[国史研究]楠木氏覚書

投稿日:2013-11-28 - 投稿者(文責):mumeijin

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【撮影】平成25年(2013)11月28日/【場所】伝 楠公誕生地

楠木氏の本貫地は河内国(現 大阪府)と長らく考えられてきたが、近年楠木氏駿河国(現 静岡県)発祥説が提唱されており興味深い(なお摂河泉には「楠」「楠木」の地名は存在していない)


日本有聖人  其名謂楠公  誤生干戈世  提劍作英雄 (日柳燕石)
(日本に聖人有り その名を楠公という 誤って戦乱の世に生まれ 剣を提げて英雄となる)
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日柳燕石[クサナギ・エンセキ/文化十四年(1817)- 慶応四年(1868)]は讃岐の人で名は政章、燕石は号、侠客名は加賀屋長次郎という。幕末に活動した勤皇博徒と説明されているが、その尊王思想の直接的な影響は頼山陽にあるそうである。そして当時の多くの文人、志士と交流を持っており、特に高杉晋作、桂小五郎、品川弥二郎ら数十名の尊王派志士を匿ったことから、慶應元年(1865)五月捕縛され高松藩獄に四年間入獄させられている。燕石は元来攘夷論者であったが、明治元年(1868)に出獄した後は、一転して開港論者となり木戸孝允らと行動したという。そして徴士として登用され軍務局勘定方・日誌方・史官として征討将軍仁和寺兵部卿宮(後の小松宮嘉彰親王)に属して北越柏崎に進軍、同年八月二十五日陣没している。享年は五十二(『國史大辭典 第四巻』吉川弘文館 平成八年版を参照)

日柳燕石は行動の人であったが、また詩人でもあった。 冒頭の一文は燕石の最も有名な詩で彼が三十一歳の時に作詩したもので、松下村塾での愛吟詩であったと伝わる。幕末の尊王派志士にとり楠公は聖人であり崇拝の対照であったのだ。幕藩体制を打倒して王政復古を目指した当時の尊王攘夷運動の思想的基礎には水戸学の影響があったそうで、その水戸学とは南朝正統イデオロギーともいうべきものであり、それは最も具体的には楠木正成讃仰として現れ出た。尊王派志士が自らの理想を楠公(楠木正成)に見出したことは必然であったのかもしれない。なお現在、皇統は北朝(持明院統)を起源とするものであるが、皇居前には南朝(大覚寺統)の柱石であった楠木正成像を眺める事が出来る訳である。

この正成に悲劇的な英雄性を決定的に付与した書が『太平記』である。戦乱の時代を描きながらも太平の世を追い求めたであろう『太平記』は史料的には疑問が多い。だが、その文学性は後世の軍記物語に大きな影響を与え、江戸期には『太平記』中の合戦場面が講談として読み伝えられる等している。ここでは『太平記』その他史料に表れた楠木氏に対する評価などを覚書として記してみたい。


『太平記』[巻三]
楠ハ…陳平・陳良ガ肺肝ノ間ヨリ流出セル兵ナレバ…(赤坂籠城に際して)

「アナ哀レヤ、楠、ハヤ自害ヲシテケリ、敵ナガラモ、弓矢ヲ取ツテ、尋常ニ死ニタル物」ト、惜シマヌ人コソナカリケレ(正成の偽装自殺に際して)

[巻五]
コレ皆智深ク慮(オモンバカリ)遠クシテ、良将タリシ故ナリトテ、讃メヌ物コソナカリケレ(天王寺合戦)

正成の神秘性を表現したものが次の記述あろう

[巻六]
ワヅカニ千人ニ足ラザル小勢ニテ、誰ヲ憑(タノ)ミイツヲ待ツトシモナク、城中ニ怺(コラ)ヘテ防ギ戦ヒケル、楠ガ心ノ程コソ不思議ナレ(千早籠城に際して/流布本に「不敵ナレ」)

『太平記』は後醍醐天皇、新田義貞をも時に批判の対象としているが、正成に対しては批判が無い。著者不詳の太平記のひとつの謎と言える。次などは最大級の讃辞といえる。

[巻十六]
智仁勇ノ三徳ヲ兼ネテ、死ヲ善導ニ守リ、功ヲ天朝ニ施ス事、イニシヘヨリ今ニ至ルマデ、コノ正成ホドノ者ハ未ダ無カリツルニ…(正成兄弟討死の事)

