【一周年】「日本唱歌を歌う日の丸行進」 第十一回 日の丸行進の会

投稿日:2012-06-17 - 投稿者(文責):mumeijin

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【H24/6/17】「日本唱歌を歌う日の丸行進」 第十一回 日の丸行進の会(1)

【H24/6/17】「日本唱歌を歌う日の丸行進」 第十一回 日の丸行進の会(2)

【H24/6/17】「日本唱歌を歌う日の丸行進」 第十一回 日の丸行進の会(3)

【H24/6/17】「日本唱歌を歌う日の丸行進」 第十一回 日の丸行進の会(4)

【H24/6/17】「日本唱歌を歌う日の丸行進」 第十一回 日の丸行進の会(5)

【H24/6/17】「日本唱歌を歌う日の丸行進」 第十一回 日の丸行進の会(6)

【H24/6/17】「日本唱歌を歌う日の丸行進」 第十一回 日の丸行進の会(7)

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【6/17(日)大阪市内の天気】

13時・・・26℃ 湿度62%
15時・・・27℃ 湿度58%

 JR難波駅から今回の集合場所である靭公園までなにわ筋を歩く。距離にして約2km

 大阪市内中心部を歩いて観察すると気付くのが、緑地の余りに少ないこと。少ないというよりは、むしろ皆無に等しいと言い切るのが正確に思えてくるが、荒涼たる大阪中心部のオアシスともいえるのがこの靭公園。東西800m×南北150m 東西に長い形をしている。大阪市中心部の灰色の都市図を眺めているといかに靭公園が貴重な空間であるかがよく判る。

 なおこの2kmの道のりを観察しながら靭公園に至るも、最後まで日本国国旗が掲揚されている風景をみることは出来なかった。それは翻って考えるとその様子に疑問を持つひとも少ないということになる。しかしそこに違和感を抱いていた感性の持ち主ら総勢八十余名(参加者の年齢は11歳~90歳!)が、石黒大圓さん主催の「日の丸行進」に与同したのだ。この「日本唱歌を歌う日の丸行進」は今回で十一回目、この1年間継続されてきた。

 ところで私は集会前のひと時、大塩平八郎最期の地を訪れた。集会場所の靭公園(東園)の南側すぐの場所が、江戸幕府体制下の大坂で決起した大塩平八郎の最期の地なのだ。天理教 飾大分教会(テンリキョウ シキダイブンキョウカイ)前に立派な追悼碑が設けられている。

 元与力(幕臣)であった大塩平八郎が決起したのは天保8年(1837)、蜂起した大塩勢鎮圧のため出兵した大坂東町奉行・跡部良弼(アトベ ヨシスケ)は明治元年(1869)まで生存。大塩事件は僅か175年前の出来事にすぎない。

【「救民」の志】 大塩平八郎 終焉の地~靭公園 東園南側

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 古来日本には「出る杭は打たれる」ということわざがある。だがこの警告にもかかわらず、現実社会のあり方に順応することを敢然と拒否する資質こそ、英雄を英雄たらしめる素地なのである。大塩平八郎は、安定した、武士としての与力としての前途洋々たる生涯を捨て、書斎の平静な学究生活から離れ、異端異説とみなされる哲学を信奉して、外界の混沌たる社会に身を投じた。その社会で、ドン・キホーテさながらに体制を相手に粛清改革の幻想を抱いて行動を起こした。挑み得ぬものに対して彼は挑みかかったのである。その運動に自分自身の一切を投じたにもかかわらず、大塩は現実社会に何ひとつ積極的貢献をするでもなく、具体的な業績も残さなかった。彼の短い生涯は、「地上に生き斃れた英雄の身体の上に誇らしげに飛翔する理想主義の魂」を例証するものである。
『高貴なる敗北』A・モリス

 
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 上のふたつの地図は時代は異なるものの、現在の靭公園(東園)の南側同位置をえがいたものであり「大塩平八郎 終焉の地」碑脇に掲示されていたものである。

 両方を素直に比較し読図してみると、四つ橋筋=西横堀(川)、本町通=阿波座堀、市立靭幼稚園東側=永代浜(船着場の名称)、靭公園南側道路付近=京町堀(川)となる。いまはその痕跡や記憶は消えてしまったが靭公園周辺だけではなく大坂の町はかつて運河で囲まれた水の都であったのだ。

 また日の丸行進が靭公園を出発する際に使用したゲート(http://goo.gl/maps/SqEA)の一つ西側の「出入口7(http://goo.gl/maps/hDoF)」付近は、京町堀川に南北に架かっていた「紀国橋(紀伊国橋=キノクニバシ)」があった場所のように思える。

 なお四つ橋筋と本町通が交差する信濃橋交差点(http://goo.gl/maps/YSd9)だが、ここには西横堀川に架かる「信濃橋」があり、西横堀橋が埋め立てられた昭和40年代までその姿が存在していたとのこと。

大阪市HP「信濃橋」
http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000030550.html
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河内長野市商工会青年部オフィシャルサイト