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台湾建国党の挫折
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建国党が結成されたのは、1996年(平成8)10月6日、と内政部の資料にある。今から16年前のことである。内政部の「政黨名冊(政党名簿)」には「建國黨」とあるが、時に「台灣建國黨」と呼称され、英語表記ではTaiwan Independence Party(TAIP/台湾独立党)となる。
建国党が結党した当時、台湾には立法院に議席を有する政党は三党あった。中国国民党(結党1919年)、民主進歩党(結党1986年)、そして中国国民党反主流派(反李登輝派)が発足させた新党(結党1993年)である。正統国民党を自負した「新党(New Party)」は奇妙な党名であるが、今思うと前年に細川護煕氏らが結成した日本新党(Japan New Party)を意識した命名であったのかもしれない。あくまで憶測ではあるが。
台湾の将来について「独立か、統一か」という選択肢が叫ばれる中、この三党に一致した政策が「現状維持」であった。日本では新党は中台統一最強硬派の印象が強いが、実際には圧倒的多数の台湾人が現状維持もしくは独立傾向にある中では、急進的な統一には慎重とされている。それでは現状維持とはどういう状況を指すのであろうか。実は中国との関係において現状維持(=中国との関係を「曖昧な現状に据え置く=台湾は既に事実上独立しており、 独立を敢えて宣言する必要もない)ということは、換言すると台湾は中国の一部であることを許容するという事に他ならない。
なぜなら台湾は国家体制がなおも made in Chinaであるからである。国号は中華民国(中国)、憲法は中華民国憲法(中国憲法)、国旗は中国国民党党章の描かれた青天白日満地紅旗、国歌は三民主義、国父は孫文、現在も中華民国は中国の正統政府を主張している。これらすべてをmade in Taiwan に変更せねば、中華人民共和国は台湾併合を国内問題として解決出来るという口実を与えてしまう。台湾の独立建国が成し遂げられ国際連合への加盟が成就するならば、中台関係は名実共に国際問題となり中国共産党はむしろ介入の口実を失う。中国共産党の恫喝に臆した上での現状維持より、台湾を独立させることこそが、台湾の安全を保障する。この考え方は実は建国党の基本的な考え方でもあった。
一方、民進党は基本綱領(1986年制定、いわゆる「台湾独立綱領」)で次の様に主張していた。
「台湾主権の現状に沿って、独立建国し、新たな憲法を制定して、法的・政治的システムを台湾社会の現状に合致させ、更に国際法の原則を基づいて台湾を国際社会に復帰させる」
当初民進党はこの様に台湾共和国建国を明確に志向していたのである。しかしその後民進党は徐々に台湾独立路線を後退させていく。
なかでも1999年に同党が採択した「台湾の前途に関する決議文」において、
「台湾は一つの主権独立国家であり、その主権領域は台湾、澎湖、金門、馬祖及びその付属島嶼、さらに国際法の規定に基づく領海と近接水域である。台湾は、現行憲法においては「中華民国 (The Republic of China)」と称されており、中華人民共和国とは相互に隷属していない。また、独立した現状を変更するいかなる場合に於いても、全ての台湾住民による住民投票によって決めなければならない 」
として事実上、中華民国体制を容認してしまった。これは民進党が政権党となった場合、台湾独立を宣言しないことを意味するとされ、こうして台湾独立、台湾共和国建国という民進党の立党意義への情熱を自ら失わせていく(最近では2011年1月に行われた中華民国総統選挙中に、民進党候補の蔡英文氏は戦術的にではあるが「台湾は中華民国」「中華民国は台湾」との発言を行い、結果的に台湾独立派に失望を与えている)。
政権獲得の為、新党や国民党と妥協を重ね、台湾独立をも後退させる民進党に失望し見限った同党支持者の特に独立建国派らが結成したのが建国党であった。台湾独立派政党の急先鋒として建国党は「台湾共和国憲法の制定、台湾共和国の建国」「中華民国は消滅しており、中国国民党の台湾統治は不法である」「中華人民共和国の台湾侵略阻止」とその主張は党名同様に明確なものであった。
当時、民主化により雨後の筍のように現れた諸政党のなかでも、建国党は台湾で最も高学歴者が集まる知識人政党とされていた。
