ノロドム・シアヌーク前国王の死

投稿日:2012-11-21 - 投稿者(文責):mumeijin

このエントリーをはてなブックマークに追加

.


10月15日、ノロドム・シアヌーク前国王が北京で客死、89歳の生涯を終えた。
主要紙はシアヌーク前国王の訃報を大きく報じている。以下はその見出しである。

日経新聞「独立の父、対国利害に翻弄された人生」
読売新聞「カンボジア『国父』悼む-ポト派と結んだ批判も-」
朝日新聞「平和のため戦った」
毎日新聞「『第三世界』の冷戦象徴」
産経新聞「故郷支えた激動の89年-独立・和平・再生 カンボジア史を体現-」

シアヌーク前国王の地位はカンボジアの歴史同様に目まぐるしい変遷を経ている。

1941年 仏領インドシナで「カンボジア王」として即位
1945年 「明号作戦」カンボジア他インドシナ諸国独立
945年  日本敗戦後、フランス復帰。独立取り消さる
1949年 フランス連合内でのカンボジア独立
1953年 カンボジア完全独立(~1954)
1955年 退位し父に譲位、首相に就任
1960年 父王死去、「国家元首」に就任
1970年 親米派によるクーデター発生、中国へ亡命
1975年 民主カンプチア政権下幽閉され国家元首辞任
-1979 ポル・ポト政権崩壊、シ殿下北京へ亡命
1982年 民主カンボジア連合政府結成、「大統領」就任
1991年 カンボジア最高国民評議会議長就任
1993年 国家元首就任、王制復活、二度目の国王即位
2004年 国王退位
2012年 北京で逝去

シアヌーク王が最初に即位したのは1941年(昭和16年)10月28日、いまだカンボジアはフランス領インドシナ(以下、仏印)の一地域であった。そのため独立国の国王としてではなく、あくまで植民地下の土着王としての即位ということになる。戴冠式の時のシアヌーク王(右上写真)は19歳になったばかりの青年王であったが、以来シアヌーク王は一時期を除き2004年(平成16年)に81歳で自ら退位を行うまで国王もしくは国家元首(殿下)の地位にあった。

このシアヌーク王即位の約一ヶ月後にあたる12月8日、日本は真珠湾を攻撃し対英米戦に突入する。この当時 カンボジアを含むインドシナの宗主国であるフランスでは、1940年6月ドイツ軍の侵攻によりフランス共和国体制が崩壊しフィリップ・ペタン元帥を首班とする親独ヴィシー政府(フランス国)が樹立されており、日本は枢軸派のヴィシー政権を承認している。

そこで日本は1940~41年の間、ヴィシー政権との協定に基づき仏印に進駐。それにより仏印はヴィシー政権ジャン・ドクー総督下の仏印植民地政権が統治権を維持する一方、軍事面では日本の印度支那駐屯軍(昭和19年、第38軍として改編)とフランス植民地軍による共同管理という方法が採用されている。そのため在仏印フランス人は日本の同盟国国民としての処遇を受けている。

しかし事態は急変する。1944年8月25日パリは連合国軍により解放され、ヴィシー政権はドイツに逃亡。自由フランスを率いてきたド・ゴールらが本国に復帰して仏印への日本軍進駐を認めた協定を無効とした(なおヴィシー政権はドイツに亡命政権を樹立するが45年4月に“閣僚”の多くが連合国により逮捕、消滅する)。


フランス本国での政変は当然のことながら海外植民地・仏印にも影響を与える。後ろ楯であった本国ヴィシー政権瓦解を契機として仏印植民地政府が太平洋戦線における連合国軍への参加を表明したド・ゴール派(連合国)へ転向する事態を危惧した日本軍は昭和20年(1945)3月9日、四万名を擁する第38軍がフランス軍・警察(9万人)に対する制圧戦を断行 、武装解除を成功させ初期の段階でドクー仏印総督、エイメル仏印陸軍最高司令官、プロアシア同副司令官、モルダン前仏印軍司令官ら要人の多くも逮捕されている。

