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蔣介石「以徳報怨」発言と産経新聞の罪

2013-05-08
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昭和20年8月10日、帝国政府は「ポツダム宣言」の条件付き受諾を対外放送を通じ発表。14日、ポツダム宣言受諾を正式に表明。翌15日正午、昭和天皇が「ポツダム宣言受諾と戦争終結」を国民に対して発表した。御存知の様に現在玉音放送といえばまずこの放送のことを指す。

この放送の直前午前10時(日本時間午前11時)、重慶・中央播電台(中央放送局)では蔣介石により11分間におよぶ「対日抗戦勝利」のラジオ放送が行われている。蔣自らが起草した「抗戦勝利にあたり全国軍民、および全世界の人々に告げる演説」、これを国内および全世界に向けて放送した。この放送は日本では「以徳報怨」演説と呼ばれ、その後保守派、反共主義者を中心にして蔣介石称賛の一例として度々引き合いに出される事となる。

そもそも「以徳報怨」とは何であろうか。
「以徳報怨/徳を以て怨みに報ゆ=怨みに報いるに徳を以てす」は『老子』第六十三章の言葉にある「報怨以徳」が元になっている。それが『論語』の次の一節に引用され、日本人のある世代以上の間で非常に広く、そして誤読のもとに知られる事となった(下線部分が本文、括弧内は読み下し文)。

或曰、以德報怨、何如、子曰、何以報德、以直報怨、以徳報德
(或るひとの曰わく、徳を以て怨みに報いば、如何。子の曰わく、何を以てか徳に報いん。直きを以て怨みに報い、徳を以て徳に報ゆ) 
憲問篇 第十四の三十六

意味は以下の様になるが、これを読むと「以徳報怨」に余り寛大さを感じる事は出来ない。

ある人が「恩徳で怨みのしかえしをするのは(=以徳報怨)、いかがでしょう」と言った。先生は言われた「では恩徳のお返しには何でするのですか。真っ直ぐな正しさで怨みに報い、恩徳によって恩徳にお返しすることです。」

ここでは善と悪にどう報いるかが命題となっている。上記内容を更に要約するとこうなるだろうか。

「怨みには真な心を以て報いればよい、徳にこそ徳を以て報いなさい」

ここで子は「怨みには、恩徳で報いろ」と説いていない。
重要な事だが、子は「以直報怨(直きを以て怨みに報いなさい)」と説いているのだ。

キーワードとなる「直」の解釈には色々と有るらしく、金谷 治訳注『論語』(岩波書店)では「直」を「真っ直ぐな正しさ」としている。また「率直で公平な態度」とするものや「理性」、「誠意」「正しい返し」とするものもある。

「以徳報怨、如何」とはあくまで「ある人」が孔子に発した質問である。それに対し孔子は「徳を以て怨みに報いる」態度は現実社会では難しかろう。怨みに対しては「直」な態度で対応をすればよい、と説く。ここを日本人の多くは誤解しているように思う。なお「以徳報怨」の誤用に「以徳報恩」がある。これでは「徳を以て恩に報いる」という意外性のない言葉となる。

「以徳報怨」にはともすれば世俗の人間的、現実主義な意味を「直」を通して感じるのだが、理想主義的な意味での「以徳報怨」に近いのは儒教ではなく、むしろ仏教的アプローチであろう。原始仏教の仏典『ダンマパダ(真理の言葉)』には「怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息(ヤ)むことがない。怨みをすててこそ息(ヤ)む」とあるからだ。

そして肝心な事であるが蔣介石演説でそもそも「以徳報怨」という言葉自体は直接使用されていない。「蔣介石の以徳報怨演説」は演説の文脈の印象から後に出来た言葉である。

蔣介石のいわゆる「以徳報怨」演説が日本で広まり、今に至るまで保守派を中心とした「蔣介石崇拝」とでもいうべき現象が起きた理由は何であろうか。
ひとつには、終戦直後に日本人向けに大量に配布された各種「蔣介石演説集」の存在が挙げられる。これは中国国民党による出版物を通じた対日言論工作とでもいうべきものであるが、その第一段が終戦の年12月に出版された国民政府軍事委員会政治部編『蔣委員長が日本軍民に告ぐ演説集』である。

