ある男性の生涯

投稿日:2013-09-28 - 投稿者(文責):mumeijin

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その男性を、仮にTさんと呼んで、話を進めていこう。
Tさんは大正十二年(1923)、瀬戸内海をのぞむ山口県の農村に生まれた。

現在であれば四年制大学を卒業する年頃である二十二歳。昭和二十年四月、Tさんは久留米の陸軍予備士官学校を卒業、少尉として第二十五師団で第二中隊第三小隊長を務めた。通称「国兵団」と呼ばれていた第二十五師団の終戦時の駐屯地は宮崎県小林町(現 小林市)となる。これは米軍の九州南部上陸計画「オリンピック作戦」に対抗するための措置であり、国兵団は本土決戦用に温存された師団のひとつであった。当時、軍は米軍の上陸地点を鹿児島県~宮崎県の志布志湾と想定していたが、その判断は正しかったそうである。しかしながらTさんの少尉任官の四ヶ月後に日本はポツダム宣言を受諾し辛くも戦闘は免れた。なお敗戦時、本土決戦に備えて軍には豊富な資産が残存されており、除隊時Tさんにも相当額の慰労金が支給されたとのこと。

Tさんはその後、県内有数の化学メーカーに職を得て、嘱託時代も含めると四十年近くのサラリーマン生活を務めあげた。仕事に対する態度は真面目で厳しいものだったという。三十年程前からだっただろうか、Tさんは白内障を患っており徐々に症状は悪化していた。当時は今ほど白内障の治療法は確立していなかったが、Tさんの生活態度にはさほど変化はなかった。

Tさんに最後の時が訪れたのは今年の九月初旬。夕食時に倒れ、救急車で運ばれたが翌日には帰らぬ人となった。享年九十歳、突然の死ではあったが不足の無い年齢であったのかもしれない。

ただTさんには認知症の症状が進行している八十四歳になる奥さんがいた。Tさんは、週に何度か自宅を訪れる介護職員を通じて自身亡き後を考え、妻のために介護施設の手配を済ませていた。そのためTさんの逝去後も奥さんは本来入居待ちとなる施設にすぐに入る事が出来た。残された人々は晩年まで聡明であり続けたTさんの用意周到な事に感心もし納得もした。

愚痴、泣き事や怠惰とは生涯無縁の、気合のこもった生き方の人であった。
視力が少しづつ失われていく日々も節制に努め、毎朝のウォーキングと自らが考案した体操を課し、それを一日も欠かすことは無かった。自分に厳しく、一本筋の通った折り目正しい生き方に徹した。自分の事は自分で行い、他人に迷惑をかけることを嫌い、それを頑固に貫いた。

克己的でありながらも、淡々と人生を全うしたTさんへの追懐の情は尽きる事が無い。

昭和二十年四月
陸軍予備士官学校卒業時のTさん(右端)


河内長野市商工会青年部オフィシャルサイト