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李登輝氏の米寿祝賀会 独立派・台灣本土派が結集

2011-01-05
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李登輝元総統 米寿 生日快楽

【産経新聞:2010年1月5日】

【台北=山本勲】15日に満88歳の米寿を迎える台湾の李登輝元総統の長寿祝賀会が3日、台北市内のホテルで開かれ、野党第一党、民主進歩(民進党)の蔡英文主席ら台湾本土派・独立派の有力者多数が参加した。台湾は年末の立法委員(国会議員)選挙、来年3月の総統選挙に向けて本格的な政治の季節を迎えるだけに、李氏の動静に関心が集まっている。

 祝賀会の参加者は政治家では民進党から蘇貞昌、謝長廷の両元行政院長(首相)、国民党の王金平・立法院長(国会議長)、親民党の宋楚瑜主席、台湾団結連盟の黄昆輝主席ら。

 さらに独立派系最大紙、自由時報の呉阿明董事長(会長)、独立派シンクタンク「新台湾知庫」創立者の辜寛敏氏、台湾の主権擁護を最重視する本土派、独立派政党有力者ら、計約300人が集まった。

 李登輝氏は「中国の野心はますます明確になってきた。台湾は経済面から『一つの中国市場』(形成を通じ台湾併呑を狙う)中国のわなにはまっている」と、馬英九政権の対中経済緊密化政策を暗に批判。

 「能力のある指導者が現れ、台湾の命運を転換させることを大変多くの人々が期待している」と政権交代を呼びかけた。

 李氏は中台が自由貿易協定に相当する経済協力枠組み協定(ECFA)を締結した昨年夏ごろから、馬政権批判を鮮明にし始めている。この日は自らの長寿祝賀会を通じ、馬政権打倒のための本土派・独立派超党派勢力結集を呼びかけた形だ。

なお、馬英九総統・蕭萬長副総統・そして連戦・中国国民党名誉主席は祝賀会には招待されなかったとの事です。


産経新聞報道と台湾

2011-01-04
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【文化大革命時代(1966-76)以降の北京駐在メディアの動向】 

1965年 産經新聞・読売新聞・朝日新聞・毎日新聞・産経新聞・日経新聞・西日本新聞・共同通信・日本放送協会(NHK)・東京放送(現TBS)が北京に記者を常駐。

1967年 産経新聞 柴田穂北京支局長が国外追放。朝日新聞以外の毎日新聞 江頭数馬記者・西日本新聞等も追放。「反中・親台報道」が理由とされる。柴田記者は「壁新聞」を翻訳しその内容をも日本に向け報告していたという。

1968年 日経新聞北京特派員、鮫島敬治記者が中国で抑留。

1969年 産經新聞、サンケイ新聞に改題

1970年 9月共同通信記者追放。北京駐在の日本人記者は朝日新聞 秋岡家栄のみとなる(~翌年1月)

1971年 1月日経記者・西日本新聞記者が再入国。9月林彪クーデター未遂事件発生、11月サンケイ新聞が林彪失脚説を報道(当時サンケイは台湾・香港から中国報道を行っていた)

1972年 日中国交樹立

1974年 毎日新聞、北京支局復活

1974年 サンケイ新聞で『蒋介石秘録』連載(-1976年) 反共が社是のサンケイによる蒋賛美本との指摘有。

1988年 サンケイ新聞、産經新聞に改題

1998年 中国共産党の要請産経新聞、31年振りに北京に中国総局設置


産経新聞
 平成23年1月4日(火)朝刊 【上海=河崎真澄】
 今年、清朝を倒した「辛亥革命」の勃発から100年を迎え、その歴史に連なる中国と台湾の政治的思惑の違いが改めて浮き彫りになっている。経済面では急接近する中台だが、辛亥革命で成立した「中華民国」を堅持する“本家”の台湾は、その後の国共内戦勝利で成立した共産・中国に統一工作などの政治面で利用されたくないとして、100周年記念行事の中台共同開催を拒んでいる。

