、武昌蜂起勃発(1911)の日を以て国慶節(中華民国建国記念日)としており、そのため昨年には馬英九中国国民党政権下で「中華民国建国百周年」と銘打った行事が大々的に開催されている。南京で成立した中華民国が台湾で建国百年を祝う。その台湾の百年前(1912年)とは民国元年ではなく大正元年である。当時の台湾は日本であった訳なのでそのようになる。

右写真は昨年の国慶節の様子。この年の国慶節は「中華民国建国百周年」という事もあり特別な日となった。馬英九総統は中国共産党に対して孫文が理想とした民主国家の建設を目指すよう呼び掛けている。なお台湾での軍事パレードは四年ぶりとのこと。一方、北京の人民大会堂で開かれた辛亥革命百周年記念大会で胡錦濤国家主席は孫文を「民族の英雄」と称賛「孫文の理想は中国共産党が継承し発展させた」と述べるとともに「平和的な方式で統一を実現することは、台湾同胞を含む全中国人民の根本的な利益に最も合致する」と台湾に平和統一を呼びかけてもいる。なお一部で死亡説が流れていた江沢民前国家主席はこの場に出席、生存が確認される事となった。

1945年以降、台湾社会に突如降りかかった「中華民国(Republic Of China)体制」は“中国難民勢力”による台湾の不法占拠に端を発している。「中華民国体制」を賛美する為の国慶節なるものはROCによるROCの為の祭典でしかない。

【左写真】2011年10月10日、総統府前広場での馬英九氏
「台湾は日本の殖民地統治が終息し、中華民国の版図に戻る事が出来た。もし台湾の復帰が無ければ、中華民国は内戦で破れた後、我が国は60年余前に歴史の中に埋没、新しく甦る機会は無く、更には海峡両岸で異なった発展の過程を切り開く事も出来なかったのです」「国父(孫文を指す)による建国の理想は、当時の中国大陸では実践する機会は無く、現在の台湾において完全なる実現が為されたのです」

この短い言葉の中にすでに嘘が含まれているのだ。

下の動画『獨派府前抗議 與觀禮民眾口角-民視新聞』は国慶節(双十節)を祝し青天白日旗を振る「中華民国体制支持派」と外来政権である中華民国体制(中国体制)からの脱却を訴える「台湾独立派(台湾国運動)」メンバーによる主張合戦。次の動画『台灣勇士凱道舉大旗─宣示、緩兵、退場』は「公投護台灣聯盟」による台湾独立アピールの動画。最初に歌われているのは『台湾翠青』、台湾国(台湾共和国)建国時の国歌第一の候補とされている美しい曲(*4)

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獨派府前抗議 與觀禮民眾口角-民視新聞

台灣勇士凱道舉大旗─宣示、緩兵、退場


(*1)日清戦争後に清で編成された近代的陸軍で「新建陸軍」の略称。ドイツ式の近代軍隊を目指した。

(*2)が「中華民国臨時政府」に始まる「中華民国」の正統な継承政権を自認する中国国民党により、台湾は現在「民国101年」となされている。中国国民党のHPには次のように明言されている。「 10月10日は中華民国の建国記念日で、1911年の同日に武昌で起こった「辛亥革命」で清帝国を覆したのを祝う祝日である。中華民国政府は1912年の1月1日、南京で成立した」(*3)

(*3)国民党ニュースネットワーク(2012/10/9)
http://www.kmt.org.tw/japan/page.aspx?type=article&mnum=118&anum=8403

(*4)台灣翠青(-Taiwan the Green-)
http://ilha-formosa.org/?m=201002


河内長野市商工会青年部オフィシャルサイト