9月, 2011年

中華民国、最後の領土-金門・馬祖列島-

2011-09-02
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金門島砲撃戦から53年 馬総統が中国との融和強調(2011/08/23)

先週8月23日(火)は、「八二三砲戦(金門島砲戦)」から53年。

台灣の西方100km、そして中華人民共和国の東岸僅か2kmの位置に“飛び地”ともいえる状態で存在する「金門島」と「馬祖列島」。動画はその金門島で1958年(昭和33)を馬英九「中華民国総統」・中国国民党主席が訪問し対中融和のアピールを行なったという事である。

馬英九氏が金門島に渡航したニュースの後、連根藤先生の著作を再読しています。

『日本人に知ってほしい台湾共和国独立のシナリオ(1995年刊/ はまの出版)』では台湾本島から西方に隔絶されたかの様に位置し、大陸に近接する台湾領の金門島・馬祖諸島が担う政治的な役割について平易な解説をされておられます。この中国共産党と中国国民党のいわば同床異夢の為に存在する二つの諸島が持つ政治的な役割。理解し易い内容ですので関連箇所を下記に抜粋しておきます。


金門、馬祖は国共の命綱

 一九五八年八月二八日、金門で中国と国民党政権とのあいだでに砲撃戦が始まりました。砲撃戦は一〇年近く続いたのですが、のちにこれは中国と国民党政権との茶番劇だったことが判明しました。実はこういうからくりがあったのです。

 五八年一〇月、アメリカからダレス国務長官が台湾を訪れ、蔣介石と会談し、「大陸への武力による反撃を放棄する」という声明を出しました。アメリカは蔣介石にすでに中国の勢力範囲に入っている金門と馬祖を諦めさせようとしたのです。ところが中国は、ダレス長官が台湾を訪れるころになると激しい砲撃をしてくるのです。すると金門、馬祖の国民党艦隊は引き揚げるわけにはいきません。彼らの目的はアメリカの圧力で蔣介石軍が金門、馬祖から撤退するのを止めることだったのです。もともと金門、馬祖から撤退したくなかった蔣介石は、これ幸いと引き揚げを中止しました。そのうち中国からの砲撃は、国民党が充分に補給ができるように一日おきの形式的なものになっていきました。中国にとって金門、馬祖は台湾をつなぐ命綱、国民党がここから引き揚げて台湾に押し込められると、国民党は台湾における「亡命政権」になってしまい、現地の政権がそれに取って代われば台湾はアメリカの第七艦隊の保護のもとに独立してしまうでしょう。ダレスの主張する「一つの中国、一つの台湾」が実現してしまうのです。

 このことは六〇年代はじめ、当時の日本の池田総理が証明してくれています。彼は社会党の議員から「蔣介石政権は亡命政権であるのに、なぜ中華人民共和国を承認しないのか」という説明を受け、こう答弁したのです「国民党は中国の一部である金門、馬祖という領土を持っている。だから亡命政権ではない」と。

 そうなのです。「中華民国」の領土は池田元首相の言うとおり「金門、馬祖」しかなく、台湾はその領土ではないのです。

 一九三六年、毛沢東はアメリカのジャーナリストのエドガー・スノーに「将来朝鮮は独立すべきである。台湾も朝鮮の方式をとるべきである」と述べていました。要するに毛沢東も蔣介石と同じように台湾を中国の領土だと思っていなかったのです。したがって絶対に認めることはない偽ブランド「中華民国」を中国領土内の金門、馬祖につなぎとめておき、台湾の主権を「中華民国」とまぜこぜにしておいて国際社会をだまし、いつか台湾を侵略しようというわけなのです。国民党にしても金門、馬祖という大陸の領土があれば仮住居の亡命政権ではないと主張できるのです。両者にとって金門、馬祖は命綱だったのです。

 両者の利害は一致しています。これは中国のことわざで「狼狽之奸」と言います。狽というのは空想の上の生き物で、前脚が短く、いつもオオカミの背中にしがみついていかないと歩けません。ぐるになって悪事を働くことをこのようにたとえるのです。

 国共合作のからくりはおそらく、当時金門の総司令官を務めていた郝柏村(カク ハクソン)が中国と裏で交渉したのでしょう(郝柏村なる人物は、ポスト蔣経国をねらう人物として李登輝時代に再登場します)。現在でも金門、馬祖から撤退する案が出されると、保守派連中は頭から火を噴いて怒り、絶対反対を主張します。