事実、建国党結党の発起人(多くは民進党支持者であった人々)には大学教授を主とする教育者(67人)、医学界(26人)、法曹人(8人)、芸術家(30名)のほか会計士といった専門職業人が多く集っている。また中産階級の企業主も多く参与していた。特筆すべきは教育者の多くが台湾民主活動、独立建国運動に関わってきた台湾教授協会、台灣教師聯盟の会員であったことである。その中には後に国史館館長に就任する張炎憲氏(*)も含まれている。
初代建国党主席・李鎮源氏は1940年(昭和15)台北帝国大学医学部を卒業し、戦後は台湾大学医学院(医学部)で教授を務め、中央研究院院士(日本の学士院会員に相当/ノーベル化学賞受賞者(1986年)の李遠哲氏は1994年から2006年まで中央研究院院長を務めている)にも選ばれた秀才であった。また副主席には刑法学の権威で台湾教授協会会長を務めた林山田台湾大学法律学部及法律研究所教授が就任している。そして第二代主席は、許世楷氏(陳水扁政権時の駐日代表、元台湾独立建国連盟主席)である。
建国党結党の二年後に行われた第四回中華民国立法委員選挙(1998年)は国民党の圧勝で終わった。20人の候補者を出した建国党の獲得議席は僅かに一議席、中選會選舉資料庫網站内の資料によると得票数は145,118票とある。2001年8月、国民党台湾本土派が台湾団結連盟を結成すると建国党はその存在意義を更に失い、第五回立法委員選挙(2001年12月)では、候補者三名を出したものの議席を得る事は遂にかなわなかった。この時、台湾団結連盟は13議席を獲得している。
組織拡大方法の無理解と党内の政策不一致も伴い、以降建国党は凋落の一途をたどり続け、泡沫政党として台湾政治史に埋没していく。台湾随一の知識人からなる独立派政党は、中華民国体制を否定し、明確に台湾共和国樹立を主張する事で、尖鋭的本土派政党として一時世間の注目を集めた。しかし台湾人全般に支持を拡大する事は出来ず、政治的成果にも見るべきものがなかった。建国党結党時のメンバーであった陳茂雄氏は、後に建国党泡沫化の原因、そして政治的敗因を次の様に語っている。
「民進党が台湾独立を断念し、台湾の国号を中華民国とした時、建国党は中華民国を完全に否定して、台湾共和国建国を主張した。この建国党の努力には意味があったのだ。しかし台湾建国のスローガンを叫ぶものの、一向に行動力が無かった。また最も重要な事だが、建国党は如何にして中華民国に取って代わる台湾共和国を建国させるかを台湾人に訴える事が無かった。そこで私はひとつの厳粛な事実を思い知るのである――世界中でスローガンを叫ぶだけで建国を為し得たという先例は無い」
そしてまた、
「建国党が泡沫化した原因は幾つも有る。ある人物が私にこういったのを忘れられない。『私達は独立建国を支持しないのではない。ただ独立活動家が好きではないのだ。何故なら独立活動家はいつでも人を罵り、他者の誤りを非難する。そして最後は感情的な論争を繰り返す。こうして独立運動家と一般の人達の距離は更に遠ざかっていく。この様な状況でどのように勢力を拡大出来ると言うのでしょうか?』」
どの組織、集団においても有り勝ちな光景と言えなくはないが、さしもの知識人集団もその例外ではなかった様である。
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日本語で入手出来る張炎憲氏の近著として『台湾独立建国運動の指導者 黄昭堂』自由社(平成25年8月刊)が挙げられる。
「海峡両岸サービス貿易協定」を推進した馬英九総統に対する建国党員の抗議の様子(2013年7月)
「反服貿! 台灣建國黨突襲嗆馬-民視新聞」
[台湾独立に関する輿論調査]台湾人は自らを台湾人と自認する者8割、台湾独立を支持する者が7割に達する
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台湾の香港系報道機関 TVBS(一般に親中メディアと見做されている)が、10月24日から28日に台湾人一千人を対象に行った輿論調査の結果、台湾の前途を意味する「台湾独立か中台統一か」という設問で、7割以上の台湾人は台湾独立を支持する結果となった。以下はNTBSを中心とした各種調査結果の概略である。
◇中台統一を目標とする和平協議を受け入れるべきか?
受け入れるべきでない・・・67.9%
受け入れるべきである・・・17.2%
◇中台関係について
現状維持を支持・・・・・64%
台湾独立を支持・・・・・24%
中国との統一を支持・・・・7%
◇独立か統一かのニ択の場合
台湾独立を支持・・・・・71%
中国との統一支持・・・・18%
◇自身は台湾人か中国人か?
