【昭和20年8月16日】幻の台湾独立計画「台湾治安維持会事件」

投稿日:2012-06-29 - 投稿者(文責):mumeijin

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平成5年(1993)8月に中央公論社から刊行された書に伊藤 潔著『台湾―四百年の歴史と展望』(中公新書)がある。

著者の政治的立場や主張を反映している構成も多いが、容易に入手が可能で内容も非常に良くまとまっているので台湾史の入門書としてお勧めです。著者にはこの他にも『李登輝伝』(文藝春秋社)、『台湾統治と阿片問題』(山川出版社)、『香港ジレンマ』(中央公論新社)、寒山碧『鄧小平伝』(伊藤潔編訳、中公新書)等の著作があります。

後列左端の覆面姿の男性が劉明修(伊藤潔)先生。於東京 「台湾青年会中央委員会」

伊藤 潔先生は昭和12年(1937)宜蘭県生まれの台湾人。本名は劉明修、昭和39年(1964)に来日し東京大学大学院博士課程を修了して文学博士号を取得。東大留学中に「台獨的言論を主張」したとして蔣介石政権のブラックリスト(黑名單)に名前が登録されてしまう。それにより劉先生は日本での亡命生活を余儀なくされている。

昭和57年(1982)に日本国籍を取得された劉明修先生は日本人「伊藤 潔」と改名して二松學舍大学と杏林大学大学院等で教鞭を取られ、六年前の平成18年1月16日に68歳で逝去されている。

なお劉明修先生のブラックリストが解除され、台湾帰国が実現したのは李登輝時代に入った1992年(平成4年)のこと。30年ぶりの台湾帰国であった。

中国国民党が台湾に不法占拠を続ける為の方策として敷いた戒厳令は38年間(1949.5.20-1987.7.15)、この史上最長の戒厳令は蔣経国時代にようやく解除された。これは主に当時の米国レーガン政権の圧力によるものだとされている。1979年「高雄事件」、1981年「陳文成事件」また1984年、『蔣経国伝』を著した米国籍作家・劉宜良(江南)をサンフランシスコで殺害するという「江南事件」といった中国国民党のテロや強権体質といった暴挙の数々を前にして米国は中国国民党に対する民主化要求を急速に強めていった。また同時に当時世界的な民主化運動が台湾においても「党外人士」の活動として大きく国民党政権に打撃を与えていた事はいうまでもない。

前述の劉明修著『台湾―四百年の歴史と展望』には17世紀のオランダ支配にはじまり~鄭氏政権~清朝の台湾領有~台湾民主国~日本統治時代~中国国民党支配という外来勢力による台湾支配の複雑な歴史が簡潔に描き出されている。また新書という事もあり非常に読み進みやすく、台湾史についてわかりやすく概説した良書。

その記述の中には日本がポツダム宣言を受諾した直後に台湾で企図されたといわれる「台湾治安維持会事件」についても十行程ではあるが手堅く記載がなされている。私がこの事件について知ったのは劉明修先生の『台湾』によってである。それ以降気になる事件ではあったのですが新発見といえるような資料に出会う事もありませんでした。ここにメモ程度にこの事件について記録しておきます。


台湾治安維持会事件は、昭和20年8月16日から同24日に画策された台湾人主体によるとされる台湾独立計画であるが、最後の台湾総督兼第十方面軍司令官 安藤利吉陸軍大将の反対により未遂に終わった事件である。一部では「台湾自治委員会事件」とも呼称されているようである。