以上は同書 p118〜120

→本書は「何人(ナンビト)も台湾の独立を妨げることはできない。それは我々の権利である。人としての権利なのである」という書き出しから始まっている。書名に「日本人に知ってほしい」と題されているのか。本書は一見すると複雑ないわゆる「台灣問題」をめぐる問題点を解り易く説明しており入門書として一読の書ではないでしょうか。


→昭和26年(1951)9月8日に締結された「日本国との平和条約(=サンフランシスコ講話条約)」 第二条(b)項に基づき日本は、「台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄」した。台灣と澎湖諸島の領有権を正式に放棄したのだが、その後の台灣の地位は国際法的に未定のままであるので、換言すれば中国国民党が「中華民国」として正当に主張出来る領土は「金馬地区」に存在する。一部の台灣独立活動家が冗談めかして命名した“金馬国”である(なお、台灣人独立運動家で「金馬地区」は台灣領ではないと断言する人は珍しくない)。

金門・馬祖列島は、蔣介石が終生目指した大陸反攻(現地では「反攻大陸」と呼称)の為の橋頭堡として、そして中国共産党は蔣介石が「金馬地区」を足掛かりとして中国正統政権を主張する限り「台灣問題」は中国の国内問題であるという虚構を内外に喧伝する根拠とする事が出来たのである。

中国国民党と中国共産党の両党が公言するプロパガンダ「日本は台灣を中国に返還した」に騙されてはならない。そのような事実は存在しない。そして「中華民国」の実態は既に滅亡している。それにもかかわらず台灣人は中華民国(中国)国民として在らねばならない。


・・・五〇年前の日本の無条件降伏のあと、連合軍の占領が始まる前、それまで民族運動が激しかったインドネシアと北ベトナムはいちはやく独立を達成しました。その後四〇年代から五〇年代にかけ民族意識に目覚めた各国は次々独立していきました。もはや旧植民地勢力は退去せざるをえなくなったのです。六五年にはシンガポール、八四年にはブルネイが独立し、残るは台湾だけです。(同書 p228)


 

 東南アジア全域は英仏蘭豪葡そして米国といった白人国家による長期間の植民地により民族の独立と「覇気」「気概」を奪われた(豪州はニューギニア、ポルトガルは東ティモール、米国はフィリピンをそれぞれ自国の植民地とした)。同じ事が台灣にも当てはまるのだ。ただし台灣の支配者は白人ではなく大陸から流れ込んで来た異民族中国人であった。

前の大戦について日本人に欠落している視点がひとつあるとすれば、蔣介石率いた中国(中華民国)が第二次世界大戦の主要参戦国の中で西欧列強に与した唯一の有色人種国家であったという事である。英国はその植民地ビルマ支配を維持する為に、同じく英国最大の植民地でビルマの隣国インドを利用し両民族の反目を煽りながら間接統治をさせた。資源収奪地としての植民地として辛苦に喘ぎ民族独立の機会を奪われたアジアで、蔣介石は欧米植民地支配者の同盟国となり間接的に欧米諸国の植民地支配の延命に加担しているのである。

日本敗戦後、日本軍によりアジアから追放された欧米植民地宗主国は“自国の権益”を求め当然の様に再度アジアに戻って来た。インドシナにはフランスが、インドネシアにはオランダが。インドやビルマには英国が。しかしこれらアジア諸国は二度とその侵略を許すことなく民族の独立を勝ち取った。日本は欧米との戦争に敗北をしたが、勝者である筈の欧米列強はアジアにおける植民地を全て失っている。これら白人諸国は日本がアジアに与えた影響力に怨嗟の気持ちを抱いただろうと思う。そして根氏はアジアで最後に残った外来植民体制「中華民国」からの台灣独立運動を『日本人に知ってほしい台湾共和国独立のシナリオ』で紹介、訴えているのだ。

蔣介石が去った後の新中国は過去と同様に隣接するチベット・東トルキスタン・南モンゴルを併呑しその植民者として資源収奪と民族独立運動圧殺すると共に、今まさに台灣・日本を含む近隣諸国への領土的野心と覇権主義の性格を露わにしている。

【上写真】右:連 根藤氏/5月14日 於みらい座いけぶくろ(豊島公会堂)
地図右下が金門島、対岸は中華人民共和国 福建省廈門(アモイ)市

中国国民党が盛んにアピールする「慶祝 中華民国100周年」はこの金門島と馬祖列島でのみ有効なのかもしれない。


◇中華民国 福建省HP (金門・馬祖は名目上「中華民国 福建省」に属する)
http://www.fkpg.gov.tw/main.php



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