台湾人である・・・78%
中国人である・・・13%
◇馬英九総統による双十節(10月10日「中華民国」建国記念日)での以下の発言について
「両岸人民は同じ中華民族に属し、両岸関係は国際関係ではない(国と国との関係では無いの意)」
同意出来ない・・・66%
同意する・・・・・20%
◇民進党調査では、中国と台湾の関係で最も適切なものはどれかという質問で次の結果が出ている。
一辺一国・・・・・・・・・54.9%
特殊な国と国との関係・・・25.3%
一国両区・・・・・・・・・・9.8%
両岸一国・・・・・・・・・・2.5%
ここでいう「一国両区」とは両岸(中台)は「一つの中国は大陸地区と自由地区(台湾)に分かれる」という国民党による“説”である。両岸(中台)関係は国と国との関係でも中央と地方の関係でもない、という概念である。
また“台湾地区”と“大陸地区”の関係であるとする「両岸一国」論は聞きなれないが、これは「両岸(中台)は同じ中華人民共和国に属する」と考えられ「両岸一中(中台は一つの中国に属する)」論(2001年3月、銭其琛中国副首相発言「世界には一つの中国のみ存在する。大陸と台湾はともに一つの中国に属し、中国の主権と領土は不可分である」がルーツとなる)よりもさらに中国傾斜となる考え方であり、中国共産党が賈慶林・全国政治協商会議主席を通じて提唱した主張であるとのこと。
2002年8月、陳水扁前総統の発言「台湾中国、一辺一国」に由来する「一辺一国(台湾と中国はそれぞれ一つの国)」論を支持する意見が過半数を占めるなか、この様な主張が台湾人のなかで大勢を獲得されるとは到底思えないのである。
今回のこの種の輿論調査は時々行われているが、結果は台湾人の多くは台湾独立を希求するが、中国共産党を刺激すべきではないという「現実的な判断」から現状維持を消極的に支持する、というものに落ち着いている。しかしながら今回の台湾独立支持71%というのは過去最高の支持を得たようである。
参考記事:自由時報11月1日記事
「台灣指標民調:68%台灣人 拒絕統一的和平協議」
【関西人へ吉報】大阪⇔高雄 2014年1月18日~3月29日 就航[日本初]
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―――Peach Aviation HP より―――
2014年1月18日より、大阪(関西)― 高雄線が就
高雄は台北に続く台湾第二の都市で、新旧の文化が融合し
Peachだと片道から航空券が購入できるので、高雄か
Peachでもっともっと新しい台湾の魅力を発掘してく
詳しくはこちらから♪
www.flypeach.com
LCC(low-cost carrier/格安航空会社)のpeachによる大阪⇔高雄線の就航で台湾南部へのアクセスは飛躍的に便利となること必至、そのためここに紹介した次第。特に関西エリアの人達にとっては待望の路線就航といえるのではないだろうか。なお「航空券の販売は、10月29日(火)午後2時から」とのことですが、念の為に御確認ください。また四月以降の就航は現在のところ未定であるので、今のところ期間限定の航路となる。
http://www.aviationwire.jp/archives/27642
【豆知識】
「高雄」を「カオシュン」と発音するのは一見正しい様に思えるが、実は「たかお」が本来の読み方と言って良い。というのも日本の台湾統治が始まるまで、ここの地名はタアカウ(漢字表記で「打狗」)と呼ばれていた。これを台湾総督府が高雄(たかお)という日本風表記に改めたのである。日本敗戦後に中国国民党が台湾へ敗走すると、彼らは「高雄」表記はそのままで発音だけを中国読みの「カオシュン」とした。つまり台湾の中国化政策の一環として生まれたのが高雄(カオシュン)ということになる。という事で「高雄」を「たかお」と読むのは正しいのである。
帰らなかった日本人兵士
