【奉祝 明治節】参拝 吉野神宮

投稿日:2014-11-05 - 投稿者(文責):mumeijin

このエントリーをはてなブックマークに追加


戦前まで明治節とされていた文化の日、吉野を散策しました。京都でも、奈良でもない、それが吉野。この三都市に共通するのはかつて王都であったということ。観桜の季節には多くの観光客が殺到する、この日訪れた吉野神宮、後醍醐天皇陵は観光ルートからも外れており、いつもの様に静寂に包まれていました。気温は12~3度と程良い気候。

吉野神宮は明治二十二年(1889)創立、鎮座祭には明治天皇勅使が御奉納され、現在の社殿が完成したのは昭和七年(1932)のこと。また昭和14年には後醍醐天皇六百年・吉野神宮創立五十年式年祭が斎行されている。

【明治節】吉野神宮(旧社格 官幣大社)/御祭神 後醍醐天皇

「玉骨ハタトヒ南山ノ苔ニ埋ルトモ 魂魄ハ常ニ北闕ノ天ヲ望マント思フ」、これは『太平記』(巻二十一)」に記録された後醍醐天皇の遺言とされる。「闕(ケツ)」とは宮城を指し「北闕」は南の王都である吉野から京都を望んだ表現。この言葉通り、吉野・如意輪寺の東側に位置する後醍醐天皇塔尾陵(トウノオノ ミササギ)は北面を向いている。なお京では吉野を指して「南山」と呼称されることが多かった様である。

20141103yoshino 012

後醍醐天皇陵に向かう石階段の右側(如意輪寺裏手にあたる)横には世泰親王墓が所在している。「世泰」はトキヤスと読むが、ヨヤス、またはセタイと読む場合もあるようである。かつてモリナガ親王とするのが定説であった護良親王を、現在ではモリヨシ親王とするのが正しい様に、日本史上の人物には読みが判明しないことはそう珍しいことではない。この世泰親王は、大正15年(1926)に即位が確認されて皇統に加えられた第九十八代長慶天皇(後醍醐天皇孫、後村上天皇皇子)の長子とされるが事績は不明。僅かに『新葉和歌集』巻第十九哀傷哥一三八三詞書に「世泰親王かくれ給〔ひ〕て、如意輪寺にをさめ侍りし云々」とあり、また巻十八雜下哥一二五九の詠み人が「世泰親王家右京太夫」という人物であることが伝わっている(*1)。吉野朝廷において世泰親王家というものが存在していたことになる。

20141103yoshino 019
(写真)世泰親王墓(後醍醐天皇曾孫)

史料の乏しさと、消滅した皇統(大覚寺統)という理由から混乱の多い南朝系図において、世泰親王は『新葉和歌集』によって一応その実在が確認される宮になる。ただ長慶天皇皇子であることも『新葉和歌集』からの推定であり、それ以上の根拠は無い。世泰親王の様に存在の確かな皇族はまだしも、南朝(後醍醐天皇→後村上天皇→長慶天皇→後亀山天皇)には系譜不詳、諱(イミナ)不明の皇族は少なくない。

後醍醐天皇の崩御は、延元四年(1339)であるが、この最後の皇胤(「岡崎前門主王子・小倉宮御息」)の足跡は文明十一年(1479)まで辿る事が出来る。そしてこの人物も系譜等確かなことは不明である。後醍醐天皇の血脈は死後140年間続いている(*2)。なお菅政友『南山皇胤譜』には世泰親王の御名は見受けられないが、これもまた南朝研究の困難と混乱を感じさせるものである。

【H26(2014)/11/3】浄土宗 塔尾山 如意輪寺【奈良県吉野町】

(*1)『新葉和歌集』岩波文庫/平成四年

(*2)大覚寺統の終焉については以下を参照のこと。
「応仁文明の乱における旧南朝皇族の動向」
http://ilha-formosa.org/?p=33267


 

河内長野市商工会青年部オフィシャルサイト