第14世ダライ・ラマ法王猊下 記念講演に臨席して -11月7日(日)-

投稿日:2010-11-08 - 投稿者(文責):mumeijin

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【左】1954(昭和26)年7月、北京の全国人民代表会議で演説する若き法王(当時19歳)
【中】1959(昭和34)年3月、チベット民衆の反中蜂起。ラサを脱出しインド国境に到着した23歳の法王。

8月に中印は国境で武力衝突を起こす。1962年10月中国はインドに対し攻撃を開始した(中印国境紛争)。

【下】亡命の為チベットからヒマラヤを越えインドを目指すダライ・ラマ法王と随行員。勇猛果敢で知られるカンパ族が護衛についた。今回の講演で、法王の後ろで警備についていた眼光鋭い青年はカンパ族だろうと思われる。


当時の朝日新聞報道の一例

【今日の問題 チベットの暴動説】
さる六月のポーランドの暴動に次いで同じ共産圏のチベットに“暴動”が伝えられ、共産軍が反乱分子を爆撃したとか、反共臨時政府樹立の動きがあるとか、さまざまな情勢を伝える報道が続いている。ところが、これらの報道は、言い合したように、インドのカリンポンやニューデリー、ネパールのカトマンズなどにチベットから逃げ出してきたラマ僧やラマ教徒の話によるものが多いようだ。そうだとすると、これらの報道をそのまま信用するのは、マユツバものかも知れない。

チベット族は、中国の少数民族の一つで、チベットからその隣の青海、西康両省やそれに続く地方にも住んでいるが、大部分がラマ教を信じており、ラマ寺院を本拠とするラマ僧は、住民に教えを説くと同時に、土地や畜類を所有する支配者であった。一般民衆は、支配者に対してはドレイや農ドの関係にあったわけで、共産党の「解放」政策も、簡単にはいかなかったらしい。(略)最近イタリア新聞の特派員が、北京政府の言明として報道しているところによると、四川省の暴動はさる二月にも起こったというから、ちょいちょい起こることは間違いないようだ。それにしても浮世離れした所だけに、話に尾ヒレはつくのであろう。
朝日新聞【昭和31年(1956)1年8月13日】


岩田温著『チベット虐殺と朝日新聞』平成20年刊、には上記の様なズレた視点の記事が採録されています。この記事の2年8ヶ月後の1959年3月10日にラサで民衆による蜂起が勃発、ダライ・ラマ法王はラサを脱出しインドに亡命された。

講演では、法王の平易な表現で多くの示唆を与えられるお話が有りました。「平和を実現するためには祈るだけでなく行動が必要。若者にはその責任がある」「心の平穏を保ち、慈悲深い社会を築かなければならない」「世界中のひと達とのコミュニケーションの為に英語を話せるように」と。

また後半の問答会での一青窈(ヒトトヨウ)さんの質問「国家は必要か」という質問で僕の心に緊張が走りました。祖国を中国共産党の武力併合によって奪われたチベット人。

それに対し法王は「分からない」というニュアンスの答えをされていました。中国共産党支配下のチベットを独立ではなく「高度な自治権」を要求している現在、「祖国の独立を強く願いながらも、国家の存在は必要である」とは言えないのですね。ダライ・ラマ法王は祈りを捧げる僧侶(聖)であると共に、10代の頃から毛沢東や周恩来等を相手に怜悧な判断を要求されてきた政治家(俗)としてもあらねばならなかったのです。


河内長野市商工会青年部オフィシャルサイト