台湾建国党の挫折

投稿日:2013-11-13 - 投稿者(文責):mumeijin

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建国党が結成されたのは、1996年(平成8)10月6日、と内政部の資料にある。今から16年前のことである。内政部の「政黨名冊(政党名簿)」には「建國黨」とあるが、時に「台灣建國黨」と呼称され、英語表記ではTaiwan Independence Party(TAIP/台湾独立党)となる。

建国党が結党した当時、台湾には立法院に議席を有する政党は三党あった。中国国民党(結党1919年)、民主進歩党(結党1986年)、そして中国国民党反主流派(反李登輝派)が発足させた新党(結党1993年)である。正統国民党を自負した「新党(New Party)」は奇妙な党名であるが、今思うと前年に細川護煕氏らが結成した日本新党(Japan New Party)を意識した命名であったのかもしれない。あくまで憶測ではあるが。

台湾の将来について「独立か、統一か」という選択肢が叫ばれる中、この三党に一致した政策が「現状維持」であった。日本では新党は中台統一最強硬派の印象が強いが、実際には圧倒的多数の台湾人が現状維持もしくは独立傾向にある中では、急進的な統一には慎重とされている。それでは現状維持とはどういう状況を指すのであろうか。実は中国との関係において現状維持(=中国との関係を「曖昧な現状に据え置く=台湾は既に事実上独立しており、 独立を敢えて宣言する必要もない)ということは、換言すると台湾は中国の一部であることを許容するという事に他ならない。

なぜなら台湾は国家体制がなおも made in Chinaであるからである。国号は中華民国(中国)、憲法は中華民国憲法(中国憲法)、国旗は中国国民党党章の描かれた青天白日満地紅旗、国歌は三民主義、国父は孫文、現在も中華民国は中国の正統政府を主張している。これらすべてをmade in Taiwan に変更せねば、中華人民共和国は台湾併合を国内問題として解決出来るという口実を与えてしまう。台湾の独立建国が成し遂げられ国際連合への加盟が成就するならば、中台関係は名実共に国際問題となり中国共産党はむしろ介入の口実を失う。中国共産党の恫喝に臆した上での現状維持より、台湾を独立させることこそが、台湾の安全を保障する。この考え方は実は建国党の基本的な考え方でもあった。

一方、民進党は基本綱領(1986年制定、いわゆる「台湾独立綱領」)で次の様に主張していた。

台湾主権の現状に沿って、独立建国し、新たな憲法を制定して、法的・政治的システムを台湾社会の現状に合致させ、更に国際法の原則を基づいて台湾を国際社会に復帰させる

当初民進党はこの様に台湾共和国建国を明確に志向していたのである。しかしその後民進党は徐々に台湾独立路線を後退させていく。

なかでも1999年に同党が採択した「台湾の前途に関する決議文」において、

「台湾は一つの主権独立国家であり、その主権領域は台湾、澎湖、金門、馬祖及びその付属島嶼、さらに国際法の規定に基づく領海と近接水域である。台湾は、現行憲法においては「中華民国 (The Republic of China)」と称されており、中華人民共和国とは相互に隷属していない。また、独立した現状を変更するいかなる場合に於いても、全ての台湾住民による住民投票によって決めなければならない 」

として事実上、中華民国体制を容認してしまった。これは民進党が政権党となった場合、台湾独立を宣言しないことを意味するとされ、こうして台湾独立、台湾共和国建国という民進党の立党意義への情熱を自ら失わせていく(最近では2011年1月に行われた中華民国総統選挙中に、民進党候補の蔡英文氏は戦術的にではあるが「台湾は中華民国」「中華民国は台湾」との発言を行い、結果的に台湾独立派に失望を与えている)。

政権獲得の為、新党や国民党と妥協を重ね、台湾独立をも後退させる民進党に失望し見限った同党支持者の特に独立建国派らが結成したのが建国党であった。台湾独立派政党の急先鋒として建国党は「台湾共和国憲法の制定、台湾共和国の建国」「中華民国は消滅しており、中国国民党の台湾統治は不法である」「中華人民共和国の台湾侵略阻止」とその主張は党名同様に明確なものであった。

