「始政四十年記念博覧会」ポスター
「始政四十年記念博覧会」(昭和10年(1935)10月10日~11月28日)とはどういったものであったのだろうか?
『台湾史小事典/増補改訂版』平成22年(2010)版/中国書店 には次のように簡潔な説明がなされている。
総督府が台湾統治40年の政治実績を広く宣伝するため、百万円を費やして挙行した大型博覧会。台湾総督府が全面的に後援し、総督の中川建蔵が博覧会総裁に、 政務長官の平塚広義が博覧会会長に就任した。昭和10年(1935)10月10日から11月28日まで、展覧の期間は50日だった。会場には台北市公会堂 (現在の中山堂)、台北市公園(現在の二二八記念公園)、大稲埕分場、草山温泉地(現在の陽明山温泉)等があてられた。陳列会場の施設には産業館、林業館、交通土木館、南方館等の直営館と満洲館、日本製鉄館、三井館、東京館、専売館等の特設館があった。戦後の初代行政長官になった陳儀も参観に訪れており、大変高い評価を与えていた。
なお「始政四十年記念博覧会」に関しては以下サイトが充実している。
台灣玉山之友「始政四十周年紀念臺灣博覽會畫帖」 http://tw01.org/group/Taiwaner/forum/topics/1970702:Topic:260106
1935年(昭和10)から40年前というと1895年(明治28)となる。 この年四月十七日、日清戦争の処理として下関条約(馬関条約)が日本と清国との間で締結され、清国は朝鮮独立の承認と遼東半島、台湾、澎湖諸島を日本に割譲した(なお遼東半島はドイツ、ロシア、フランスの三国干渉の結果、賠償金と交換に清国へ返還となった)。
しかし五月二十五日、清国官僚・唐景崧が総統就任式を行い、有力者(台湾士紳階層)の一部を糾合、年号を「永清」と定め台湾民主国を樹立、台湾の日本への割譲を拒むという事件が起きた。このため台湾を接収に来た日本代表・樺山資紀(5/10初代台湾総督を受任)は、六月二日清国代表・李経方と基隆港上の船上で台湾引渡しの手続きを行わざるおえなかった。これ以降台湾は清国から離脱して日本時代へと移行することになり、日台は昭和二十年の敗戦までの半世紀間、歴史を共にするのである。
翌六月三日、日本は軍艦29隻を以て基隆を攻略、台北城は大混乱に陥ったが、台湾民主国に戦意は無く、四日唐景崧総統及び閣僚は台北を脱出、淡水を経て廈門へ逃亡してしまった。六日、日本軍は基隆に上陸、七日台北城を占領し、ここに台湾民主国は崩壊する。五月二十三日の独立宣言から僅か14日目のことである。しかしその後も残党は、台南で抵抗を継続していた清国軍人・劉永福を第二代総統として四ヶ月ほど日本に対する抗戦を継続するが、十月十九日劉永福総統は英国船で大陸に逃亡しここに消滅した。明治二十八年六月十七日午後三時、台北の旧巡撫政庁に日章旗が掲揚された。この日が台湾総督府の始政日となった。
なおアジア最初の共和国(というにはやや大仰な)台湾民主国の壊滅後も、台湾住民による抗日蜂起や小規模な独立運動は多発しているが、土俗信仰に基づいた王朝創設運動といった前近代的なものも含まれており、いずれも小規模反乱の域を出ていない。
1896年(明治29)、雲林の人・柯鉄「天運元年」を定め抵抗を続ける 1897年(明治30)、嘉義で黄国鎮という人物を「皇帝」に擁立、「太靖」と改元 1912年(明治45)、嘉義住人・黄朝、神勅により「台湾国王」を自称、蜂起企図(土庫事件) 1913年(大正2)、 羅福星による共和国樹立運動(苗栗事件) 1914年(大正3)、 台南人・羅臭頭、「台湾皇帝」を称す(六甲事件) 1915年(大正4)、 余清芳、「皇帝」「大元帥」を称し「大明慈悲国」建国を企図(西来庵事件)
短期間に国王や皇帝即位を志向する者の多い事、日本史に稀有な興味深い現象に思える。
(下)羅福星生誕百年に発行された記念切手(1986年発行)、国民党は反日教育に利用していた。
黄昭堂氏は台湾民主国について「十九世紀も終わりに近づいた一八九五年、東シナ海の孤島に忽然として誕生し、そしてまた忽然として消えさった台湾民主国、それはその儚さの故に神秘的であるというばかりではない。清国が依然として帝制のもとにさまよっていた時に、台湾が共和制に基づく独立国として出現したことは、台湾人のみならず、台湾史に興味をもつ人のびとの関心をひくにあまりある」として『台湾民主国の研究-台湾独立運動史の一断章-』昭和45年(1970)/280頁/東京大学出版会 を著している。四十年以上を経過した学術書ではあるが、五ヶ月で消滅した台湾民主国に関する基本文献として現在も重要な書である(表紙、青地に虎の意匠は俗に「黄虎旗」とされ台湾民主国国旗として制定されたもの。台湾ではこのデザインの丁シャツを着用した若者を独立派の集会などで目撃することがあるが、台湾民主国の「独立宣言」や「民主」「建国」のキーワードが現在の台湾民族主義者、独立派の琴線に触れる様である)。
ところで本日十月十日は台湾では国慶日(雙十節)、つまり中華民国建国記念日とされている。 だがこれは史実として正しいことなのだろうか?