敗戦間際の日本軍による大規模で電撃的な軍事行動は成功する。
これにより60年にわたるフランスによる植民地(仏印)体制は解体された。連合国の一角フランスに衝撃を与えた日本軍によるこの軍事行動を「明号作戦」もしくは「仏印処理」と呼ぶ。これにより仏印は日本の完全支配下におかれた。フランス植民地政府の解体を目の当たりにした旧仏印では日本軍の支援のもと各王朝を中心として次の三ヶ国がフランスからの独立を宣言している(*1)。

3月11日 バオ・ダイ(保大)帝、安南独立を宣言(5月4日「越南帝国」に改名)
3月12日 シアヌーク王「カンボジア王国」の独立を宣言
4月 8日 シサヴァン・ヴォン王「ルアン・プラバン王国」独立を宣言

(上)明号作戦の発動を伝える朝日新聞(昭和20年3月11日)
―――大本営発表(昭和二十年三月十日二時)我佛印駐屯軍は佛印當局の不信に基き印度支那に於ける共同防衛遂に不可能となりたるにより茲に敵性勢力を一掃し單獨にて同地の防衛に任ずるに決し三月九日夜所要の措置を開始せり―――とある。

日本軍の主導とはいえ祖国の独立を果たしたシアヌーク国王はこの時22歳。明号作戦における日本軍の姿が余程印象深かったのだろうか、1979年に亡命先の平壌(!)で『ROSE DE BOKOR(ポコールの薔薇)』という映画を製作しており、このなかで国王自らはカンボジアのポコールに進駐して来た日本軍指揮官・長谷川大佐を演じておりモニク王妃までもが共演している。シアヌーク殿下は映画製作を趣味としていたが北朝鮮で撮影された親日映画という事で『ボコールの薔薇』は一部で知られていたようである。現在ではインターネット上で視聴することが出来る(*2)。

これは既に知られていることであるがシアヌーク前国王を警護する親衛隊は北朝鮮軍人で編成されており、それほど金日成に対する信頼は強かったようである。そしてまた北朝鮮と金日成を絶賛した内容の著書『わたしの見た朝鮮』(幸洋出版 1981年)が興味深い。これは現在では奇書の部類に入るであろう内容である。 <付録>「ノロドム・シアヌーク演説集」では「朴正煕反逆者一味」「米帝国主義」とならび「日本軍国主義者」を批判する演説を繰り返し「世界で比類無きチュチェ思想を学ぼう!」と意気軒昂である。シアヌーク殿下は米国に対して恨むところ多く『アメリカとの闘い(原題「My War with CIA」)』(読売新聞社 1972年)という著書まである。ただ日本に対する感情は実際には悪いものではなかったようである。来日は七度に及び、子息ノロドム・シハモニ現カンボジア国王(1953- )の幼時の愛称はトキオ(東京)であった。

日本敗戦までのつかの間とはいえカンボジア、ヴェトナム、ラオスが日本軍の支援のもとフランス植民地からの独立を果たしたことは間違いない史実である。しかしこれをもって、日本をアジア植民地の解放者と理想化する意見はさすがに一面的にすぎる。日本はインドシナ各国の独立を承認する事で英米そして英米に合流することを決定したド・ゴール仏政府によるインドシナ半島上陸作戦において、これら三ヶ国を同盟国として対連合国軍戦で共同防衛にあたらせるという至極合理的な判断があり被植民地との間に共通の利益があったということなのである。ただインドシナにおけるフランスの権威を大きく失墜させ、被植民地諸国の独立が実現可能なものであることを示したことは間違いない(例えばルアン・プラバン(=ルアンパバーン)王族ペッサラートは日本敗戦後も「4月8日独立宣言」の有効を主張、10月12日に自由ラオス政権を樹立させている)。

