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[1月2日(火)]初詣 橿原神宮参拝

投稿日:2018年01月03日 - 投稿者:mumeijin(文責)

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京都は水っぽく、奈良は土が香ると表現したのは、岡潔(数学者/思想家)先生。古代日本の首府でありながら、京都に比べ観光化への情熱が薄く、商売っ気は無く、泥くさい暢気な風土であり続ける奈良の田園地方を散策すると、心穏やかになるものがあります。岡潔氏は数学者として世界的業績を残したが、日本と日本民族の将来を憂いた思想家、憂国の士としても知られる。以下に岡潔の気性を表す一文がありますが、これはわかる人には解ると思うので紹介致します。

…特に、道義のセンスのうちでも正義的衝動が、私たちの学生時代には大いに見られたように思う。例えば、車中でおばあさんに席を譲る場合、気の毒だからというのではなく、他に立つ者がいないのは、けしからんというので立つといった正義心である。(略)。社会に正義的衝動がなくなれば、その社会はいくらでも腐敗する。これが一番恐ろしいことである『春宵十話』
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深田池
アマテラスと一言主神の邂逅、神話的な風景:境内の深田池東端から大和葛城山を望む。動画

深田池から全景
当日、境内の仮設展示場で掲示されていた「神武天皇御一代記絵巻」展より古写真
深田池から橿原神宮全景(左上:畝傍山、中央上:耳成山)

日本書紀 推古天皇廿一年(613年)冬十一月に「作 掖上池・畝傍池・和珥池、又自難波至京置大道」とあり、畝傍山南面を水源地とする人工池である深田池は飛鳥時代・女帝の推古天皇が造成した畝傍池の名残ではないかと言われている。また「難波から京(飛鳥=奈良県明日香村)へ至る大道」とは最古の官道とされる竹内街道のこととされる。

【深田池周辺Google Map】http://goo.gl/niHQ5G


 

橿原神宮&畝傍山
外拝殿、畝傍山(198.5m)

kasiharaguu
「橿原神宮の変遷」

『國史大辭典第』2巻(吉川弘文館 平成10年)より引用
(略)幕末の神武天皇陵の決定に続いて、明治二十一年(1888)奈良県県会議員西内成郷らの請願により、畝傍山の東西麓の畝火村字タカハタケ(高畠、橿原市畝傍町)の地が宮址と伝えられていること、キザハシ(階段橋)・ホンガ(宝算)などの字名があることから宮址と決定され、翌年京都御所の内侍所および神嘉殿が下賜され、橿原神宮となった。昭和十五年(1940)の皇紀二千六百年記念事業として、神域拡張工事が行われ、その際縄文時代後期・晩期の遺跡と奈良・平安時代の井戸とが発見され、また白檮林があったことが判明した

橿原神宮は神武天皇が即位し、皇居とした址である訳だが、その創建は、明治23(1890)年4月2日と新しい。また初代天皇の神武天皇の御陵はその所在が長らく不明となっていた(!)。幕末勤皇思想の隆盛により、江戸幕府は現在の地に神武天皇陵を決定している(文久三年/1863)。本日我々がみていた日本建国の旧蹟は実際には新しいものといえます。

荒蕪図 
江戸末期『文久山陵図』に記録された神武天皇陵の候補地として「神武田(ジブタ)」と呼ばれていた水田の中に小丘が二つ描かれている。江戸期にはこの周辺の字はミサンザイ(≒御山陵)であったが、「糞田」でもあったという。要は荒廃した土地であったのだが、現在の神武天皇陵はこの小丘を中心として大規模に改修されたものである。なおこの丘は多武峰寺(トウノミネジ)の末寺・国源寺の遺跡の一部とする説もある。

IMG_0632古代最大の内乱・壬申の乱(西暦672年)において大海人皇子(後、天武天皇として即位)が神武天皇陵に先勝祈願のための祭祀を行ったという『日本書記』天武天皇元年七月壬子(23日)条の記述(「於神日本磐余彥天皇(カンヤマトイワレヒコノ スメラミコト)之陵、奉馬及種々兵器」)から、神武天皇の陵墓が七世紀には存在していたことが良く知られており、またその場所は現在の神武天皇陵と同一場所であったというのが有力である。

その後、長らく日本の始祖王・神武天皇の陵墓は忘却され、人々の意識からその存在を失う。そして江戸末期、幕府が朝廷対策の一環として荒廃した歴代天皇陵墓を調査する過程で、再発見されるまでの千二百年間埋没していた、ということになる。

[関連]
平成二十六年(2012)2月10日記事
「皇紀(紀元)」概念(平成二十六年=紀元二六七四年)は140年前と新しい
http://ilha-formosa.org/?p=31750


 

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