【訃報】松井 光彦(Matsui Mitsuhiko) 本会副代表

投稿日:2014-09-23 - 投稿者(文責):mumeijin

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22日午前5時7分、本会副代表・松井光彦氏は食道癌のため逝去されました。享年五十七歳。
ここに謹んで御冥福をお祈り致します。

御家族の御希望により家族葬となるとのことです。


昭和32年生まれの松井氏は年齢よりも遥かに若かった。

その青年のような風貌だけではなく、精神や行動が若々しかったからだ。

年齢を重ねる毎、人は夢や理想から少しづつ遠ざかっていく。現実に妥協し、それを良しとする。多くの人はそうだ。しかし彼は違っていた。松井光彦は即断即決の行動家であり、独立心旺盛、そして世の横暴、不正や理不尽さを憎むこと、青年の様な瑞々しい精神があった。

彼との出会いは、北京オリンピックの為に行われた平成二十年四月中国共産党政府の「長野聖火リレー」に対する抗議運動であった。翌五月、胡錦濤中国国家主席来日に際しては日比谷公園前で共に抗議活動を行っている。彼を突き動かしたのはチベット、ウイグル人といった立場の弱い少数民族に対する思い遣りと中国共産党の暴力に対する怒りであった(*)。その後、関西で自然と行動を共にしていくうち、台湾独立運動への関心を共有していることに気付き、彼とともに平成二十二年(2010)一月に台灣建國應援團を結成した。

結成翌月、第一回訪台。松井さんが計画や準備をすべて担当した。彼は集中力があり、事務能力が高く、何より行動が迅速だった。彼の発案で2月27日に「二二八事件六十三周年追悼デモ行進」に参加。黄昭堂台湾独立建国連盟主席や蔡英文民進党主席らとお会いする事が出来た。翌日は龍山寺前の「二二八事件追悼行事」に参加。大規模な式典であったが、王獻極台湾国運動総会長の御好意により、松井さんが日本人の立場から台湾独立への応援演説を行っている。彼の演説の特徴は情緒を排除した理知的なものであった。それでも聴衆から大きな歓声と拍手が上がった、これこそが松井さんの真骨頂であった。その後台北駅前で「日本支持台湾独立建国」の横断幕を掲げるアピールを行った時は、幾度か在台中国人らから妨害に遭遇した。しかし松井さんはその様子を面白がってビデオカメラで記録していたものだ。台湾滞在中は朝早くから台北市内を散策していた。彼は何もしないのが苦痛かのように精力的であった。また何より台湾の古い街並みや台湾料理が大好きだった。台湾での彼との想い出は尽きる事がない。

居を関西から名古屋に移した後は、音楽活動にも没頭して、2012年1月の総統選挙前には台湾を応援する楽曲『Beautiful Formosa』を提供してくれた(なお当時、台灣建國應援團は総統選挙の現地視察のために会員を派遣しており、それだけに蔡英文氏敗北には大変失望したものだ)。それでも彼は「台湾独立はいずれ成就されるよ」「総統府に台湾旗が掲揚されるのを見たいね」と穏やかに語っていた。

幽明境を異にして、台湾の将来について彼と話すことは叶わない。だがそういった感傷と最も無縁な男であったのが松井光彦だった。困難を前にした時、自己憐憫に浸る様な事はなく、常に解決策を見出すために尽力する。そういう物事に対する前向きさを彼には常に感じた。

早すぎる死は悲しく残念でならない。
だが我々は、彼との別れを受け入れなければならない。別離の寂しさを乗り越え、彼のためにも明朗とした心持ちでいたい。

俯(ウツム)いたままの姿勢でいるというのは、奮闘家・松井光彦が最も望まないものなのだから。
あなたの念願であった台湾建国の意志を引き継いでいきたい。

感謝 松井さん
再見 松井光彦

a1428312311_45  松井光彦さん 2011年7月31日
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平成22年(2010) 2/28 龍山寺前で台湾独立への応援演説を行う松井副代表(中央)

松井さん
平成22年(2010) 11/20
頑張れ日本!全国行動委員会主催『中国の尖閣諸島侵略糾弾!全国国民統一行動 in 大阪』
第五梯団を統率した松井光彦氏

(*)松井光彦氏の平成20年(2008)頃のYahoo! blog『日台友好!加油!台湾』
http://blogs.yahoo.co.jp/licorice_kanzou

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松井光彦(1957-2014)


(本項、田邊憲司 記)


 

河内長野市商工会青年部オフィシャルサイト