1987年7月15日零時             

投稿日:2012-07-19 - 投稿者(文責):mumeijin

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表題は台湾で戒厳令が解除された日付である。7月15日は38年間にわたる戒厳令の解除から25年にあたる。


 

戒厳令解除から四半世紀=白色テロ被害者を追悼-台湾(2012/07/15) 時事ドットコム

「戒嚴時期政治受難者紀念追思儀式」に於ける馬英九中国国民党主席と「名誉回復証書」を受ける李伸氏

【台北時事】約38年間続き、世界最長と言われた台湾の戒厳令が1987年に解除されて、15日で25年を迎えた。四半世紀を経て人々から戒厳令時代の記憶が薄れつつある中、台北では同日、戒厳令下で当時の国民党が加えた政治迫害「白色テロ」の犠牲者らを追悼する式典が行われ、遺族や生存する被害者ら約120人が参列した。

式典では、犠牲者に対する黙とうや献花のほか、被害者の名誉回復などが行われた。式典に出席した馬英九総統は、「被害者に心から謝罪したい。われわれを反省に導いたのは自由民主の力だ」などとあいさつ。政府として同じ過ちを繰り返さないよう努力する考えを強調した。


戒厳令下で15年間投獄された被害者の男性(84)は取材に対し、「政府がいくら反省したところで、失われた15年は戻ってこない」と述べ、悔しさをにじませた。

一方、国民党独裁下で民主化運動を展開し、戒厳令解除の原動力となった野党・民進党は同日、全国党員代表大会を開催。蘇貞昌主席は、「民進党は人々の期待に応えられるよう、当時の精神に立ち戻ることが必要だ」とあいさつし、党員の団結を訴えた。


【時事ワード解説】
 日本に代わって台湾を統治した国民党が、治安維持を名目に1949年5月19日に公布。翌20日に施行されてから、蒋介石総統の息子、蒋経国総統時代の87年7月15日に解除されるまで38年56日間続いた。この間、台湾人の言論や思想、集会などの自由が著しく制限され、知識人や民主活動家らが軍の治安当局によって不当に捕らえられて投獄・殺害される「白色テロ」が台湾全土に吹き荒れた。被害者の数は正確には把握できていないが、20万人を超えるとの見方もある。


 

中華民国の「戒厳法」は1934年(昭和9)に公布、施行されている。
当時、中華民国の首都は南京であったが1937年(昭和12)支那事変によって南京は日本軍が占領。それにともない中華民国政府は臨時首都を武漢に定めてさらに日本軍の追撃を避ける為に重慶への撤退を余儀なくされている。

蔣介石により初めて戒厳令が発令されたのは国共内戦のさなかの1948年(昭和23)年12月10日の事であった。しかし台湾はチベット、東トルキスタン(中国呼称“新疆ウイグル”)とともに戒厳地区からは除外されており、戒厳令自体も二ヶ月弱で解除されている。
国共内戦での国民党の敗北が濃厚となった1949年5月20日に台湾省警備総司令部は台湾地区に戒厳令を発している。10月1日中華人民共和国が成立したことで中国国民党は12月7日には中華民国政府の台北“遷都”を決定、10日には蔣介石が台北に脱出して同時に中国人軍民200万人が台湾に流入していった。

台湾における戒厳令は共産党の“反乱”鎮圧の為の総動員体制確立、共産主義の浸透防止、台湾での中国人政権の維持、そして台湾独立運動の封殺のために異例の長期間続けられた。
1987年(昭和62)7月15日、蔣経國政権末期になり国内外の批判を受けて戒厳令は解除。翌年1月13日蔣経國死去に伴い副総統であった李登輝が台湾人として初めて総統職に就任。中国人勢力が盤踞する国民党政権のなかで徐々に実権を掌握した李登輝時代(1988-2000)に台湾の民主化は大きく前進する事となった。ひとつに言論の自由が開放され「顚覆(転覆の意)」という言葉が流行語となったという。
1995年2月28日、李登輝総統は中国国民党を代表して48年前の国民党による二二八事件での犠牲者とその遺族達に対して公式に謝罪をおこなった(ただし二二八事件当時、李登輝氏は本省人エリートとして迫害される側にいた)。

なお戒厳令により戒厳地区の最高司令官には以下の権限が与えられていたという(*1)

一、集会、結社及びデモ行進、請願を停止し、言論、学術講演、新聞雑誌を取り締まること。
二、集会、結社デモ、請願を解散させること。
三、商人のストライキ、労働者のストライキ、労働者のストライキ、学生の授業ボイコット、及びその他のサボタージュの禁止
四、郵便、電報の閲覧回覧、差し押さえ、没収
五、交通機関と旅客の検査
六、宗教活動の制限あるいは禁止
七、止むを得ない場合の人民の不動産破壊
八、民間の食糧及び資源を検査し、搬出を禁止し、収用すること


国民党は軍・警察・特務そして戒厳令の力を背景に大陸反抗の拠点として台湾の中国化を進めた。
写真は1955(昭和30)年1月、台北における開国記念日での蔣介石、その右が蔣経國

(*1)『増補改訂版 台湾史小事典』中国書店 2010年 参照

先の大戦後に台湾人は「自由中国」を標榜する外来亡命政権(中国国民党一党独裁政権)下、二二八事件、長期の戒厳令下での白色テロという苦難と恐怖の時代を過ごし自由と民主を奪われていたのである。戒厳令下であり尚且つ「党禁」であった1986年(昭和61)9月に党外人士を中心に結党された民主進歩党が国民党一党支配を打破して政権党となるのは更に14年後の2000年(平成12)3月の事である。


【関連】
「以徳報怨」-蔣介石神話と保守派日本人-
http://ilha-formosa.org/?p=5399


 

 

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