この讃辞と美化の姿勢は正成死後の楠木党棟梁である小楠公、正行にも送られている。

[巻二十六]
(摂津合戦において、橋から落ちた山名時氏、細川顕之の兵五百余騎を正行が助け、乾いた衣服と薬を与えらえた者達がその恩に感激して正行勢に属し四条畷合戦で果てる様子を描く)
サレバ敵ナガラ其情ヲ感ズル人ハ、今日ヨリ後心ヲ通ゼント事ヲ思ㇶ、其恩ヲ報ゼントスル人ハ、ヤガテ彼手ニ属シテ後、四條縄手ノ合戦ニ討死ヲゾシケル

『太平記』は軍記物語であり、史書としての評価は低く、「敵兵五百騎」という表現もにわかには信じ難い。楠木氏は、建武三年(1336)楠木正成が弟正季ら一族で兵庫湊川で自死し、正平三年(1348)楠木正行、正時兄弟が四条畷で敗死すると正成三男の正儀が棟梁の地位を引き継いでいる。

『太平記』は次のように正行の死を惜しんでいる。

[巻二十六]
和田・楠ガ一類皆片時ニ亡ビハテヌレバ、聖運已ニ傾ヌ。武徳誠ニ久シカルベシト、思ハヌ人モ無リケリ

当時南朝は強硬派の長慶天皇が即位しており和睦推進派の正儀は北朝に転向し、応安六年(1373)には長慶天皇を攻撃して河内天野山金剛寺から吉野に退却させている。その後南朝に帰順したが、そのやや曖昧な態度から楠木贔屓の太平記の記事もやや厳しくなっている。

[巻三十一]
楠ハ父ニモ不似兄ニモ替リテ、心少し述タル者也ケレバ、今日ヨ明日ヨト云許(イウバカリ) ニテ、主上ノ大敵ニ囲マレテ御座アルヲ、如何ハセントモ心ニ懸ケザルコソ方見タテケレ。堯ノ子堯ノ如クナラズ、舜ノ弟舜ニ似ズトハ云ヒナガラ、此楠ハ正成ガ子也、正行ガ弟也、何ノ程ニカ親ニ替リ、兄ニ是マデ劣ルラント、謗ラヌ人モ無カリケリ

その一方で、中立的、やや良い評価というのもある。

[巻三十四]
楠ハ元来、思慮深キニ以テ、急ニ敵ニ当ル機少シ

[巻三十六]
楠父祖ノ仁慧ヲツギ、有情者ナリケレバ…

鮮烈な死を遂げた父兄の前にすると、楠木正儀に対する太平記の評価はやはり精彩に欠ける。なお太平記が成立したのは應永年間(1368-1375頃)とするのが一般的である。正儀の没年は諸説があるが、おおよそ明徳元年(1390)頃とされている。中村直勝『南朝の研究』によると正儀の死後、明徳元年(1390)には楠木党棟梁となったのは正儀の嫡子正勝だと考えられているが、史料的根拠が乏しいのと他の人物との混同もあり、没年にも諸説が有る。恐らく應永年間(1400年以降)に死去したと思われる。


『應永記』は『明徳記』『永享記』『嘉吉記』『應仁記』などと同じ室町軍記のひとつである。一般に『太平記』の系譜を継ぎ、なおかつ公的軍記としての性格を持つという。これらの題材は主に頻発する室町幕府と有力大名との争いを描いている。『應永記』は応永の乱(応永六年/1399)を記録しているが、この乱は南北朝統一後、足利義満が権力強化を目的に西国の有力守護大名・大内義弘を挑発して起こした事件とされている。大内義弘は、和泉国(現在の大阪府)堺に拠点を置き幕府に対抗するも敗死する。この時、足利政権の内部抗争を利用するために楠木某(楠木正勝、楠木正秀、楠木正元であったともいうが資料的根拠は無い)が大内氏に加担していることを『應永記』は記録している。

『應永記』
楠二百餘騎、今迄ハ眼前ノ御敵ニテ今更降参申サント無益ナリトテ、大和路ニ懸リテ行方不知落失セヌ。中ニモ菊池肥前ハ自證ニモ不似、討死ニセズシテ行方不知成ニケル

応永六年(1399)十二月二十一日、堺が落城すると「楠二百余騎」は「今更降参するのは無益である」として「大和方面へ向け遁走する」。記録に徹した表現であるが、勝機を逸した「楠二百余騎」が大和路を目指し疾駆する姿がこの簡潔な一文から想像される。楠木党にしてみれば、応永の乱は反足利の行動であって大内氏と命運を共にする様な義理は無かったということであろう。この時の楠木氏が誰に比定されるかについては諸説有るが、定説はない。不明ということである。なお楠木氏と共に、菊池肥前という南朝由縁であろう人物が楠木一族と共に大内氏を援けていることが注目される。