シアヌーク王によるカンボジア王国独立宣言から五ヶ月後に日本は英米仏等の連合国に降伏する。その二ヶ月後、“宗主国フランス”は再び利権維持のためインドシナに舞い戻ってくる。10月16日仏軍プノンペン制圧、12月14日仏政府はカンボジア王国独立を無効とする。

カンボジアがフランスからの独立を果たすのは1953年(昭和28)11月9日のことであった。シアヌーク国王により掲げられた中立政策は米国の不興を買い、親米派軍部のクーデターでシアヌークは追放されてしまう。その後も米中ソといった大国の思惑に翻弄された小国カンボジアの政情は混乱に次ぐ混乱が続く。1975年(昭和50)ポル・ポト、ヌオン・チア、イエン・サリらのクメール・ルージュが全土を掌握するとキリング・フィールド(殺戮の大地)と呼ばれるカンボジア史上最大の悲劇の時代を迎え、人口500万人のうち150万人といわれるカンボジア国民が殺害された。シアヌーク殿下自身も5人の子息と14人の孫、多くの親族をクメール・ルージュによって虐殺されており、ポル・ポト派幹部らに対する訴追はいまも行われている。

激動カンボジア現代史において独立の象徴として生きた歴史の証人が去ったのである。


(*1)下記の記事は三ヶ国独立に関する昭和20年朝日新聞のものである。

(3月11日)
歴史の大轉換  安南帝國、獨立を宣言】
六十年に亙りフランスの壓政に喘いで來た二千三百万の安南民衆の自由の日は來た、安南帝國保大帝は十日閣議を開き燦然獨立の方途につき種々審議あらせられたが佛安条約を破棄し、十一日正午勅政殿において各大臣侍立のうへ厳かに左の如く安南帝國の獨立を宣言すると同時にこれを世界に聲明した。

宣言 安南帝國政府は本日を以て佛安保護條約を廃棄し安南帝國は完全にその獨立を回復せることを宣言す、安南帝國は爾今獨立國家として益々その発展を圖るとともに大東亞の一員として共存共榮の実を舉げんことを期す、安南帝國は右目的達成のため日本帝國の誠意に信頼し、総力を舉げて日本帝國に協力するものなることをここに聲明す

(5月8日)
安南の新國名は越南帝國
◇・・・安南帝國新内閣は四日初閣議を総理大臣官邸に開催、先づ國名を越南帝國(ヴィェットナム)とし、國旗を黄一色とすることに決定、國歌も新に決定することになつた、新國旗は二十年の昔に還りかつて侵略國との戰ひに翻つた黄一色を採用したものである。

(3月14日)
【カンボジャも独立宣言】
ノロドム・シハヌーク・カンボジャ王も十三日午前十時佛、カンボジャ保護条約の廃棄を聲明、自主的獨立を宣言された、宣言文左のとほり
一、佛カンボジャ間に締結せられたる保護條約並に協定は本聲明書署名の日より無効とす
二、従ってカンボジャ王國は今日より獨立國たるものとす
三、全クメール國民はこの重大事実を認識し、大東亞共榮圏建設のため日本と全幅の協力を為しカンボジャの繁栄を圖るべし

(4月12日)
【ルアン・プラバン王國獨立を宣言】
新措置により印度支那における安南カンボジャ両國は直ちに獨立を宣言したが残る一箇國ルアン・プラバン王國も去る八日午後七時シサヴァン・ヴォン王が王宮において獨立宣言式を舉行した。
シサヴァン・ヴォン王は六十一歳、一九〇〇年から一箇月パリの植民學校に入學、一九〇四年帰朝、同年四月王位についた。


(*2)
『ポコールの薔薇』は以下サイトから

カンボジア国父ノロドム・シアヌーク国王公式サイト
http://norodomsihanouk.info/?page=media.php&mediaType=film.php&filmID=11&menuID=6&tab=film


河内長野市商工会青年部オフィシャルサイト