 1911年10月10日に勃発した辛亥革命の成功により、孫文を臨時大総統とする共和制国家「中華民国」が成立した。しかし、孫文らが19年に結成した中国国民党は49年、中国共産党との内戦に敗れて台湾に政権を移し、「中華民国」を名乗り続けている。

 このため台湾側は辛亥革命の意義を共和制の確立に求めている。馬英九総統は辛亥革命の蜂起から99年となった昨年10月10日の「双十節」で、「両岸(中台)は現時点で法的に(国家として)認め合うことは不可能だ」と指摘。そして辛亥革命そのものよりも、「中華民国100年」を祝賀する方針を改めて強調した。

 一方、49年に「中華人民共和国」を成立させた共産党の中国は「中華民国」の存在は認めず、清朝打倒による満州族支配からの漢族の解放と、数千年に及んだ君主政治に終止符を打ったことに歴史的な評価を与えている。

中国の国務院(政府)台湾事務弁公室スポークスマンの楊毅氏は昨年12月29日の記者会見で、「両岸は辛亥革命100周年の記念行事を共同で実施すべきで、両岸の団結と中華民族の復興にも有利だ」と述べた。

 中台の経済協力枠組み協定(ECFA)は1月1日付で発効している。中国は「先経後政(経済問題を先ず解決、その後に政治問題を解決する)」を基本戦略とする台湾統一工作において、ECFA発効をステップとし、辛亥革命100周年を政治的接近のチャンスと位置づけている。 

 蜂起場所の武昌を抱える湖北省武漢市も、総額200億元(約2500億円)もの予算をつけて記念館を設置。武漢や北京以外に、中華民国が首都を置いた江蘇省南京や、孫文の出身地(現・広東省中山)に近い広東省広州も式典開催に意欲を見せている。今年10月10日の辛亥革命100周年に向け、“同床異夢”の中台の間でさまざまな思惑が渦巻くことになりそうだ。

 【用語解説】辛亥革命 1911年10月10日、武昌で起きた武装蜂起に呼応する形で全土に挙兵が広がり清朝を打倒、古代から続いた君主政治に終止符を打った中国の革命。10月10日(双十節)は「中華民国」の実質的な「建国記念日」となっている。孫文(1866~1925年)は12年1月1日に臨時大総統に就任しアジア初の共和制国家を宣言した。中台いずれも孫文を「国父」と位置づけている。 

【産経新聞購読のお薦め】
産経新聞は他紙に比較し台灣・中国報道は充実している様に思います。しかし全国五大紙では最少の発行部数で苦境が続いているそうです。私は応援の為に購読を再開しましたが、購読料分の価値は有ると思います。例えば今朝の今谷明氏のコラム記事等も頗る読ませる内容でした。
中国共産党の独裁性・覇権主義に対し批判の立場を貫き、他紙が中共へ迎合した時代にも敢然とそれを拒否した経歴を持つ産経新聞。願わくば皆様の御協力を!

産経新聞 読者の意識調査 http://www.sankei-ad-info.com/evalua/poll.php


台湾の国連残留問題と岸信介極秘訪台

2011-01-03
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 「中華民国(本質は「台灣を実効支配する蔣氏政権」)」が国際連合を脱退したのが、1971(昭和46)年10月26日。蔣介石・中国国民党に影響力を持つ米国は国連において中華人民共和国を安保理常任理事国として、「中華民国」を一般加盟国とする考えを主張していたという。
しかし現実には、
国連における「中国代表権問題」は「国府(国民党政府)追放、北京政府招請」案を主張する2758号決議(通称「アルバニア決議」)によって中華人民共和国は国連常任理事国となる。同時に蔣介石は漢賊不両立(賊とは中国共産党の事)を唱え「中華民国」は国連を脱退した。

1949年11月18日 中華人民共和国による最初の「中華民国」国連追放提起

1950年   1月16日 英国が中華人民共和国を承認、英国と「中華民国」断交

1957年 5月   岸首相、アジア歴訪、台灣では蔣の反攻大陸(大陸反攻)に支持表明

1971年10月25日 国連、アルバニア決議採択

1971年10月26日 決議に抗議し「中華民国」は国連を脱退(追放ではないと主張)