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10月16日、一人のインドネシア人が首都ジャカルタの病院で九十三年の生を全うした。
男性の名はウマル・ハルトノ、日本名 宮原永治、台湾名 李柏青。
大正十一年(1922)、宮原氏は日本統治下時代の台湾に生まれた。軍人であった宮原氏は支那、フィリピンを経て敗戦をインドネシア・ジャワ島で迎えている。多くが祖国に復員するなか、そのままインドネシアに留まった。日本軍が連合国軍に降伏した後、同国を再植民地化するために英軍その後にオランダ軍が戻ってきた。そしてインドネシア独立派は祖国独立を賭けてこれに挑んだ。彼らは武器不足、戦闘経験不足から日本軍を恃みとし、それを見かねた一部の日本軍兵士が軍籍を離脱しインドネシアに残留した。その数二千名ともいわれる。宮原氏はその中の一人であった。
こうしたインドネシア独立戦争日本人義勇兵のひとりで、オランダ軍との戦闘で負傷したラフマットこと小野 盛(おの しげる)氏(九十五歳)はその時の事を次のように語っている。
「独立戦争が始まって日本軍の応援が欲しいというインドネシアの人達が大勢やって来た。日本軍から軍事教練の基礎は受けたが(*1)、実践の経験がない。経験豊富なあなた方に是非にというのです。それで私も勧誘され、インドネシア独立勢力に加わった」
小野氏は戦闘により左腕の肘から先を失ったが、インドネシア独立戦争(*2)で残留日本軍人二千人のうち半数の一千人がオランダ軍との戦闘で戦死したという。
宮原永治氏はインドネシア残留を決意した理由をこう語っている。
「自分がインドネシアに来たのは、インドネシアを独立させるためです。それは自分の責任に於いて最後まで完遂させなければならないと思ったからだ」また「連合軍の反攻を免れたジャワ島では、日本が負けたという実感は無かった。台湾出身の私は、敵として戦った国民党のいる台湾に帰ったら処刑されると思った」とも。大東亜共栄圏の理念をインドネシアで実現しようという理想と、戦犯追及という現実的な惧れを胸に抱いてのインドネシア残留ということだろうか。
今年七月に公開された酒井充子監督『台湾アイデンティティー』のなかで、「何国人として死ぬのですか」という少々不躾にも思える質問に対し、宮原氏は「インドネシア人」と語っていた(1961年、宮原永治氏はインドネシア国籍を取得)。また生まれ故郷の台湾は長期の戒厳令下であったが1974年に一度だけ里帰りを果たすことが出来たという。当時の台湾では日本帰りの台湾人や元日本兵は逮捕、拘束の可能性が有ったうえ、宮原氏によるとビルマで中国国民党軍と交戦していた事もあり、人眼を避けた家族との再会であったという。2005年、インドネシア建国六十周年記念式典においてユドヨノ大統領から建国の英雄勲章を授与されている。
宮原永治(ウマル・ハルトノ)氏の葬儀は17日午前、南ジャカルタのカリバタ英雄墓地で執り行われたという事である。これはインドネシアでは最高の敬意を表すものとされている。
宮原永治氏亡き後のインドネシア元残留日本兵は小野 盛氏唯一人となった。

平成十九年(2007)八月二十一日
インドネシア・インド・マレーシア訪問中の安部総理がカリバタ英雄墓地にて献花を行っている。
中央が宮原永治氏
(*1)日本軍政下インドネシアで設置されたインドネシア人による初の軍事組織「祖国防衛義勇軍(PETA)」を指す。PETA隊員は最終的に三万八千名。独立戦争の主力となり、その後創設されるインドネシア国軍に多くの人材を輩出した。インドネシア共和国第二代大統領スハルトはPETA出身者となる。
(*2)1945年から1949年までのインドネシア独立戦争で、八十万人といわれるインドネシア人が犠牲となっている。そして台湾と同じくインドネシアは東南アジア有数の親日国家であり、世界最大のイスラム教国家である。
【日本文化チャンネル桜/新番組】台湾チャンネル~日台交流頻道[桜H25/10/10]