伏見宮貞成親王(第百二代 後花園天皇の父)の『看聞御記』には應永の乱の三十年後、永享元年(1429)に楠木光正という人物が密かに南都に潜伏、将軍足利義教暗殺を企図して筒井氏により捕縛、「魚スミ」という者に斬首されたことが記録されている。刑場の六條河原には見物人が充満し、幕府は六~七百人でこれを警戒したという。看聞御記にはこの楠木光正の頌歌と辞世の歌が紹介されている。

『看聞御記』
永享元年九月十八日、雨降、楠木僧躰也、俗名五郎左衛門尉光正、被召捕上洛、此間南都ニ忍居、是室町殿御下向為伺申云々、筒井搦取高名也、為天下珍重也、

廿四日、晴、先日被召捕楠木、今夕於六條河原被刎首、侍所赤松、所司代六七百人取囲斬之、切手魚スミ、其躰尋常ニ被斬、先召寄硯紙作頌、
幸哉、依小人虚詐、成大謀高譽、珍重々々、
不來不去攝眞空 萬物乾坤皆一同 即是甚深無二法 秋霜三尺斬西風

なか月やすゑ野の原の草のうへに身のよそならてきゆる露かな
我のみかたか秋の世もすゑの露もとのしつくのかゝるためしそ
夢のうちに宮この秋のはてはみつこゝろは西にあり明の月

永享元 九月廿三日 楠木五郎左衛門尉光正 常泉
見物人河原充滿、自南都御使立、急可斬之由被仰、其形僧也、頌歌等天下美談也、楠木首四塚ニ被懸云々、

ここで室町殿(第六代足利義教)は九月十五日に将軍宣下があり、十二日には春日大社参詣する為に南都に向かう予定であったという。暗殺を企てた光正の最期の様を伏見宮貞成親王は「天下の美談」と言及しているのである。この当時は正成末孫の威光が有った様であるが、一方で死に臨む楠木光正はふてぶてしく「幸哉、依小人虚詐、成大謀高譽」と語っているのである。果たしてこの事件は楠木氏の関係者を騙った「小人の詐称」であったのであろうか。不思議なことに、「万人恐怖」の時代を作り出し、歴代将軍でも特筆されるべき足利義教暗殺未遂犯の名「楠木五郎左衛門尉光正/法名 常泉」はあらゆる(各種)楠木系図にも記されておらず不詳の人物である。なお正成以前の楠木氏の事跡が全くと言ってよいほど不明であるにも係らず、敏達天皇に繋がる楠木氏系図が不自然なほど詳細であることは、楠木氏系図が却って信用出来ない事を意味する。

なおこの当時の楠木氏の和歌として伝わるのは楠木光正と、『太平記』[巻二十六]所収の正行の「返らじと 兼て思へば 梓弓 なき数にいる 名をぞとどむる」だけということである。後者は非常に有名な歌であるが、一般には『太平記』作者による潤色であろうとされている。

『薩戒記』永享九年(1437)八月三日の記事には、「河内國凶徒楠木黨」が挙兵、城を包囲し守護兵(畠山持国)と戦ったが、打ち取られたとある。同日の『看聞御記』には「楠兄弟被討」たとして「朝敵悉滅亡、天下大慶珍重無極、公家御悦喜御快然云々」という伏見宮貞成親王の感想が述べられている。楠木正成の湊川での戦死から既に百年が経過した当時にあって、楠木氏は「朝敵」でありその滅亡は「天下大慶」であったというのである。この「楠兄弟」の名前及び系統は不明である。その末路は「抑楠首上洛、河原十一頭被懸云々(『看聞御記』永享九年(1437)八月五日)」というものであった。正成死して100年以上が経過してもなお楠木党は幕府側に相対する実力を保持していたようである。

楠木氏の最後の動向は長禄四年(1460)の『蔭涼軒日録』、『經覺私要鈔』そして『碧山日録』記事に残されている。これは楠木正成の死後、124年後の楠木氏に対する評価である。

『蔭涼軒日録』
長禄四年三月廿八日、南方楠木一族、於于東寺四塚被誅戮云々、

『經覺私要鈔』同日

去比楠木部類ト云者、以廻文成僧遊行之間、曾祢崎ト云者召取進了、仍今日六條河原被伐之了、即頚ヲ四塚被懸之云々、

『碧山日録』長録四年三月廿八日

南朝將軍之孫楠木某、與其儻竊謀反、既而事發、遂遭囚擒下於大理、是日於六條河上、吏刎其頭、日録曰、楠木氏、往昔領天下兵馬之權、斬人頭不知幾萬級、強半戮殺無辜之民、潰亡之滅、其遺孽被獲於官者、咸死刑官之手、惟積惡之報也、可悲矣也、