1972年  2月21日 ニクソン訪中、米中共同声明(米国の中共政府承認)

1972年  3月13日 英中国交樹立

1972年  9月29日 日中国交樹立、日台断交(日本 田中角栄政権/台灣 蔣介石政権) 

1979年  1月    1日 米台国交断絶(米カーター政権/台灣 蔣経国政権)、米中国交樹立

国連2758号決議原文(国連HP)
http://daccess-dds-ny.un.org/doc/RESOLUTION/GEN/NR0/327/74/IMG/NR032774.pdf?OpenElement

 1969年(昭和44)年に岸信介元首相は極秘訪台し、中華人民共和国の国連加盟と同時に追放が必至となる蔣介石政権に対して「中華民国」の国号を放棄して「台湾共和国」としての国連残留案を提示したという。既に中共政権を承認していた英国や米国も台湾を国連の一般加盟国に残留させるために日本と連携していた。


左から蔣介石、岸信介、宋美齢

岸元首相は、台灣の前途の為に国連残留を希望したが、蔣介石の自尊心と自己保身はそれを許さなかった。蔣の判断は今に至る台灣国連加入問題を困難にしている。岸氏の慧眼と行動力には感歎せざるおえない。また占領憲法体制から脱却する為の自主憲法制定に情熱を賭けて取り組んだ岸元首相は日韓・日台(当時は日華と呼称)関係善処に尽力した。昭和62年8月7日死去、享年90歳。

岸信介元首相の蔣介石への台灣国連残留説得秘話については、『正論』平成18(2006)年10月号を参照下さい。
http://www.sankei.co.jp/seiron/wnews/0609/ronbun1-3.html

 

 なお現在、台灣を「中華民国」として承認し外交関係を持つ国家は下記の23ヶ国。台湾国の国号での国連加盟は台灣人にとって悲願である。

【大洋州】
ツバル
ソロモン諸島
マーシャル諸島共和国
パラオ共和国
キリバス共和国
ナウル共和国

【欧州】
バチカン市国

中南米・カリブ】
パナマ共和国
ドミニカ共和国
グアテマラ共和国
エルサルバドル共和国
パラグアイ共和国
ホンジュラス共和国
ハイチ共和国
ベリーズ
セントビンセント
セントクリストファー・ネーヴィス
ニカラグア共和国
セントルシア

【アフリカ】
スワジランド王国
ブルキナファソ
ガンビア共和国
サントメ・プリンシペ民主共和国

台灣映画 BEST10!

2011-01-02
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 2010年、台灣・中央大学の調査で2000-2009年の10年間に公開された台灣映画で作品観客が選んだ一位の作品は、戴立忍(ダイ・リーレン)監督『不能沒有你(あなたなしでは生きていけない)』という結果となりました。

下記にそれぞれを列挙します。
【観客が選んだBEST10】

1位 不能沒有你(あなたなしでは生きていけない)
2位 冏男孩(ORZボーイズ)
3位 藍色大門(藍色夏恋)
4位 九降風(九月に降る風)
5位 海角七號(海角七号 君想う国境の南)
6位 色戒(ラストコーション)
7位 一一(ヤンヤン夏の想い出)
8位 無米樂
9位 練習曲
10位 聴説

【映画関係者が選んだBEST10】

1位 一一(ヤンヤン夏の想い出)
2位 臥虎藏龍(グリーンデスティニー)
3位 色戒(ラストコーション)
4位 你那邊幾點(ふたつの時、ふたりの時間)
5位 不散(楽日)
6位 最好的時光(百年恋歌)
7位 珈琲時光
8位 不能沒有你(あなたなしでは生きていけない)
9位 藍色大門(藍色夏恋)
10位 海角七號(海角七号 君想う国境の南)

國立中央大學HPの記載記事  http://www.ncu.edu.tw/ch/clip/8241

昨年12月18日から日本上映となった『モンガに散る(原題:「艋舺 monga」)』は1980年代の艋舺(monga=台北市萬華)地区を舞台に黒社会を描いた作品です。第83回アカデミー賞外国語映画賞台灣代表正式選定作品。馬如龍(マー・ルーロン)がここではより強面となって出演していました。『海角七号』で恒春の町議会議長を演じた役者さんです。