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日本文化チャンネル桜に「台湾チャンネル」が開設され、第一回(10月10日)が放送されました。日本では観光先としての台湾を扱う事はあっても、台湾情勢を専門に取り扱う番組というのは寡聞にして聞かない。そういう意味から非常に時宜にかなった企画だろうと思う。
「日本と台湾の交流情報を、日本語と台湾語で同時にお送りする情報番組。
第1回は、チャンネル桜・代表の水島総より番組開始の御挨拶と10月6日開催された「
キャスター:永山英樹・謝恵芝
永山英樹氏談
「櫻電視推出新節目「日台交流頻道」正式開播了。向日台兩地傳達雙方的相關訊息,請大家支持與指教。(日語/中文・台語)
チャンネル桜の新番組「台湾チャンネル」がスタートしました。日台両国に向けて情報を発信して行くので、みなさまのご支持、ご指導をお願いします。(日本語/中国語・台湾語)」
【新番組】台湾チャンネル~日台交流頻道[桜H25/10/10]
【日台交流頻道】第二回 台湾人から見た日本時代の歴史[桜H25/10/17]
【日台逗陣來打拼】第三回 日台交流頻道 第3回、中国への忠誠貫くNHK報道[桜H25/10/24]
【台湾チャンネル】
日台交流頻道第4回、台湾人を裏切るNHK・日本と台湾の映画交流[桜H25/10/31]
【台湾チャンネル】日台交流頻道第5回、教科書も間違っている台湾の国際的地位[桜H25/11/7]
【台湾チャンネル】日台交流頻道第6回、台湾の国連加盟支援と日台野球交流[桜H25/11/14]
【台湾チャンネル】日台交流頻道第7回、中国を恐れるな!熱血議員の日台交流[桜H25/11/21]
【台湾チャンネル】日台交流頻道第8回、世代と国境を越える「高雄同窓会」の交流[桜H25/11/28]
【台湾チャンネル】日台交流頻道第9回、高雄中学校の日本精神[桜H25/12/5]
【台湾チャンネル】日台交流頻道第10回、日台原告団がNHKに勝利!他[桜H25/12/12]
【台湾チャンネル】日台交流頻道第11回、台湾感謝の旅で深めた友情[桜H25/12/19]
【台湾チャンネル】日台交流頻道第12回、陳水扁氏迫害に見える国民党の本質[桜H25/12/28]
【台湾チャンネル】日台交流頻道第13回、安倍総理の靖国参拝と「嘘」が記述されている教科書の問題[桜H26/1/9]
【台湾チャンネル】日台交流頻道第14回、国民党によって人治社会に逆戻りしつつある台湾[桜H26/1/16]
【台湾チャンネル】日台交流頻道第15回、「夜市」の楽しさと「大中国史観」のおかしさ[桜H26/1/23]
【台湾チャンネル】日台交流頻道第16回、中国の取り込みか?混乱する民進党 他[桜H26/1/30]
【台湾チャンネル】日台交流頻道第17回、期待!日本統治時代が舞台の台湾映画「KANO」他[桜H26/2/9]
【台湾チャンネル】日台交流頻道第18回、安倍政権「台湾に礼を尽くす」・中国主導の台中政府間対話[桜H26/2/14]
【台湾チャンネル】第19回、今も守られる皇族の黒松・中国に応える国民党「反日教科書」[桜H26/2/20]
【NHKは誠実な対応を!】「台湾入り中国地図」を映したNHKスペシャル『中国激動 空前の農民大移住 』
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10/6(日)に放送されたNHKスペシャル『中国激動 空前の農民大移住 』 においてNHKは性懲りもなく「台湾を中国領土とする地図」を使用。先ずはこの問題のシーンを150秒程にまとめているので確認頂きたい。
(なお当然のことであるが批評、検証の為に著作物の一部を引用する事は著作権法により保護された権利である。もしそれが出来なく成るならば、特に台湾報道で問題の多い公共放送局NHK製作番組を例示して批判する事が許されなくなってしまう)
故意であろうか、それとも過失であろうか?
