【大和路散策】又兵衛桜と大坂五人衆

投稿日:2013-04-13 - 投稿者(文責):mumeijin

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大和を散策しました。

又兵衛桜を観察するために宇陀(奈良県宇陀市大宇陀本郷)へ。
ここ本郷地区は標高400m弱程に位置した雰囲気の良い山里です。当日は天気快晴、気温12度。平日でありながらも多くの観光客が又兵衛桜を愛でる為にこの山間に来ております。樹齢三百年とされる枝垂桜の又兵衛桜は平成12年(2000)にNHKが放送した大河ドラマ『葵 徳川三代』のオープニング映像に使用されたことで一躍広く世間に知られるところとなりました。

「又兵衛」とは大坂の陣で豊臣家を守護する為に参集した浪人衆の中で、特に大名級の武将「大坂五人衆」のひとり後藤又兵衛基次を指すそうです。宇陀市観光連盟の解説では「大阪夏の陣で活躍した戦国武将後藤又兵衛が当地へ落ち延び、僧侶となって一生を終えたという伝説が残り、この垂れ桜が残る地も、後藤家の屋敷跡にあることから地元では“又兵衛桜”と呼ばれて親しまれている」とのこと。


又兵衛桜遠景

大坂五人衆にはその他に真田信繁、長宗我部盛親、毛利勝永、明石全登といった人物がいる。
大坂の陣とは徳川家康(を盟主とする全国の大名衆)と豊臣秀頼(の呼び掛けに応じた浪人集団、10万人とも)との間の決戦であったが、その一方で関ヶ原合戦で石田三成率いる西軍に与した結果浪人となった元大名の再起を賭けた戦いという一面も当然あった。大坂城に集まった烏合の浪人衆を束ね、実戦経験のない若い豊臣秀頼にかわり戦闘の指揮をとったのが大坂五人衆だという。


又兵衛桜近景


こちらは又兵衛桜の傍らにある桃の木々


先の真田信繁、長宗我部盛親、毛利勝永、明石全登は関ヶ原で石田三成、毛利輝元らの西軍に与同して落魄した元大名、文字通り「負け組」である。その中で後藤又兵衛基次のみは関ヶ原合戦では勝者であった。彼は東軍徳川方の筑前五十二万石の太守である黒田長政の配下の武将として戦功を挙げてさえいる。その彼がなぜ大坂城で豊臣方に付いて戦ったかのだろうか。実はこの二人、後藤又兵衛と主君黒田長政は度々衝突していたらしい。身も蓋もない話となるが主従でいがみ合った結果、関ヶ原戦後に主君と決別。又兵衛は諸国を流離した後に豊臣秀頼の招きに応じて大坂に入城したということになっている。

後藤又兵衛は大坂夏の陣で戦死する。

慶長二十年(1615)五月六日、道明寺において。東軍との激戦で銃弾で胸を射抜かれ落馬、自刃して果てた。その死を知った配下の兵は退却を断念して敵地に反転して玉砕する者が多くいた事が記録されている。又兵衛が配下の将兵の人心を良く掌握し慕われていたことは当時でも良く知られていたらしい。そしてその死を惜しむ気持から後藤又兵衛がこの地に逃れたという伝承が成立したのであろう。大坂方には豊臣秀頼を筆頭にして五人衆全員に生存説が伝承のかたちで残ったが、一方の徳川家康には大坂夏の陣での戦死説がある。これは人々の願望が反映されているようで興味深い。世間は元和偃武の演出者徳川家康を憎み、豊臣家への惜別の気持ちを抱いた。寛永元年(1624)豊臣家の盛衰を見守った秀吉の正妻高台院(北政所)が世を去り、豊臣家の記憶は過去のものとなった。

なお大坂の陣において後藤又兵衛の配下で戦死した人物に伊藤源左衛門という者がいた。元の名を伊藤祐道といい織田信長の家臣であった。その後、武士の身分を捨て尾張で「呉服小間物商いとう呉服店」を営んでいたが「大坂夏の陣が起こるや、源左衛門は義によって豊臣方に加わり、戦死を遂げた」と松坂屋HPにある。彼の呉服店が松坂屋のルーツだという。豊臣勢(西軍)に加わることは「義」だというのだ。ならばその反対、東軍に付く事は「不義」ということになるだろうか。この伊藤源左衛門の父は信長小姓の伊藤蘭丸祐広というが、同じく小姓で蘭丸と称されていた森成利とは別人である。ただ森蘭丸の弟の森忠政というのが東軍として大坂の陣に従軍している。

後藤又兵衛の同輩大坂五人衆はどうなったのだろうか。

同年五月七日、徳川家康本陣を目指した真田信繁は実際に徳川本陣を大混乱に陥れたのち、四天王寺近くの茶臼山北麓一心寺で力尽きた。享年四十九歳。

土佐二十二万石の元国主であった長宗我部盛親は大坂城落城後も再起を賭け生き抜こうとした。この思いは関ヶ原合戦での石田三成が家康を討つ為生き抜こうとした姿に重なる。しかし、結局捕縛され五月二十一日京六條河原にて刑死、享年四十歳。この時には秀頼の子豊臣国松も処刑されている。僅か八歳であった。ここに豊臣氏は滅びる。