『台湾―四百年の歴史と展望』では次のような「台湾治安維持会事件」の内幕を紹介している。

---在台日本軍人の一部に敗戦の現実を受け容れず、台湾人と連帯して台湾の独立計画があった。
---台湾軍参謀の中宮悟郎少佐と牧澤義夫少佐は、台湾人指導者を集め「台湾治安維持会」を組織すべく、八月十六日に中宮少佐が秘密裏に辜振甫と会合して維持会の構成を呈示した。
---「台湾治安委員会」の構成は次の様であったらしい。林献堂委員長、林熊祥副委員長、辜振甫総務部長、顧問 許丙
---二十二日に台湾人指導者らが安藤利吉台湾総督を訪問したが、総督は台湾独立に明確に反対して自治運動をも禁止した。
---後日国民党政権はこの「台湾独立計画」の関係者を処罰し、一年一〇ヶ月から二年二ヶ月の禁固刑に処した。

別書にはこのようにある。

---少数の日本軍将校は妥協を拒んで「台湾独立運動」を始めたという噂が立った。安藤大将はこの噂が有害で危険であると決めつけたが、日本民間人の有力者達は噂に嘲笑ぎみであった。しかしこれらの否定や嘲笑は、広まっていた緊張の度を増幅した。
『裏切られた台湾』ジョージ・H・カー 同時代社 平成18年

---日本政府の支配が失権した八月十五日の翌十六日には、台湾は独立すべきである、かねてから考えていた人びとが時期到来せりと決起した。すなわち日本軍参謀の中宮悟郎、牧澤義夫の両少佐に、台湾の進歩的知識人の辜振甫、許丙、林熊祥その他の台湾人有力者であった。
『米国の台湾政策 』田中直吉・戴天昭共著 鹿島研究所出版会 昭和43年

---一九四五年一〇月一三日、国民政府は「処理漢奸案件条例」を公表した。これは中国人の戦争協力を処罰する法令であった。この法令に基づいて台湾警備総司令官は一九四六年一月、漢奸の調査を始めた。そして、同年二月二一日、日本植民地統治の台湾人協力者である許丙、辜振甫、林熊祥、簡朗山、徐坤泉、林熊微が逮捕された(翌日釈放)。逮捕の理由は一九四五年八月一九-二二日の間、台湾の祖国復帰の阻止を意図して日本の軍人と共謀して台湾独立を企てたことであった。終戦直後のいわゆる「台湾独立事件」である。さらに、その漢奸調査によって100名余りの台湾土着資産家が陳義政府の逮捕リストに載せられたと伝えられたが、台湾出身の観察委員である丘念台の勧告で逮捕には至らなかった。(略)一方、「台湾独立事件」のように、「漢奸」という罪に問われた台湾人の逮捕者も出たが、一九四五年以前は「日本人」とみなされていた台湾人に対して「漢奸」という罪状を負わせるのは困難だった。「漢奸」として検挙された台湾人は、結局戦犯として有罪判決を受けたのであった。
『二・二八事件―「台湾人」形成のエスノポリティクス』何 義麟 東京大学出版会 平成15年

二~三の文献も参照してこれを総合してみるとおおよそ次のようになる。

昭和20年8月15日の日本敗戦と同時に台湾の日本人・台湾人が抱いた台湾の前途への不安。ごく少数の知識人は重慶からの外電を通じて日本の敗戦が「台湾の中国(中華民国)復帰」を意味することを理解していたが、一般の軍民の多くはその後の台湾がどのような状況を辿るかを知る由もなかった。そうしたなか、日本降伏が「台湾の放棄」と同時に「台湾のその後の地位が未定」になることを察知、終戦後に起こりうる権力の空白状態を好機ととらえて台湾独立、もしくは台湾自治を画策させようとする台湾人有識者30余名と(一説によると)一部少壮の日本軍人による動きがあった。そのうち最も顕著な行動が「台湾治安維持事件」ということになる。

日本側からは第十方面軍参謀 中宮悟郎少佐と牧澤義夫少佐がその中心となり『台湾自治法案』を定め,その際に40万在台日本軍と台湾人有力者が連携して中国国民党や米国による台湾接収に抵抗しようとした、とされるのだが当の中宮・牧澤両氏は軍人主導であることを否定しておりこの事件全体には不明な点が多い。


