一心公平無私

投稿日:2013-04-24 - 投稿者(文責):mumeijin

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大宇陀本郷の又兵衛桜に別れを告げ、次に向かったのは東吉野村鷲家~小川。
静かな山間部の村、ここは天誅組終焉の地として知られている。
現地に赴いて初めて知ったのだが、今年は天誅組挙兵150年に当たる。

それでは「天誅組挙兵」とはどのような事件なのだろうか。平凡社の『日本史大事典』第四巻「天誅組」の項にはこうある。

「一八六三年(文久三)八月に大和で挙兵した尊攘激派グループ。
この年中央政局を動かした尊攘派のうち、真木和泉らのたてた攘夷親征計画により、八月 十三日に孝明天皇の大和行幸の詔が出された。これを機に大和の天領占拠をめざして、土佐の吉村虎太郎、備前の藤本鉄石、三河の松本奎堂らを中心とし、公卿中山忠光を擁して結成されたのが天誅組である。八月十四日に京都を出て、大坂と河内を経て大和に入り、十七日に五条代官所を襲撃して代官鈴木源内を殺害し、代官所支配地の朝廷直領化、本年の年貢半減などを布告した。はじめ土佐、筑後久留米、鳥取などの脱藩士が多かったが、河内の庄屋層が加わり、京都政変 (八月十八日)が伝えられると、十津川郷士の大量動員をはかった。二十六日、めざす高取城攻撃に失敗すると十津川郷士の離反が相次ぎ、さらに諸藩兵の追討 を受けて敗走を続け、九月二十四日、大和吉野郡鷲家口(わしかぐち)の激戦で多数の犠牲者を出して壊滅した」


天誅組の挙兵から壊滅まで僅かに40日、この間の天誅組の動向は相当に複雑である。確かに言えることは天誅組が壊滅した地がここ東吉野村鷲家ということである。

久留米の神官真木和泉は吉田松陰亡き後の幕末における尊皇攘夷運動の最重要人物。
土佐勤王党出身の中村虎太郎は「寅太郎」表記もあり、現在東吉野村では吉村寅太郎で統一しているようである。

京都政変(八・一八政変)は、長州藩やそれに与する公家の三條実美、姉小路公知、 澤宣嘉(後に澤宣嘉は福岡藩士であった平野國臣に擁立され、天誅組に呼応する為但馬の国生野で蜂起するも失敗(生野の乱)、澤は長州に逃亡、平野は幕府の命で殺害されている)ら尊皇攘夷派を薩摩藩、会津藩の公武合体派が京から追放した政変である。この事件はいわゆる「七卿落ち」に至る。この時真木和泉は七卿と行動を共にしている。

結果天誅組は賊軍とみなされてしまうが長州へ逃亡する事なく、大和に踏み止まり十津川郷士1200名を募兵、そのまま高取城攻撃を行っている。これに失敗した後に士気を喪失した十津川勢は天誅組を離脱。十津川郷の指導者 野崎主計は責任感を持った人物であったのだろう。後に自裁しており、その誠実な人柄を感じさせる辞世が残っている。

大君に 仕へぞまつる その日より 我身ありとは 思はざりけり
討つ人も 討たるる人も 心せよ 同じ御國の 御民なりせば

 
昭和62年(1987)建立「天誅組終焉之地碑」
 
吉村寅太郎 辞世歌
吉野山 風にみだるる もみぢ葉は 我が打つ太刀の 血煙と見よ
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[右写真/天誅組遺跡](原文のまま)
文久三年九月二十七日、天誅組主将中山忠光卿らの安否を気づかい、木津川より山越えをしてここまでたどり
着いた総裁吉村寅太郎は大岩(寅太郎原えい処)の下流約三十メートル左岸の山際にあった薪小屋に潜伏休憩
中に発見密告され、藤堂勢金屋健吉の手の銃弾にて無念の最期をとげた。

 
10月に挙行される『天誅組150年記念行事/天誅組サミットと天誅志士の慰霊大法要』の情報は
http://www.vill.higashiyoshino.nara.jp/tentyugumiibento201311.26.27.html


天誅組三総裁の一人、吉村寅太郎 原瘞処(ゲンエイドコロ)、天誅組終焉の地である。

吉村は地元民に、「病気平癒の吉村大神儀」として手厚く葬られたそうである。「瘞」は「えい」と読み、「埋める」という事を意味するらしい。この場所からほど近いところで吉村寅太郎は戦死する。自尊心の強い半面、茶目気の有る人柄が皆に愛されていたという。

死の間際の言葉は「残念」
僅か150年前、27歳青年の最期の言葉である。

三総裁の他の二人、松本奎堂、藤本鉄石も天誅組による最後の戦闘である鷲家口での戦いで戦死。中村寅太郎総裁の遺骸は当初ここに埋葬されていたが、明治28年(1895)が天誅組三十三回忌に、他の天誅組隊士と共に明治谷墓地に合祀されている。そのため「原瘞」なのであろう。多くの地図が「原えい」と表記しているので意味が解り難い。

主将中山忠光ら主従七名は辛うじて鷲家口の幕府勢の包囲を突破、大坂の長州藩邸に逃れることが出来たが、その後忠光は下関で暗殺され、現在下関市の中山神社祭神として祭祀されている。

奔放、矯激な性格であったらしい公家中山忠光の甥にあたる祐宮(サチノミヤ)は後に長州により擁立され慶応4年(1868)に即位、明治天皇となられる。なお忠光の曾孫の一人が流転の王妃として知られる嵯峨浩(愛新覚羅浩、満洲国皇弟溥傑妻 )であることから、中山神社境内には愛新覚羅溥傑、愛新覚羅浩、愛新覚羅慧生(天城山中で没)を祭神とする愛新覚羅社祀られている。

(写真右上)天誅組軍旗、観心寺参拝時に木綿に「七生賊滅天后照覧 中山侍従罷通る」と墨書きしたもの。「天后」とは陰陽道でいう十二天将のひとつで“航海の安全を司る女神”を意味するという。「照覧」は「(神仏が)御覧になる」という意味。ここでの「賊」とは幕府である。

天誅組隊士の多くは新しい世を迎える事は出来なかったが、維新政府は天誅組の事績を忘れてはいなかった。現在、天忠組(天誅組)隊士の多くは靖國神社に合祀されている。

 


河内長野市商工会青年部オフィシャルサイト