総合すると、「南方楠木一族」「楠木部類(仲間、身内程の意味)」「南朝将軍の孫(正確には数世孫の意味)」である楠木某が、秘かに謀反を企んだが、露見して囚われの身となり、六條河原でその首を刎ねられ四塚にて梟首されたというものである。『碧山日録』筆者で東福寺の雲泉大極という僧は感想(「日録曰」以下を指す)として「楠木氏は往昔より天下兵馬の権を領して、人の首を斬る事、幾万と数知れないほどで、無辜の民を殺戮した。このように刑死するのは、積悪の報いである」と筆記している。

「南朝将軍」とは楠木正成を指すと思われるので、室町中期において「南朝将軍 楠木正成」の評価とは足利将軍に対する逆賊であり、朝廷(持明院統=北朝)に対する朝敵であった。その一族は無辜の民を殺戮する凶徒であり、その刑死は当然であるという認識となっており、往古の「忠臣楠木」に対する礼讃は見られない。そもそもこの人物の名前すら記されていないのである。なお東寺の西側、平安京南に位置する羅城門跡周辺が四塚にあたり、古代には「四陵」とも「四墓」とも呼ばれていたが、いずれにせよ四つの塚があったという。曰く「狐塚、光明塚、経塚等是也、今一箇所不知其所、狐塚ハ昔日罪アル人ヲ刑戮ノ地ナリ、今ハ東寺ノ僧徒遷化ノ時葬場トナレリ(『近畿歴博記』)」。正長元年(1428)12月、小倉宮聖承を擁して敗死した北畠満雅もここ四塚において梟首されている。

永禄二年(1559)、楠木正成十一世孫を称する大饗正虎が幕府を通じて朝廷から朝敵恩免の綸旨を得る。室町幕府はすでに十三代足利義輝の時代となり、衰退の一途を辿っていた。ここに足利幕府からみた「逆賊」楠木氏の復権と再評価が始まる。

「楠木」が最後に最も劇的に現れ出たのは第二次世界大戦の最末期であったのかもしれない。そこには敗れるを承知で最後の戦闘に出陣した正成の姿を自らに重ねているようで、悲愴さを際立たせている様に思う。連合国軍による沖縄侵攻作戦に対抗するべく行われた決死の特別攻撃は、楠木氏の家紋から菊水作戦とされ、水上特攻の戦艦大和には非理法権天(江戸期に創出された楠木正成が使用したとする旗印)の幟が掲げられていた、という。また昭和45年11月、「七生報國」の日の丸鉢巻をした憂国の作家が、その理想に殉じ劇的な最期を遂げる。七生報國が『太平記』に記された死に臨む楠木正成の故事「七生滅敵」にあることは良く知られている。

『太平記』巻十六 「正成兄弟討死事」

楠ガ一族十三人、手ノ者六十余人、六間ノ客殿ニ二行ニ双居テ、念仏十返計同音ニ唱テ、一度ニ腹ヲゾ切タリケル。正成座上ニ居ツゝ、舎弟ノ正季ニ向テ、抑(ソモソモ)最期ノ一念ニ依テ、善悪ノ生ヲ引ヒクトイヘリ。九界ノ間ニ何カ御辺ノ願ナル ト問ㇶケレバ、正季カラゝト打笑テ、七生マデ只同ジ人間ニ生レテ、朝敵ヲ滅サバヤトコソ存候ヘト申ケレバ、正成ヨニ嬉シゲナル気色ニテ、罪業深キ悪念ナレ共我モ加様カヨウニ思フ也。イザゝラバ同ク生ヲ替テ此本懐ヲ達セン

楠木正成の四十数年の人生の殆どは不詳である。ただ後醍醐天皇の大博打の様な討幕行動に最も早く呼応、建武政権の一翼として過ごした晩年の僅かに5年足らずの活動の一端が判明しているにすぎない。すなわち後醍醐天皇に見出され、河内国下赤坂城で挙兵したことで史上に出現したのが元弘元年(1331)九月、兵庫湊川で足利尊氏と戦い敗死するのは延元元年(1336)五月という短い期間が史上に記録された。

『太平記』には、その最初期「ワヅカニ千人ニ足ラザル小勢ニテ、誰ヲ憑(タノ)ミイツヲ待ツトシモナク、城中ニ怺(コラ)ヘテ防ギ戦ヒケル、楠ガ心ノ程コソ不思議ナ」神秘性を帯びた人物として描かれ、その敗北の人生の最後、従容と死地に赴いて散りゆく姿が描かれる。正成没後、既に七百年近くを経過するが、それでもなお至誠と勤皇の人として、また敗者の悲劇性と美しさを兼ね備えた日本的英雄のひとりとして、楠木正成は人々を魅了して止まないのである。

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楠木正成像(楠妣庵観音寺蔵/伝 狩野山楽画)


河内長野市商工会青年部オフィシャルサイト