1986年、台北一の歓楽街モンガに母親と引っ越してきた高校生のモスキート。当時のモンガは多くの極道組織がひしめき合い縄張り争いを繰り広げていた。モスキートはひょんなことから、一番の権力を持つヨウカウ組の親分の一人息子ドラゴンに気に入られる。校内勢力を牛耳るドラゴンら4人組。モスキートは極道の世界にとまどいつつも、初めてできた友達と喧嘩に明け暮れ、彼らと固い絆で結ばれてゆく。そんな中、モンガに新しい勢力が乗り込んでくる。激しい抗争に巻き込まれるモスキート達。彼らを待ち受けている運命とは…。

ジョン・ウー、ホウ・シャオシェンなどアジアの巨匠が、こぞって絶賛!
2010年台湾映画最高動員記録を樹立!
アジアの巨匠達に絶賛され、第83回アカデミー賞外国語映画賞台湾代表に選ばれた本作は、2010年台湾映画最高動員記録を樹立!疾走感溢れる映像とエモーショナルな演出の熱い人間ドラマ。

★第83回 アカデミー賞外国語映画賞 台湾代表正式選定作品
★第47回 台湾金馬奨 主演男優賞ノミネート(イーサン・ルアン)
★第60回 ベルリン国際映画祭 パノラマ部門出品作品
★第23回 東京国際映画祭 アジアの風【台湾電影ルネッサンス2010~美麗新世代~】オープニング作品

『モンガに散る』 公式サイト http://www.monga-chiru.com/
『艋舺 MONGA』公式サイト http://mongathemovie.com/

大阪ではシネマート心斎橋で1月14日(金)まで上映、お早目に!
シネマート心斎橋 
http://www.cinemart.co.jp/theater/shinsaibashi/

『艋舺』の舞台となった台北市萬華区(「萬華火車站」を中心として)⇒大きな地図で見る
萬華火車站は龍山寺の南方400メートルに位置しています。実際には「艋舺」の台灣語の発音としては「ヴァンカア」が近いという事です。


謹賀新年 新年快樂、日台萬歳!

2011-01-01
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 今年一年が皆様にとって良い御年で有ります様に

  天祐 祖国 日本
回天 友邦 台灣

 平成二十三年 元旦  台灣建國應援團 一同

 


台湾の想い出 -平成22(2010)年-

2010-12-31
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Thank you,Taiwan!

「中華民国」の総統選挙は2012年3月、残るところ1年2ヶ月。総統選の前哨戦と見做されていた(地方選挙にすぎないという意見も有るが、民意の動向を観察する事が出来た)五大都市選挙は与党中国国民党が金権選挙を以てしても「惨勝」と表現される結果となった。これは2008年1月に行われた「第7回 中華民国立法院」選挙で国民党(当時野党)が70%以上の議席を得て圧勝した事と同じく、台灣人が選んだ結果である。
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その二ヶ月後には対中融和派の国民党 馬英九が総統選で民進党候補 謝長廷に勝利した。この時の得票数は馬英九766万票、謝氏が544万票であった。この結果も台灣人自身が選択した結果である。その後の台灣が中華民国体制を堅持し、中国共産党と一定の親和性を持つ政権となっている。これ等は前述の『紅色戒厳』にその一端が垣間見れるのである。
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再来年は世界的な選挙の年となる。ロシア大統領選挙(2012年3月)・米国大統領選挙(2012年11月)・韓国大統領選挙(2012年12月)・中華人民共和国第18回中国共産党大会で胡錦濤主席の後任が選出(2012年秋頃)が行われ、北朝鮮では金日成生誕百年の年となる。米ロを巻き込み北東アジアの政治情勢は来年~再来年大きく転換期となるだろう。
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日本人が台灣について忘れてはならない事が有る。台灣併呑は中華人民共和国建国以来の悲願であり、中共の主張では「台灣問題」とは内政問題であるという事だ。この政治スローガンは一貫して不変である。この様な前近代的な覇権主義国家が我が国の隣に存在する冷厳な事実を日本人は認識しなければならない。
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台灣が台灣であり続ける為、自国の前途に対し台灣人には重い選択が課せられている。そして当然に同じ事が我々日本国民にも言えるのである。祖国の前途を憂い想い発言し行動することは政治家だけに許された権利ではない。各員が自らに与えられた状況で相応の努力と貢献を行えば良いと思うのです。
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【動画紹介】紅色戒嚴 -激動台灣の記録-