(1)1911年(明治44)10月10日=辛亥革命の端緒「武昌蜂起」勃発(2)1912年(明治45)01月01日=中華民国元年開始(3)1949年(昭和24)10月01日=中華人民共和国成立、12月08日国民党、国共内戦で敗北が決定的”台湾遷都”決定→12月10日蔣介石、台湾逃亡(4)1952年(昭和27)04月28日=サンフランシスコ講和条約発効、日本は台湾及澎湖諸島に対する主権放棄日本が台湾の主権を放棄したのは(4)の時点、(3)の国共内戦で共産党に敗れた国民党が台湾で「中華民国」を名乗っているのは僭称であり、「中華民国後継勢力 (亡命集団)」というのが実態であろうと思う。
国民党は台湾を拠点に大陸に「中華民国」の再建・復活を目指しただけであり、「建国103年」を祝うというのは、台湾を不法占拠した国民党が主張する虚構の「正統中国」の存在を宣伝することになりはしないか。そこには国民党のための中国史が有るだけである。国民党が主張する建国103年とは台湾に存在する中華民国体制フィクションのひとつである。武昌蜂起を台湾人の国慶日(建国記念日)とすることの不合理さに気付くのは容易だ。
にも関わらず、今年も東京(台北駐日経済文化代表処)や大阪(台北駐大阪経済文化弁事処)主催の国慶日祝賀会が開催され、東京では福田康夫元首相ら各界から1600人、大阪でも450人の親台湾、保守派を自認する日本人らが参加している。彼等は先ずは多くの台湾人が、この「建国記念日」に無関心であり、台湾を応援する日本人が、中華民国国慶日を祝うことに唖然としていることを知るべきだろう。
【以前の関連記事】
〇【記事】宜蘭県が日本統治時代年代に日本の年号使用提案 http://ilha-formosa.org/?p=11978 〇誰の為の「国慶節」なのか http://ilha-formosa.org/?p=20756
〇「皇紀(紀元)」概念(平成二十六年=紀元二六七四年)は140年前と新しい http://ilha-formosa.org/?p=31750
「始政四十年記念博覧会」ポスター
「始政四十年記念博覧会」(昭和10年(1935)10月10日~11月28日)とはどういったものであったのだろうか?
『台湾史小事典/増補改訂版』平成22年(2010)版/中国書店 には次のように簡潔な説明がなされている。
総督府が台湾統治40年の政治実績を広く宣伝するため、百万円を費やして挙行した大型博覧会。台湾総督府が全面的に後援し、総督の中川建蔵が博覧会総裁に、 政務長官の平塚広義が博覧会会長に就任した。昭和10年(1935)10月10日から11月28日まで、展覧の期間は50日だった。会場には台北市公会堂 (現在の中山堂)、台北市公園(現在の二二八記念公園)、大稲埕分場、草山温泉地(現在の陽明山温泉)等があてられた。陳列会場の施設には産業館、林業館、交通土木館、南方館等の直営館と満洲館、日本製鉄館、三井館、東京館、専売館等の特設館があった。戦後の初代行政長官になった陳儀も参観に訪れており、大変高い評価を与えていた。
なお「始政四十年記念博覧会」に関しては以下サイトが充実している。
台灣玉山之友「始政四十周年紀念臺灣博覽會畫帖」
http://tw01.org/group/Taiwaner/forum/topics/1970702:Topic:260106
1935年(昭和10)から40年前というと1895年(明治28)となる。
この年四月十七日、日清戦争の処理として下関条約(馬関条約)が日本と清国との間で締結され、清国は朝鮮独立の承認と遼東半島、台湾、澎湖諸島を日本に割譲した(なお遼東半島はドイツ、ロシア、フランスの三国干渉の結果、賠償金と交換に清国へ返還となった)。
しかし五月二十五日、清国官僚・唐景崧が総統就任式を行い、有力者(台湾士紳階層)の一部を糾合、年号を「永清」と定め台湾民主国を樹立、台湾の日本への割譲を拒むという事件が起きた。このため台湾を接収に来た日本代表・樺山資紀(5/10初代台湾総督を受任)は、六月二日清国代表・李経方と基隆港上の船上で台湾引渡しの手続きを行わざるおえなかった。これ以降台湾は清国から離脱して日本時代へと移行することになり、日台は昭和二十年の敗戦までの半世紀間、歴史を共にするのである。
翌六月三日、日本は軍艦29隻を以て基隆を攻略、台北城は大混乱に陥ったが、台湾民主国に戦意は無く、四日唐景崧総統及び閣僚は台北を脱出、淡水を経て廈門へ逃亡してしまった。六日、日本軍は基隆に上陸、七日台北城を占領し、ここに台湾民主国は崩壊する。五月二十三日の独立宣言から僅か14日目のことである。しかしその後も残党は、台南で抵抗を継続していた清国軍人・劉永福を第二代総統として四ヶ月ほど日本に対する抗戦を継続するが、十月十九日劉永福総統は英国船で大陸に逃亡しここに消滅した。明治二十八年六月十七日午後三時、台北の旧巡撫政庁に日章旗が掲揚された。この日が台湾総督府の始政日となった。