結論を言うと故意だと断定出来る。NHKはこれまでにも同様のことを繰り返しており、その都度抗議を受けている。しかし「台湾入り中国地図」の使用を止めようとはしない。
放送法「第二章 放送番組の編集等に関する通則」第四条には、放送事業者が国内放送及び内外放送の放送番組の編集に当たっては、次の各号の定めるところによらなければならないとある。
一 公安及び善良な風俗を害しないこと。
二 政治的に公平であること。
三 報道は事実をまげないですること
四 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。
「台湾は中国の不可分の領土である」というのは中国共産党の政治的主張(宣伝工作)であり事実ではなことは、中国が「沖縄県石垣市尖閣諸島は自国領である」と70年代になって言い出した事と同様である。しかしNHKは中国の意を汲む内容で今回番組を制作したことになる。「台湾は中国の不可分の一部である」という中国の主張に関して日本政府は「中国の〝主張は理解”し〝尊重する”がそれを承認はしていないことは常識である(中国共産党は「賛同」を日本政府に求めたが、我が国はそれを拒否している)。
事実、外務省は台湾を中華人民共和国と明確に区分している。
外務省「各国・地域情勢」では一国二制度の香港、マカオですら中華人民共和国とは区分されている。いわんや台湾には当然のこととして別項を設けた記述がなされている。正しく配慮がなされているのである。NHKの編集方針は放送法第二章第四条の一号、二号、三号に違反しているではないか。
一体、いつからNHKは(受信料で成り立つ)公共放送局としての節度を捨てて、中国共産党の政治宣伝を行う組織となったのであろうか。
NHKのこのような事実を曲解した態度が、いかに台湾人と台湾を侮辱していることであろうか。この非常識な番組制作態度に疑問を持たれた方にはぜひともNHKに対する質問、抗議活動に参加していただきと思う。またNHKは平成四年(1992)の「幻の王国ムスタン」事件を教訓として、真摯な態度で訂正と謝罪を行うべきである。
なお問題のNHKスペシャル『中国激動 空前の農民大移住 』は以下の日時に再放送されるので直接確認をすることが可能である。問題の個所は冒頭直後(開始約4分後)である。
再放送日時
10月10日(木)午前0:40~午前1:30 [水曜深夜]
http://www2.nhk.or.jp/hensei/program/p.cgi・・・
【NHK連絡先】
℡ 0570-066-066(左記が利用出来ない場合は050-3786-5000)
http://www.nhk.or.jp/css/goiken/call_center.html
メールによる御意見、御問合せ
→メールフォームの「件名(番組名など)」欄に「中国激動」と記入すると、直接番組担当者に届くとの事
http://www.nhk.or.jp/css/goiken/mail.html
【1986年9月28日】初の野党、民主進歩党結党
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先月28日、民主進歩党(民進党)は結党27周年を迎えた。
1986年(昭和61)9月、民進党は戒厳令下台湾で非合法組織として結成され、その結党劇はいまも鮮烈な印象を我々に与える。
当時、台湾は「党による政治の指導(以党領政)」が40年にわたり続いていた。中国国民党(以下「国民党」)による一党独裁体制下にある台湾では、「党」といえばそれはすなわち国民党を指していた。事実1986年当時の立法委員(国会議員)に占める国民党の議席割合は94%である。「党外に党なく、党内に派閥なく」と言われる所以であった。なお国民党以外にも国共内戦で敗北した国民党軍と共に台湾へ逃亡した中国青年党(青年党)と中国民主社会党(民社党)が存在していた。つまり戒厳令下台湾(1949-1987)での合法政党とは国民党、青年党、民社党の三党であったのだが、両党ともに国民党友党であり、国民党政府の「自由中国」を喧伝し複数政党制を演出する衛星政党の域を出る事はなかった。現在も青年党、及び民社党が分裂して結成された後継政党は立法院に議席を有さない政党として存続する。
政党結成が非合法化されていた状況下では反国民党の政治家や民主活動家は、合法三政党に属さないという意味で「党外」と総称されていた。党外は1981年の地方選挙において各地で「党外候補者推薦会」を開催しており、翌々年(1983)9月18日には「党外中央後援会」が成立、さらに翌年1984年5月11日に公職者を中心とした穏健派党外人士により「党外公共政策研究会(公政会)」が組織されたが、直ちに蔣政府から非合法団体として指定されている。
1986年(昭和61)9月28日、「党外中央後援会」が圓山大飯店(台北市)で候補者推薦会を開催中に突如「民主進歩党」結党が宣言され、党外候補者がそのまま民進党結党発起人となるという思わぬ展開となった。