この日本語小冊子には、蔣介石が1938~1945年に行った日本国民に対する六つの演説内容が所収されており、終章が「抗戦終結に際し全国軍民に告ぐ書」、つまり「以徳報怨」演説である。この小冊子は市販される事はなく、中国や台湾から復員帰国する日本の軍人、民間人へと無償配布されていた。現在この書を入手することは困難であるが、翌昭和21年12月に出版された『日本に與へる書』は『蔣委員長が日本軍民に告ぐ演説集』の改訂版ともいうべきもの。こちらは容易に入手出来、「抗戦終結に際し全国軍民に告ぐ書」は「合作と民主の大道」と改題、再録されている。

こうして「以徳報恩」演説はその後に続く幾多の関連書によりさらなる蔣介石神話化に寄与し敗戦後の日本人の心に浸透していく。敵国の指導者でありながらも日本の恩人、反共の偉人蔣介石の誕生である。

確かに蔣介石は一般の日本国民に対しては人道主義的な態度で臨むべきだとは演説していたのである。しかし『日本に與へる書』出版の二ヶ月後、台湾で二二八大虐殺が発生。中国国民党軍により二万八千人といわれる台湾人が殺害、処刑されている。敗戦後の日本に二二八大虐殺の詳報は伝わらず事件そのものだけではなく、“恩人蔣介石”がその元凶であることを知る人も少なかった。また中国で共産党が権力を奪取した後に台湾へ逃亡した蔣介石ら国民党が徹底して行ったのが日本文化の禁止、破壊、そして戒厳令下における台湾人に対する白色テロである。『以徳報怨』の正体の一端である。これらのことを知らず、蔣介石を今なお称賛する保守派と呼ばれる日本人は多い。

蔣介石による8月15日の放送、それらを収録した日本語版出版物による日本国民懐柔策は見事に成功したといえるであろう 。


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⇒日本での蔣介石称賛を日本国内で再拡大させた媒体のひとつに『蔣介石秘録』があげられる。
『蔣介石秘録』は、サンケイ新聞(当時)に昭和49年8月15日~51年12月25日まで650回にわたり連載され、その後(昭和50年2月28日~52年4月)サンケイ新聞社出版局により全15巻の単行本として刊行された。なおこの連載開始日が8月15日であるのは偶然とは考えられないだろう。『蔣介石秘録』は日中国交樹立・日華断交(昭和47年/1972)の二年後に連載されており、連載期間途中まで蔣は存命している(蔣介石の死は昭和50年(1975)4月)。この全15巻は昭和60年(1985)に上下二巻の『改訂特装版 蔣介石秘録-日中関係八十年の証言』として内容を圧縮して再刊されている。

改訂特装版の冒頭に次の様にある。

(蔣介石秘録は)内容のすべてが、中華民国の公式記録にもとづいている。中華民国政府および中国国民党にファイルされた公的文献、ならびに蔣介石総統がみずから語ったことや、みずから書き残した記録にもとづいている。資料の中には、はじめて公開される極秘文書も少なくない。これらの資料をどうまとめ、どうやって日本文にするかは、たいへんな作業であった。そのため、サンケイ新聞社では、台北に「蔣介石秘録執筆室」を設け、古屋奎二、岩野弘、香川東洋男、下室進、住田良能の五記者と、間山公麿写真部記者を派遣して、この作業にあたらせた。日本文の執筆は古屋室長が行なった」

また「資料整理、翻訳などの面では、国民党党史会、総統府、外交部、国防部など百三十人におよぶスタッフから協力をえた」ともあり、『蔣介石秘録』がいかなる立場で執筆刊行されていたかが良く解る。同じ“秘録”である『毛沢東秘録』『スターリン秘録』そして『ルーズベルト秘録』とは異なり『蔣介石秘録』のみはサンケイ新聞社による蔣介石公式伝記である。サンケイ新聞で連載された“秘録”は台湾の中央日報で翻訳され掲載、その後『蔣総統秘録 中日関係八十年之証言(全10巻)』として中央日報出版部から刊行されている。

その為に『蔣介石秘録』では二二八事件を「台湾に侵入した共産分子」と題し、通説とは異なる著述がなされている。国民党史観に基づき、その言い分を鵜呑みにした結果がこうである。

「(前略)ここにも共産主義者の魔手はしのび込んでいた。その一つが、一九四七年二月二八日におきた大規模な軍民衝突事件(二・二八事件)である。この不幸な事件は、大陸から海南島を経て台湾に侵入した共産分子が群衆を煽動しておこした騒乱である。のちに共産党はこの事件を、毛沢東が一日に発した「中国革命の新高潮に対応せよ」との指令にもとづくものであると発表、内部かく乱の陰謀をみずから明らかにしている(後略)」(第15巻112頁)
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