2010-12-30
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平成20(2008)年の出来事

3月10日 ラサを中心としてチベット人の大規模蜂起、中国共産党のチベット弾圧始まる。
4月26日 北京オリンピックの聖火が長野市へ、日本人の抗議活動活発化。
5月 6日 国賓として胡 錦濤国家主席が来日
5月20日 馬英九氏が総統就任
6月15日 尖閣諸島沖で日本海上保安庁と台灣遊漁船が衝突、漁船は沈没。台灣は抗議の為に許世楷台北駐日経済文化代表処代表を召還。
11月 6日 陳雲林海峡両岸関係協会会長が訪台し総統府に馬英九総統を訪問、会談。陳会長の台灣入りに対する市民の抗議活動が激化(『紅色戒嚴』はこの間の様子を撮影したものです) 

台湾の声
2008/11/6 【ニュース】陳雲林来台で、馬政権が民進党関係者を次々と逮捕

 中華人民共和国(中国)の特使である陳雲林・海峡両岸関係協会(海協会)会長の来台に合わせて、台湾の馬英九政権は野党・民主進歩党(民進党)関係者の逮捕や身柄拘束を次々と行っており、司法に政治が介入しているとの批判が高まっている。


『紅色戒嚴-陳雲林事件紀實-』監製 王美琇/編導 陳麗貴/製作 台灣之友會
 
 10月29日、陳明文・嘉義県長が汚職に関わったとして身柄を拘束され、続いて10月31日に陳水扁前総統(前大統領)から信頼の厚かった邱義仁・前行政院副院長(前副首相)が外交機密費の横領容疑で逮捕された。さらに、陳前総統の側近である馬永成・元総統府副秘書長と蘇治芬・雲林県長が11月4日に身柄拘束された。台湾のメディアの中には、馬政権が陳雲林氏の来台に合わせて中国へ見せるためという政治的動機があるのではないかと伝えている。

 このほか、先日、中国の張銘清・海協会副会長の来台に抗議し、張氏が転倒した現場にいた王定宇・台南市議が事件から9日間で検察から懲役1年2ヶ月を求刑された。 

 一方で、陳水扁前総統は11月4日、馬英九総統と陳雲林会長を外患罪で告発した。陳前総統は「中華人民共和国は主権独立国家であり、台湾から言えば中国は別の国、外国である。さらには敵対している国である。馬英九は『一つの中国』を主張し、最終的な統一に同意している。馬英九は主権論争を棚上げを言っていたが、それは主権の棚上げに変わり、すなわち主権を放棄した。簡単にいえば台湾を売る行為であり、刑法104条(外患罪)の規定に違反している」と訴えた。


11月6日、馬英九総統と陳雲林会長が会談する。会場の台北賓館の周辺は1万人を超える台湾国民が包囲する予定となっており、陳会長が馬英九氏を「総統」(大統領)と呼ぶか、もし馬総統が「総統」と呼ばれなかった場合にそれを容認してしまうのか、台湾国民は馬総統が台湾の主権を守る意志があるのか会談の行方を注目している。
 
 
 赤戒厳1(原題は紅色戒嚴) 9:17~「私は私の友達が中国の一部に成ってほしくない」


赤戒厳2

赤戒厳3


【紹介】「尖閣諸島・北方領土は日本領土」12/26示威行進 決行

2010-12-28
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【動画撮影】HOTJAY55

【表題】尖閣諸島・北方領土は日本領土デモ
【日時】12月26日(日)
【場所】大阪市浪速区愛染公園
【集合時間】13時
【出発時間】14時
【主催】一党独裁に抗議する会/中国とロシアの日本領土侵略に抗議する会
【協賛】kinaの会/教科書が教えないこと