民進党の説明では次のようになっている。
この日「党外編輯作家聯誼会」(政治批判雑誌の編集者らを中心とした急進派団体)と「党外公共政策研究会」の両団体のメンバー132名が民主進歩党の設立文書に署名、設立を正式に決議。11月10日には、第一回全国代表大会(第一回党大会)を開催。規約、綱領などの議案を採択した」と。
戒厳令解除(1987年7月15日)の八ヶ月前の「事件」であった。蔣政府は民進党を反乱団体とみなしていたが内外の民主化の潮流に抗い切る事は出来ず、民進党は「非合法団体であり承認せず、但し取り締まりもせず」との態度を取っている。事実上の黙認であった。
(これをもって「民進党は国民党の管理の下、一種のダミー政党として結成された。ゆえに選挙での民進党への投票は無益だ云々」との意見があるが、根拠薄弱な言説への思い込みは一種の陰謀史観に囚われているといって良いと思う)。
その後、蔣経国総統は(一)中華民国憲法の遵守(二)反共堅持(三)分離運動(台湾独立を指す)への不関与、この三原則を満たすならば新政党の結成を認める方針を明らかにしており、これはその後の「党禁の解除」へとつながる。これに対して民進党は「民主政党であり反共政策を堅持」する旨を表明、その後民進党は台湾独立に関して大きく舵を切ることとなる。
「1987年5月19日、民進党は戒厳令施行38周年にあたって戒厳体制に抗議する大規模デモを主催し、7月15日の戒厳令の解除を勝ち取った。1987年末、姚嘉文氏が第二代主席に就任した。この年の全国党員代表大会では、「人民には台湾独立を主張する自由がある」との決議文を採択し、翌年1988年の大会では、台湾独立についてさらに踏み込んだ形の「417決議文」を採択した。それは、台湾は国際的に主権が独立しており、北京を首都とする中華人民共和国には属していないとし、「もし国民党・共産党両党が一方的に会談を行ったり、もし国民党が台湾人民の利益を売り渡したり、もし中国が台湾を統一したり、もし国民党が真の民主憲政を実施しない場合、民進党は台湾独立を主張する(民進党HP)」というものである。
民進党が合法政党となるのは1989年(平成元年)のことである。
1987年12月2日、戒厳令解除後初の選挙で民進党は躍進(立法委員21議席、県長6名が当選)、名実共に国民党に対する野党勢力となる。2000年(平成12)3月18日、総統選挙で陳水扁候補(民進党)が連戦候補(国民党)、宋楚瑜候補(無所属)を破り、民進党は遂に半世紀にわたる国民党支配から平和的に政権移行を果たした。

戒厳令下台湾での民進党結成を報じる1986年(昭和六十一)9月30日(火)毎日新聞朝刊.
【補追】
2012年12月末現在、231の団体が政党登録されており、その中には四つの共産主義政党(台灣共產黨、中華民國共產黨、臺灣民主共產黨、中國共産聯盟)までもが存在している。いずれも2008~2009の間に政党登録された新しい政党であり議席を有していない。なお中華民國共產黨の総書記であった陳天福が党を出て新たに創設したのが臺灣民主共產黨であり、陳天福は陳水扁元総統の従弟にあたる。共産主義政党が台湾で合法化されたのは2008年8月12日に登記された台灣共產黨が最初となる。司法院が「人民団体が共産主義を主張することは、人民団体の許可を拒絶する要件とはならない」との憲法解釈を行ったことによる。
ある男性の生涯
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その男性を、仮にTさんと呼んで、話を進めていこう。
Tさんは大正十二年(1923)、瀬戸内海をのぞむ山口県の農村に生まれた。
現在であれば四年制大学を卒業する年頃である二十二歳。昭和二十年四月、Tさんは久留米の陸軍予備士官学校を卒業、少尉として第二十五師団で第二中隊第三小隊長を務めた。通称「国兵団」と呼ばれていた第二十五師団の終戦時の駐屯地は宮崎県小林町(現 小林市)となる。これは米軍の九州南部上陸計画「オリンピック作戦」に対抗するための措置であり、国兵団は本土決戦用に温存された師団のひとつであった。当時、軍は米軍の上陸地点を鹿児島県~宮崎県の志布志湾と想定していたが、その判断は正しかったそうである。しかしながらTさんの少尉任官の四ヶ月後に日本はポツダム宣言を受諾し辛くも戦闘は免れた。なお敗戦時、本土決戦に備えて軍には豊富な資産が残存されており、除隊時Tさんにも相当額の慰労金が支給されたとのこと。
Tさんはその後、県内有数の化学メーカーに職を得て、嘱託時代も含めると四十年近くのサラリーマン生活を務めあげた。仕事に対する態度は真面目で厳しいものだったという。三十年程前からだっただろうか、Tさんは白内障を患っており徐々に症状は悪化していた。当時は今ほど白内障の治療法は確立していなかったが、Tさんの生活態度にはさほど変化はなかった。