明石全登のその後は分からない。
この人物は切支丹信徒だったそうで、西軍の敗北が決定的となった時には十字架とキリスト像を掲げ、聖ヤコブ像の描かれた長旗六旒を翻しながら家康本陣を追撃した後に消息を絶った。既に禁教令を出していた反キリスト者の家康は明石全登にとり許し難い男であったに違いない。なお江戸期にはこの明石全登が九州を経て南蛮(フィリピンだろうか)亡命に成功したとの風聞が伝わっている。細川ガラシャがそうであったように自殺を禁じる切支丹の教えは当時も固く護られており、そのため明石全登の自刃は考えられず生存説が存在する。この時期には摂河泉にはキリスト教を奉じた人々が多くいた。明石全登は戦場を離脱後は彼らに庇護されたのち無事に国外に逃亡したように思う。実際、幕府の厳しい追及にも関わらず豊臣方最後の大物はその遺体が発見されなかった。

そのガラシャの子である当時三十歳の細川興秋という青年は関ヶ原合戦で東軍に属した「勝ち組」であったが弟忠利が家督相続したことを不満に思い豊臣側につき、父の細川忠興が属する東軍と戦っている。後藤又兵衛が戦死した道明寺の戦いにも参加。敗戦後父から死を命じられた。

豊臣政権下で五奉行のひとりであった増田長盛の次男に盛次という人物がいる。
家康九男の尾張 徳川義直の家臣として冬の陣では東軍の一員として従軍していた。しかし夏の陣開戦直前、何を思ったのか大坂に入城し長宗我部盛親麾下となった。西軍(豊臣方)の敗戦ほぼ必至な時、いかなる理由で豊臣方に向かったのかは不明。ただ江戸期編纂の書物の挿話には、冬の陣で増田盛次は東軍に属しながら、豊臣勢の優勢な状況を喜び、徳川勢の優勢を嘆く姿があった。これがなぜわざわざ書き留められていたのか。当時から盛次の行動の鮮烈さが話題となっていたという事に他ならない。慶長二十年五月六日、増田盛次は八尾の戦いで討ち死する。享年不明、おそらく三十五、六歳。

豊臣方には浪人だけではなくこうした不満分子ともいえる大名の子弟、そして豊臣家がキリスト教保護をちらつかせていた事から二千名程の切支丹武将が大坂城に集まっており、彼らを明石全登が統率していたとみられる。なお当時城内には七名のキリスト教宣教師が保護されていたという。左上の旗は明石全登が使用していた「花クルス」と呼ばれる旗印で、「大坂夏の陣図屏風(黒田屏風)/大坂城天守閣蔵」左隻(大坂城西側、船場を南へ向かう一隊)に明石全登の率いたと思われる部隊が描かれている。

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豊臣方の中でもこの信仰集団の存在は異彩を放つ存在であったろうと思う。一方仏教界では豊臣家に対する忠誠を維持し続けていたのか根来寺(和歌山県岩出市)の僧兵が西軍に与している。

毛利勝永は篤実な性格の人物で敵方からもその誠実さが愛される様なところがあった。これは小説的な話ではなく当時の聞書きにそのようにある。その一方で大坂の陣の殆どの戦闘に勝利するという極めて優秀な指揮官であったが、四人衆の敗北を見届けると、最後は豊臣秀頼の介錯を務めたのち自刃。豊臣家に殉じた。秀頼二十三歳、勝永三十八歳。こうして大坂城は落城する。慶長二十年(1615)五月八日のことである。

ミクロネシア連邦大統領Emmanuel Manny Mori氏(リンク先=同国大統領事務所)はこの毛利勝永の子孫と伝わっている。

実はミクロネシアと日本との関係は想像以上に深い。大正三年(1914)第一次世界大戦が勃発すると、ドイツ帝国が占領していたこれらの地域では日本とドイツとの間で交戦も行われ、結果日本は現在のミクロネシア連邦、パラオ、マーシャル、北マリアナを含むミクロネシアを占領、南洋群島と命名している。大正九年(1920)には国際連盟から日本のミクロネシア(南洋群島)委任統治が認められ、軍政期を経て大正十一年(1922)には南洋庁という行政機関が設置され日本敗戦まで日本統治が続く。その後「南洋群島」は米国信託統治領となり独立を果たすのは1980~90年代のことである。なおミクロネシアの初代大統領はTosiwo Nakayama氏、日系二世であった。

毛利勝永十世孫に森小弁という『冒険ダン吉』のモデルとなった人物がおり、この人は青年時代には自由民権運動に参加。その後日本人として初めてのミクロネシア定住者として酋長の娘と結婚、その曾孫の一人がImmanuel Manny Mori大統領ということである。毛利勝永の本姓が森氏であったことから、大坂落城後一族が帰農した際に復姓したのかもしれない。現在ミクロネシア連邦の人口11万2千人のうち千人程が森小弁の、つまり毛利勝永の子孫だという。武士団の棟梁の末裔が遥か南方で大統領となったのだ。

昨年五月には来日され当時の野田佳彦首相と会談(リンク先=首相官邸HP)を行っている。
エマニュエル・マニー・モリ大統領の風貌が立派な武人顔に思えてくる。

二年後の2015年は大坂落城、豊臣家滅亡四百年の年となる。

【所在地】国土地理院 地形図
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?longitude=135.91970688035&latitude=34.474377360596

写真手前は本郷川。この小川は次の様に名を変え最後は大阪湾へと至る。
本郷川~宇陀川~名張川~木津川~淀川~大阪港~大阪湾。国土地理院の地形図で確認出来る。


河内長野市商工会青年部オフィシャルサイト