以下が「台湾治安維持会(台湾自治委員会)」を構成する予定であったとされる主要メンバー。
 
 委員長 林献堂(1881 – 1956)      副委員長 林熊祥(1896 – 1973)
        
    
総務部長 辜振甫(1917 – 2005)    顧問 許丙(1891 – 1963)
          
 他の委員として楊肇嘉・羅萬俥・陳炘(二二八事件で消息を絶つ)らの名前が挙がっていた。

 辜振甫は台湾人で最初に貴族院議員となった辜顕栄の子息で辜振甫の異母弟が台湾独立運動家の辜寛敏、その子の辜朝明(Richard C. Koo)は著名なエコノミスト。台湾治安維持会にはこのように日本の台湾統治に協力を行った台湾人有力者らが参加する予定であった。

安藤利吉 台湾総督兼
第十方面軍司令官(1884 – 1946)   台湾軍参謀長 諌山春樹陸軍中将(1894 – 1990)
        

 8月22日、辜振甫・簡朗山(貴族院議員)・林呈禄(弁護士)・杜聡明(台北帝国大学教授)達が安藤利吉総督・諌山春樹参謀長を訪問。台湾独立への援助(具体的には日本軍の武器を独立派へ引き渡すこと意味していた)を要請するが、安藤総督は「天皇陛下の御心に背く事」になるとして反対を表明する。 

 台湾会編集の『あゝ台灣軍』にはその時の安藤総督の言葉と説明が収録されている。

―――「独立しようとする皆さんの衷情はよくわかる。然し世界の大勢を見て、君達の為にもこの運動を中止することをお奨め致したい。然しどうしても尚やりたいと言うならお止め致しません。それはご自由です。然し我々はこれを放任は出来ません。断乎として日本軍が討伐致します 」

 ―――温情溢るる間に、凛前たる決意を堂々と明示されたのであった。—この折の所謂志士は翌年の2.28事件で再蹶起したが、この関係者は全員悉く、全島で斃れた。

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復刻版『あゝ台灣軍―その想い出と記録』1997年 非売品

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8月24日、辜振甫らは計画が困難であることから、許丙の自宅で「台湾治安維持会」樹立断念を決定。ここに戦後最初の台湾独立計画は挫折する。その一週間後の31日、諌山春樹参謀長に従い林献堂、辜振甫、許丙らは上海を経て南京に入っている。これは台湾省行政長官公署長官に就任する陳儀「歓迎」のためとされている。

 翌1946年1月、中国国民党政権下の「漢奸総検挙規程」に基づき台湾全土で行われた「漢奸容疑」で関係者が総検挙。同年6月辜振甫・林熊祥・許丙などが「臺籍戦犯」として起訴される。翌月27日に台北市で発生した騒擾をきっかけとして中国国民党による虐殺事件(2.28事件)が発生、多くの旧日本軍籍の台湾人が中国国民党軍に対し決起、抵抗活動を行った。当時まだ日本国籍を有している台湾人のなかには、祖国(日本)の救援を信じていた者も多くいたという。

後日中華民国政府は彼ら台湾人参加者を逮捕した後、1947年(昭和22)7月9日、中国国民党政権下の台湾省軍事法廷は台湾独立計画の首謀者とされた次の人物に対して以下の判決を言い渡している。 

辜振甫(懲役2年2ヶ月)
許丙 (懲役1年10ヶ月)
林熊祥(懲役1年10ヶ月)
残りの被告、全員無罪。

一種のクーデター計画であるという事件の性格と中国式裁判とを顧慮すると異例の軽い判決であったように思える。また辜振甫は1年7ヶ月で釈放されている。

最後の台湾総督・安藤利吉は在台邦人の日本引揚げ等に尽力したが、1946年(昭和21年)4月13日に中華民国により戦犯として逮捕。上海に抑留されたが同月19日に自決。その約一ヶ月後の5月30日、勅令により台湾総督府は廃止。半世紀にわたる日本による台湾統治の歴史は正式に終止した。


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