Tさんに最後の時が訪れたのは今年の九月初旬。夕食時に倒れ、救急車で運ばれたが翌日には帰らぬ人となった。享年九十歳、突然の死ではあったが不足の無い年齢であったのかもしれない。
ただTさんには認知症の症状が進行している八十四歳になる奥さんがいた。Tさんは、週に何度か自宅を訪れる介護職員を通じて自身亡き後を考え、妻のために介護施設の手配を済ませていた。そのためTさんの逝去後も奥さんは本来入居待ちとなる施設にすぐに入る事が出来た。残された人々は晩年まで聡明であり続けたTさんの用意周到な事に感心もし納得もした。
愚痴、泣き事や怠惰とは生涯無縁の、気合のこもった生き方の人であった。
視力が少しづつ失われていく日々も節制に努め、毎朝のウォーキングと自らが考案した体操を課し、それを一日も欠かすことは無かった。自分に厳しく、一本筋の通った折り目正しい生き方に徹した。自分の事は自分で行い、他人に迷惑をかけることを嫌い、それを頑固に貫いた。
克己的でありながらも、淡々と人生を全うしたTさんへの追懐の情は尽きる事が無い。
永山英樹台湾研究フォーラム会長「2020年 東京オリンピックで『中華台北』を見たくない」【自由時報 9/22記事】
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永山英樹 「東京オリンピックで『中華台北(Chinese Taipei)』を見たくない」
二○二○年の夏季オリンピックの開催都市が東京と正式に決定した。その時に至れば、我々台湾研究フォーラムは友邦台湾の選手への応援を広く呼び掛けるつも りだが、しかし台湾代表が「チャイニ―ズタイペイ」の名で参加するのは望まない。なぜなら多くの日本人が共産中国(※)の「台湾は中国の一部分」という宣伝を鵜呑みにするのが心配だからだ。
そこで我々は呼称を「台湾」に改めるための啓蒙運動を呼び掛ける計画である。民間の力でIOCの規則を改変することはできないが、しかしメディアを含む日本人がそれに従う義務はない。そこで五輪開幕以前の段階で、たとえば日本のテレビ局が「チャイニ―ズ タイペイ」と台湾代表を呼ぶならば、それに対して訂正を要求する行動を起こしたい。
また台湾の方々にも、二度と「中華台北」(チャイニ― ズタイペイ)と自称するなとお願いしたい。国際社会でそれは、「中華民国の台北」ではなく「中華人民共和国の台北」を意味するからだ!二〇二〇は台湾が国 際社会に向けて声を発する又とない機会であり、これを逃さないでほしい。もし台湾人が自ら「台湾は中国の帰属しない」と声を上げるなら、日本や国際社会に 対して更に説得力や影響力が高まるはずだ。
(日本籍作家、台湾研究フォーラム会長)
※私(=永山英樹氏)は「中国」と書いたが、自由時報に「共産中国」に変えられた。きっと「共産」の二文字で中国の悪行を強調したのだろう。しかし私は「共産中国」が「非共産中国」に変わっても、「台湾は中国の一部」との宣伝は停止しないと思っている。

いわゆる「中華台北(Chinese Taipei)」オリンピック委員会旗
台湾を都市名である「台北」扱いする発想には驚かされる。.
台湾は日本の生命線 平成二十五年九月二十二日の條
“東京五輪で「チャイニ―ズタイペイ」は見たくない”と台湾国民に訴えた
◇慶祝 平成三十二年(2020年)東京オリンピック・パラリンピック開催決定◇
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高円宮家 憲仁親王妃久子殿下 感謝の御言葉 in IOC
安倍晋三総理大臣のプレゼンテーション IOC総会(13/09/08)
国際オリンピック委員会(IOC)総会は7日、2020年夏季五輪の開催都市を東京に決定した。東京は第一回投票を1位で通過。ともに決選投票に進んだトルコ共和国イスタンブールを60対36で制した。日本でのオリンピックは1964年(東京)、1972年(札幌)、1998年(長野)と合わせ4度目となる。投票数は次の経緯となる。
○第一回投票
東京 42票
イスタンブール 26票
マドリード 26票
○2位決定投票
イスタンブール 49票
マドリード 45票
◎決選投票
東京 60票
イスタンブール 36票
憲仁親王妃久子殿下の気品有るスピーチに魅了されました。もちろん安部晋三首相のプレゼンテーションも見事なものであり、名状し難い誇らしい気持と成りました。平成32年(2020)東京オリンピックを期に祖国日本の更なる国運隆盛を願っております。
昭和39年(1964)以来、56年振りと成る東京五輪開催決定、おめでとうございます。
Erdoğan首相(敗者,但偉大).jpg)
決戦投票で敗れたトルコのエルドアン首
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