【主催者発言】

中国共産党は共産主義ではなく覇権主義と国家資本主義(1)を標榜している。それ故、中国共産党は恐ろしい。
中国に民間保釣運動(2)という団体がある。その団体は日本が実効支配している尖閣諸島は中国固有の領土であると主張する中国人社会で行われている「領土返還」運動である。戦術を強化し弾力的運用を心掛け中国政府外交の補助者としてその役割を担っている。
民間保釣運動は必ず魚釣島を「奪還」すると主張している。これはわが国にとり甚だ危険である。中国は沖縄と尖閣諸島をとらなければ大量の失業者問題が破綻する。食料品価格は急騰しており国内の10億人以上の人民が毎月400元の収入で生活している。宇宙開発や軍事発達により沖縄や尖閣諸島は共産党にとり奪取可能となった。軍事力で世界を席捲するつもりなのだ。毛沢東は「政権は銃口から生まれる」といっている。このような意見が出るのは台灣・日本・米国等と開戦すべきだという少壮軍人に胡錦濤が精神的圧迫を受けているからかもしれない。
1936年の西安事件(3)の時と同様、日本は中国に対して警戒を怠ってはいけない。
(中国共産党の侵略による)尖閣諸島問題が解決出来なければ日中友好は有り得ない。つまり民間保釣運動が日本領海に船舶を出し挑発する事は、日中友好成立を妨害する事であり、それ自体が中国側の勝利を意味する。また尖閣諸島の問題を解決せずとも中国が占領するという違憲もある。中国は日本のODAを元手に日本の技術者の指導を受けて漸くは発展出来る基礎をつくった。今度は日本に対して侵略行為を開始しそれを正当化している。

(1)国家・政府による管理型資本主義、修正資本主義とも。鄧小平以降の中国は改革開放路線のもと資本主義経済を推進しているが、政治形態は中国共産党による一党独裁である。

(2)保釣運動は中国本土・香港・台灣等に存在する。ただ台灣の保釣運動は香港系支那人で、資金の出所は中国共産党の可能性が高い事が知られている。
1968年の国連調査で尖閣諸島付近の海底資源の存在が判明し、そこに注目した中国共産党が尖閣諸島領有を主張し始める。また台灣は中華民国を称する限り、中国の領土は中華民国領であるので、その領有権を主張し続けねばならないという意見も。なお台灣人でも李登輝氏や台灣團結聯盟等は尖閣諸島が日本領土で有る事を以前から明言している。

(3)西安事件・・・1936年12月、中国の西安で張学良の東北軍が蔣介石を逮捕・監禁した事件】内戦停止・挙国抗日を主張する張学良らは、共産軍討伐の継続を督励する蔣介石に反対し、12日未明、彼を宿舎に襲って逮捕・監禁した。中国共産党は事件の平和的解決に努力し、中国国民党も妥協したので、ここに第2次国共合作が成立(成立せずという説有)し、抗日民族統一戦線が結成されるに至った。(この項 旺文社『世界史事典』)

抗日を反共イデオロギーより重視した張学良。彼の蔣介石に対するクーデターの結果第二次国共合作が成立。共産党軍は国民革命軍第八路軍(通称 パーロ軍)として中国国民党軍に編入された。1937年張学良は蔣介石によって逮捕され、それ以降1990年代初頭まで中国国民党が支配する台灣で軟禁される。長らくその消息は不明であったが、2001年ハワイで死去。享年100歳。

【下】歴史上の人物と思われていた張学良の死去を報じた平成13年10月16日(火)讀賣新聞朝刊 彼の訃報は世界に衝撃的な西安事件の記憶を呼び起こした。

 