建國黨黨旗
建国党党旗、独立建国への途を表現しているという

当時、民主化により雨後の筍のように現れた諸政党のなかでも、建国党は台湾で最も高学歴者が集まる知識人政党とされていた。

事実、建国党結党の発起人(多くは民進党支持者であった人々)には大学教授を主とする教育者(67人)、医学界(26人)、法曹人(8人)、芸術家(30名)のほか会計士といった専門職業人が多く集っている。また中産階級の企業主も多く参与していた。特筆すべきは教育者の多くが台湾民主活動、独立建国運動に関わってきた台湾教授協会、台灣教師聯盟の会員であったことである。その中には後に国史館館長に就任する張炎憲氏(*)も含まれている。

初代建国党主席・李鎮源氏は1940年(昭和15)台北帝国大学医学部を卒業し、戦後は台湾大学医学院(医学部)で教授を務め、中央研究院院士(日本の学士院会員に相当/ノーベル化学賞受賞者(1986年)の李遠哲氏は1994年から2006年まで中央研究院院長を務めている)にも選ばれた秀才であった。また副主席には刑法学の権威で台湾教授協会会長を務めた林山田台湾大学法律学部及法律研究所教授が就任している。そして第二代主席は、許世楷氏(陳水扁政権時の駐日代表、元台湾独立建国連盟主席)である。

建国党結党の二年後に行われた第四回中華民国立法委員選挙(1998年)は国民党の圧勝で終わった。20人の候補者を出した建国党の獲得議席は僅かに一議席、中選會選舉資料庫網站内の資料によると得票数は145,118票とある。2001年8月、国民党台湾本土派が台湾団結連盟を結成すると建国党はその存在意義を更に失い、第五回立法委員選挙(2001年12月)では、候補者三名を出したものの議席を得る事は遂にかなわなかった。この時、台湾団結連盟は13議席を獲得している。

組織拡大方法の無理解と党内の政策不一致も伴い、以降建国党は凋落の一途をたどり続け、泡沫政党として台湾政治史に埋没していく。台湾随一の知識人からなる独立派政党は、中華民国体制を否定し、明確に台湾共和国樹立を主張する事で、尖鋭的本土派政党として一時世間の注目を集めた。しかし台湾人全般に支持を拡大する事は出来ず、政治的成果にも見るべきものがなかった。建国党結党時のメンバーであった陳茂雄氏は、後に建国党泡沫化の原因、そして政治的敗因を次の様に語っている。

「民進党が台湾独立を断念し、台湾の国号を中華民国とした時、建国党は中華民国を完全に否定して、台湾共和国建国を主張した。この建国党の努力には意味があったのだ。しかし台湾建国のスローガンを叫ぶものの、一向に行動力が無かった。また最も重要な事だが、建国党は如何にして中華民国に取って代わる台湾共和国を建国させるかを台湾人に訴える事が無かった。そこで私はひとつの厳粛な事実を思い知るのである――世界中でスローガンを叫ぶだけで建国を為し得たという先例は無い」

そしてまた、

「建国党が泡沫化した原因は幾つも有る。ある人物が私にこういったのを忘れられない。『私達は独立建国を支持しないのではない。ただ独立活動家が好きではないのだ。何故なら独立活動家はいつでも人を罵り、他者の誤りを非難する。そして最後は感情的な論争を繰り返す。こうして独立運動家と一般の人達の距離は更に遠ざかっていく。この様な状況でどのように勢力を拡大出来ると言うのでしょうか?』」

どの組織、集団においても有り勝ちな光景と言えなくはないが、さしもの知識人集団もその例外ではなかった様である。

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日本語で入手出来る張炎憲氏の近著として『台湾独立建国運動の指導者 黄昭堂自由社(平成25年8月刊)が挙げられる。


「海峡両岸サービス貿易協定」を推進した馬英九総統に対する建国党員の抗議の様子(2013年7月)

「反服貿! 台灣建國黨突襲嗆馬-民視新聞」

 


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