【訃報】小野田寛郎 元陸軍少尉

投稿日:2014-01-18 - 投稿者(文責):mumeijin

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「孤独感という様な弱々しい気持ちは有りません」 /帰国後記者会見での発言
小野田寛郎敬礼

ルバング島で潜伏29年、小野田寛郎さんが死去

第2次世界大戦中にフィリピン・ルバング島に派兵され、終戦後も約29年間、ジャングルで潜伏生活を続けた元陸軍少尉の小野田寛郎(おのだ・ひろお)さんが16日、東京都内の病院で死去した。

91歳。告別式は近親者で行う予定。喪主は妻、町枝さん。

小野田さんは和歌山県出身。1944年12月に情報員として、ルバング島に派遣され、終戦後もジャングルに身を隠し続けた。現地警察との銃撃戦で生存していたことが判明し、74年3月、元上官の説得で帰国を決意。約30年ぶりに母国の土を踏んだ。終戦から27年間にわたってグアム島に隠れ続け、 72年に帰国した横井庄一さんに次ぐ、旧日本兵の帰還となった。

帰国後、兄のいるブラジルに移住したが、84年からは、キャンプを通じてたくましい青少年の育成を目指す「自然塾」を全国各地で開くようになった。89年には私財を投じて財団法人を設立。この功績で2005年に藍綬褒章を受章した。

最近は全国の小中学校などで講演をし、戦争体験を語る活動をしてきた。親族によると、3年ほど前に膵臓がんなどを患い、今年1月から入院していたという。

YOMIURI ONLINE(2014年1月17日11時40分  読売新聞)



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小野田寛郎氏についての情報は、この度の訃報と共に多く流されているので、此処ではルバング島潜伏中の小野田氏の国内外情勢への認識の一端を著書
『たった一人の30年戦争』東京新聞出版局(平成7年/1995年版)から抜粋してみる。

【小野田寛郎少尉 情勢分析(昭和40年代/1965年代頃)/箇条書】

小野田少尉は北京放送、日本短波放送、NHK、豪州日本語放送、英国BBC等を通じ外界情報を把握していたが、敵の謀略を考慮して裏読みを重ねた結果、日本の現状を以下の様に認識していた。

〇本土決戦に敗北しており、米軍占領下で傀儡政権が誕生→日本本土のみ停戦協定を締結している

〇日本は無傷の精鋭80万関東軍を基盤として満洲に亡命政府を樹立しており、(中国共産党と対峙する)蔣介石(中国国民党 )と共闘し英米に徹底抗戦中である。

〇日本本土の傀儡政権と満洲の日本政府は地下で連携している→浅沼稲次郎「米帝国主義は日中共同の敵」発言について←日本国内で活発な抗米活動が続行中と考えた。

〇東京五輪(昭和39年/1964)成功を知っている(戦争とスポーツを切り離す態度に感服)

〇日本の繁栄(高度成長)を認識していた。
(例)皇太子殿下御成婚(昭和34年/1959)、東海道新幹線開通(昭和39年/1964)←戦前の弾丸特急計画が完成されたと思い驚かず。

〇日本を盟主にアジア諸国は続々独立、大東亜共栄圏構想成功、在日米軍基地については大東亜共栄圏連邦基地と認識

〇日米安全保障条約は傀儡政権から脱却した日本本土政府と、満洲に本拠を置く日本新国軍間で締結された「安全保障条約」と認識

⇒連合国軍による謀略(宣伝工作)を想定して、情報を読解する際に「ソ連」を「ドイツ」or「中国」に、「米国」を「日本」に置き換え(ソ連人工衛星「Sputnik」は科学技術先進国のドイツ「Sputnik」に間違いないという様に)理解に努めるも途中で解釈困難に陥る。

内外の情勢に対する大誤解の理由の一つに、小野田氏の中国体験があるという。
支那事変勃発(昭和12年/1937)後も小野田氏は湖北省武口(現在の武漢)のフランス租界で遊興、戦争と平和な市民生活が矛盾無く併存していた体験から、戦争が泥沼化しているだけだと誤認、そして必勝の信念が投降を許さなかった。探索隊が「昭和20年~34年間の新聞縮刷版」を置いたならば、年月を追って読む事で終戦を納得しただろう、と小野田氏は述懐されていた。


小野田寛郎 元陸軍少尉(1922年3月19日 – 2014年1月16日)、享年91歳

合掌

260119 008
『たった一人の30年戦争』東京新聞出版局(平成7年/1995年版)


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