 明治28年1月、日本政府は無主地であった尖閣諸島を帰属未定の地として沖縄県の所轄とし、沖縄県は明治29年、同諸島を八重山郡に編入した後、明治期には日本の鰹節加工場等の施設と最盛期300名弱の漁民が居住していた。清朝~中国はそれ以前に尖閣諸島を支配した事はない。また1960年代まで中国共産党は、尖閣諸島を「琉球群島に含まれる尖閣群島」として日本領であることを認めていた。「尖閣諸島領有権問題」とは尖閣諸島併合を指向し、それを主張する中国共産党の政治的スローガンとして日本政府は尖閣諸島に領土問題は存在していないとの立場である。中国共産党が主張する「日中間の領土問題」を早期に解決する方法は、日本が尖閣諸島に自衛隊の駐屯といった明確な実効的な占有を行わなければならない。それを怠ったが為に韓国によって奪取されたのが竹島(島根県隠岐郡隠岐の島町竹島)、現在は日本政府の施政権が及ばない領土となった。国土を護るという事は自衛隊員や海上保安庁職員にのみ与えられた行為ではない。日本国民の国土防衛の意識が希薄で有る事こそが侵略者にとって最も都合の良い事なのかもしれません。世論喚起の為に行動された皆様有難う御座いました。

1960(昭和35)年、中華人民共和国で発行された『世界地図集』。台灣は「中華人民共和国台灣省」となっており、尖閣諸島は魚釣島・尖閣群島と日本側呼称が記載されている。中国共産党は尖閣諸島が日本領土で有る事を確実に認識している。


台灣独立活動家達と尖閣諸島 -不屈の人、史明氏インタビューから-

2010-12-24
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史明氏 今年2月28日 龍山寺前「二二八獨立鐘」集会にて(撮影 松井光彦)

 
史明(本名 施朝暉 1918-  )
獨立台灣會設立者。1950(昭和25)年、台北市郊外で白色テロの首謀者 蔣介石暗殺を画策するも計画が発覚し、1952年3月基隆を経て5月に日本に逃亡。蔣政権による身柄引き渡しの要請がおき、日本政府によって政治亡命を認められる。なお当時日本は第三次吉田茂内閣であった。1967
(昭和42)年には蔣経國の暗殺を企図している。
台灣民主化以降には中国国民党「最後一個黑名單(最後のブラックリストの一員)」とされ、史明氏が祖国に帰国出来たのは、亡命から40年を経た李登輝総統時代の1993(平成5)年の事でした。社会主義に立脚した左派台灣独立活動家
として知られ、著作の『臺灣人四百年史』は台灣民族主義を鼓舞したものとして世評に名高い。写真の2.28事件追悼集会、史明氏の登壇時に敬意を表した盛大な拍手が参加者からおきた。


  日本留学時代の施朝暉(シ・チョウキ)、後の史明氏。学生時代に社会主義に傾倒したという。1937(昭和12)年頃の写真

 下記動画は2005(平成17)年4月26日、胡錦濤中国共産党総書記との会談を行う連戦中国国民党主席の訪中を阻止する為に桃園国際空港に現れた史明氏と獨立台灣會メンバー100余名。高速道路に70台のタクシーを動員し桃園国際空港へ向かう連戦氏の車列を堂々妨害、空港内での抗議活動を行った事により逮捕される、史明氏86歳。