なおアジア最初の共和国(というにはやや大仰な)台湾民主国の壊滅後も、台湾住民による抗日蜂起や小規模な独立運動は多発しているが、土俗信仰に基づいた王朝創設運動といった前近代的なものも含まれており、いずれも小規模反乱の域を出ていない。
1896年(明治29)、雲林の人・柯鉄「天運元年」を定め抵抗を続ける
1897年(明治30)、嘉義で黄国鎮という人物を「皇帝」に擁立、「太靖」と改元
1912年(明治45)、嘉義住人・黄朝、神勅により「台湾国王」を自称、蜂起企図(土庫事件)
1913年(大正2)、 羅福星による共和国樹立運動(苗栗事件)
1914年(大正3)、 台南人・羅臭頭、「台湾皇帝」を称す(六甲事件)
1915年(大正4)、 余清芳、「皇帝」「大元帥」を称し「大明慈悲国」建国を企図(西来庵事件)
短期間に国王や皇帝即位を志向する者の多い事、日本史に稀有な興味深い現象に思える。
(下)羅福星生誕百年に発行された記念切手(1986年発行)、国民党は反日教育に利用していた。
黄昭堂氏は台湾民主国について「十九世紀も終わりに近づいた一八九五年、東シナ海の孤島に忽然として誕生し、そしてまた忽然として消えさった台湾民主国、それはその儚さの故に神秘的であるというばかりではない。清国が依然として帝制のもとにさまよっていた時に、台湾が共和制に基づく独立国として出現したことは、台湾人のみならず、台湾史に興味をもつ人のびとの関心をひくにあまりある」として『台湾民主国の研究-台湾独立運動史の一断章-』昭和45年(1970)/280頁/東京大学出版会 を著している。四十年以上を経過した学術書ではあるが、五ヶ月で消滅した台湾民主国に関する基本文献として現在も重要な書である(表紙、青地に虎の意匠は俗に「黄虎旗」とされ台湾民主国国旗として制定されたもの。台湾ではこのデザインの丁シャツを着用した若者を独立派の集会などで目撃することがあるが、台湾民主国の「独立宣言」や「民主」「建国」のキーワードが現在の台湾民族主義者、独立派の琴線に触れる様である)。
ところで本日十月十日は台湾では国慶日(雙十節)、つまり中華民国建国記念日とされている。
だがこれは史実として正しいことなのだろうか?
(1)1911年(明治44)10月10日=辛亥革命の端緒「武昌蜂起」勃発
(2)1912年(明治45)01月01日=中華民国元年開始
(3)1949年(昭和24)10月01日=中華人民共和国成立、12月08日国民党、国共内戦で敗北が決定的”台湾遷都”決定→12月10日蔣介石、台湾逃亡
(4)1952年(昭和27)04月28日=サンフランシスコ講和条約発効、日本は台湾及澎湖諸島に対する主権放棄
日本が台湾の主権を放棄したのは(4)の時点、(3)の国共内戦で共産党に敗れた国民党が台湾で「中華民国」を名乗っているのは僭称であり、「中華民国後継勢力 (亡命集団)」というのが実態であろうと思う。
国民党は台湾を拠点に大陸に「中華民国」の再建・復活を目指しただけであり、「建国103年」を祝うというのは、台湾を不法占拠した国民党が主張する虚構の「正統中国」の存在を宣伝することになりはしないか。そこには国民党のための中国史が有るだけである。国民党が主張する建国103年とは台湾に存在する中華民国体制フィクションのひとつである。武昌蜂起を台湾人の国慶日(建国記念日)とすることの不合理さに気付くのは容易だ。
にも関わらず、今年も東京(台北駐日経済文化代表処)や大阪(台北駐大阪経済文化弁事処)主催の国慶日祝賀会が開催され、東京では福田康夫元首相ら各界から1600人、大阪でも450人の親台湾、保守派を自認する日本人らが参加している。彼等は先ずは多くの台湾人が、この「建国記念日」に無関心であり、台湾を応援する日本人が、中華民国国慶日を祝うことに唖然としていることを知るべきだろう。
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〇【記事】宜蘭県が日本統治時代年代に日本の年号使用提案
http://ilha-formosa.org/?p=11978
〇誰の為の「国慶節」なのか
http://ilha-formosa.org/?p=20756
〇「皇紀(紀元)」概念(平成二十六年=紀元二六七四年)は140年前と新しい
http://ilha-formosa.org/?p=31750