1∕2 獨立台灣會史明四二六桃園機場堵連戰事件

2∕2 獨立台灣會史明四二六桃園機場堵連戰事件



【産経新聞記事より】
尖閣諸島経由し台湾密航、返還前 独立運動家が度々上陸  

沖縄→台湾密航の中継地

 沖縄・尖閣諸島が米国から返還される前の一時期、台湾密航の中継地として利用され、台湾の独立運動家らがたびたび上陸していたことが、日本に亡命経験のある台湾人運動家の証言で分かった。当時、尖閣諸島では沖縄と台湾の漁民同士が頻繁に交流していたともいい、返還前の島の実情を知る手がかりになりそうだ。
 この証言は、台湾独立運動家の史明さん(92)が、ノンフィクション作家の平野久美子さんのインタビューに答えたもので、25日発売の雑誌「正論」2月号に掲載されている。
それによると、史明さんは1950年に蒋介石暗殺を計画したが事前に発覚し、日本に政治亡命した。1968年以降、台湾で地下活動を続けるため、沖縄の漁船をチャーターして尖閣諸島の魚釣島に上陸、ここで台湾籍の船に乗り換え、密航を繰り返していたという。
尖閣諸島経由の密航は、沖縄の施政権が米国から日本に返還される1972年まで行われていた。当時、尖閣諸島には沖縄と台湾の漁民が訪れ、魚釣島には台湾の漁民が休息するための浜小屋が点々と建っていたという。また、沖縄の漁民が取った魚を台湾の漁民の生活用品と物々交換するなど交流も活発だった。
史明さんの話では、台湾の漁民は、現在でも尖閣諸島周辺の漁業権を求めているが、島の領有権までは求めていない。日本の領有に反対する台湾での抗議活動の中心人物は「漁民でも台湾人でもなく、香港系の中国人」であり、「香港から船を何隻も雇い、そこに金で雇った台湾人が乗船している」という。
史明さんは、李登輝総統の誕生で台湾が民主化された1993年に帰郷が許され、現在も台湾独立のための運動を続けている。中国の領土拡張政策を警戒しており、「日本はすぐにでも自衛隊を魚釣島に上陸させないと、中国に乗っ取られてしまう」と話している。

以上 平成22年12月24日(金)
産経新聞朝刊 大阪市内版 2面より 


 

平野久美子さんによる史明氏へのインタビュー記事は『正論』2月号p108-116を御覧ください。気魄と情熱の人、史明の台灣魂は今も健在である。

史明氏「台灣はそのうち必ず独立します、これは歴史の必然です。」

獨立台灣會 http://www.tw400.org.tw/


【紹介】12月18日、北投温泉に『加賀屋』が開店!

2010-12-19
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【北國新聞社 12月19日】 加賀屋(七尾市)が台湾の不動産会社と合弁で建設、経営する和風旅館「日勝生加賀屋」が18日、台湾北部の北投温泉で正式に開業した。ホテルとは違い、宿泊客ごとに客室係が付く日本の温泉旅館サービスが好評で、年内の予約はほぼ満室だという。

 旅館は地上14階、地下4階で客室90室。今月1日から試験開業で半分の45室を稼働させてきたが、年内は継続し、1月1日から90室すべて稼働させる予定。1月以降も週末は満室で、加賀屋は「平日は間際に予約が入ることが多いので、高い稼働率で推移する」と強調する。

 たたみの和室や、日本食、客室係など日本と同じスタイルで、宿泊客からは「出迎えから見送りまで行き届いた『もてなし』に感動した」との声が聞かれるという。和室の宿泊料金は1泊2食付きで1人約3万円からで、台湾人富裕層を狙う。

 「プロが選ぶ日本のホテル・旅館100選」で30年連続「日本一」に選ばれたサービスを提供するため、客室係は応募があった台湾人300人の中から70人を厳選して採用。日本語を話せる客室係も多いという。

 この日の式典には政府関係者や招待客ら350人が参加。小田禎彦会長は「日本の加賀屋に勝るとも劣らない『おもてなしの心』を発揮すべく全員で頑張りたい」とあいさつした。御陣乗太鼓のほか、盆や布巾などの代わりに使う「懐紙」を客室係代表に手渡す儀式が披露された。初日の宿泊者数は約90人でほぼ台湾人となっている。


平成16年、来日された李登輝氏が宿泊された事でも有名な加賀屋(石川県七尾市和倉)

日勝生  加賀屋H.P http://www.kagaya.com.tw/
和倉温泉加賀屋H.P http://www.kagaya.co.jp/index.php
台湾北投温泉に「日勝生 加賀屋」12月18日オープン
http://www.kagaya.co.jp/information/detail.php?id=143

 
 本家加賀屋から派遣されてきた指導係。この女性の矜持の言葉が奮っています。

 「私としては納得出来ません。こんなものじゃないし、こんな状態にしたくありません」 

 この様な気概の指導係の存在こそが加賀屋の真の財産なのだろう。経済を通じた日台の交流、頑張れ加賀屋!
 いつかこの台湾加賀屋に宿泊してみたいですね。

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