Archive for the ‘未分類’ Category

【紹介】黃 聖峰著(原文)『台湾主権の真実(2/4)』

2015-04-29
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台湾主権の真実(28・73)

台湾主権の真実(29・73)

台湾主権の真実(30・73)

台湾主権の真実(31・73)

台湾主権の真実(32・73)

台湾主権の真実(33・73)

台湾主権の真実(34・73)

台湾主権の真実(35・73)

台湾主権の真実(36・73)

台湾主権の真実(37・73)

台湾主権の真実(38・73)

台湾主権の真実(39・73)

台湾主権の真実(40・73)

台湾主権の真実(41・73)

台湾主権の真実(42・73)

台湾主権の真実(43・73)

台湾主権の真実(44・73)

台湾主権の真実(45・73)

→【つづく】黃 聖峰著(原文)『台湾主権の真実(3/4)』


【紹介】黃 聖峰著(原文)『台湾主権の真実(1/4)』

2015-04-29
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『台湾主権の真実』は臺澎國際法法理建國連線がfacebook上で掲載しているものである。非常な労作で価値有る内容に思われたのでここに転載させて戴いた。

本文を執筆している黃 聖峰先生は、昨年本会・田邊会員の台湾入境実現に尽力された人物である。一般に台湾独立運動家というとエネルギッシュで情熱漢の群像というイメージがあるが、黃先生は知的で温厚な青年であった。その一方でひまわり学生運動発生時には嘉義から台北に即座に向かって馬政権への抗議活動に参加しており、台湾建国にかける熱い思いも人後に落ちないものを感じさせた。台湾大卒の英才であり、日本語も勉強されている若き親日家でもある。

黃 聖峰先生は『台湾主権の真実』の原文執筆の理由について次の様に語っている。

「私はより多くの人達に真実を知って頂きたいと思っている。台湾が法理建国(*)を完成させること、それは難しいことではない。『中華民国』と『台湾』の本当の関係を理解することで、法理建国を行うための方法が明らかになる。」

(*)法理建国:法(憲法、法律)の改正及制定を通じた「主権国家・台湾」建国を行うことを指す

陳唐山立法員辦公室(20140625)
陳唐山立法員辦公室(2014/6/25)
【左→右】
呂 俊輝 李登輝民主協会嘉義分会総幹事
(http://www.lthsociety.org/)
黃 聖峰 監票者聯盟主席
(http://www.observers.tw/)
張 葆源 立法委員陳唐山国会辦公室 助理
(https://www.facebook.com/tangshan.chen)
王 獻極 908台灣國運動召集人
(http://908taiwan.org/)
陳 唐山 立法委員(民進党立法委員/元外交部長=外務大臣)
(https://www.facebook.com/tangshan.chen)
田邊 憲司(本会会員)


「台湾・澎湖諸島」法理主権難問の真実。次の世界大戦の勃発の阻止(中国)、さらに世界の平和を維持する方法=台・澎住民の住民自決で建国することを支援する。

[本文]黃 聖峰
[画家]QAOa@PTT
[翻訳]許 心瀠、Weihan Huang
[翻訳レビューア]折田浩子
[字幕制作]Kiesy
[ウェブサイト版]
(日本語版)http://www.rotpnetwork.tw/TPSovDBYTP.php?LAN=JP
(台湾中文版)http://www.rotpnetwork.tw/TPSovDBYTP.php?LAN=TW
(英語版)http://www.rotpnetwork.tw/TPSovDBYTP.php?LAN=EN


台湾主権の真実(2・73)

台湾主権の真実(3・73)

台湾主権の真実(4・73)

台湾主権の真実(5・73)

台湾主権の真実(6・73)

台湾主権の真実(7・73)
台湾主権の真実(8・73)

台湾主権の真実(9・73)

台湾主権の真実(10・73)

台湾主権の真実(11・73)

2台湾主権の真実(12・73)

台湾主権の真実(13・73)

台湾主権の真実(14・73)

台湾主権の真実(15・73)

台湾主権の真実(16・73)

台湾主権の真実(17・73)

台湾主権の真実(18・73)

台湾主権の真実(19・73)

台湾主権の真実(20・73)

台湾主権の真実(21・73)

台湾主権の真実(22・73)

台湾主権の真実(24・73).jpg

台湾主権の真実(25・73)

台湾主権の真実(26・73)


台湾主権の真実(27・73)

→【つづく】黃 聖峰著(原文)『台湾主権の真実(2/4)』


 

二重基準-「民国党」党章問題-

2015-03-13
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民国党3/12付自由時報報道に「黨旗有國徽 民國黨成立被卡(党旗に国章有り。民国党結成拒まれる)」と題した面白い記事が掲載されていましたので紹介致します。


徐欣瑩立法委員(国会議員)が中国国民党を離党して、新党「民國黨(民国党)」結成準備のため、中華民国内政部に政党結成の申請を行ったが、民国党の使用する党旗、党章が中華民国国章のデザインを使用しているという理由で、内政部が懸念を表明している。

そのため新党申請案の審査が遅れ、許可も為されていない。徐欣瑩立法委員は「政党結成は申告制であるのに、内政部は故意に申請を困難にして、人民の集会結社の自由を妨げており、これは中華民国憲法に違反している」と批判を行っている。

陳威仁内政部長は「(中華民国)国章を党の標識とすることには幾つか懸念が有る。特に(中華民国)国章が中心に配置されており、黄色の下地になっており、もし選挙広報が白黒印刷であった場合には紛らわしく、党と国家(中華民国)を区別する事が出来ない」と語っている。

徐欣瑩は違憲であると内政部を批判、一方内政部は(国章と)混同しやすいと説明

徐欣瑩氏は立法院内政委員会で質問し内政部の回答を求めた際、「新政党申請で内政部の干渉が在った。内政部の手続きは憲法違反であり、管理があまりに多すぎる」と非難している。

一方、内政部民政官は「政党結成は申請制を採用しているが、内政部としてはやはり審査しなければならない」と表明している。

陳威仁内政部長は「内政部は関与しておらず、必ず疑義を明確にしなければならない」とした上で「(民国党の党章の件に関しては)研究中であり、適切に処理する」と語っている。

また陳怡潔親民党立法委員「親民党には総統選挙で候補者を推薦する資格があるのだろうか?」と問い質したが、陳威仁内政部長は「親民党は前回政党得票率は5%を上回っており、総統選での候補者を推挙出来る」と表明した。


「中華民国」国章と「中国国民党」党章の相似度は高い。国章の「白日」はやや小さく、国民党党章の青天白日は円の縁に繋がっている点が異なってはいるが、過去のソ連邦や鉤十字旗が国旗とされたナチス・ドイツ、そして現在の中国共産党と中華人民共和国の関係と同様に、台湾を不法統治した中華民国とは、中国国民党が私物化した国家が原点であったことを意味している。

國徽與國民黨黨徽民國黨

【左→右】中華民国国章、中国国民党党章、中華民国旗、問題となった民国党党章

民国党党章が国章に類似しており、紛らわしいものであるとする内政部の今更ながらの態度、これを台湾人は噴飯ものとして指摘している。「国民党は問題が無いのに、なぜ民国党は不可なのだ?」と。無論多くは民国党の党章に関心が有るのではない。国民党の「党国同一」の歴史を棚に上げ、中華民国内政部が臆面もなく、民国党の「党国不分(党と国家が区分されていない)」な点を持ち出すその矛盾した態度に失笑している訳である。

この件に関する台湾ネット・ユーザー達(PTT郷民)のコメントは以下を参照の事。
https://www.ptt.cc/bbs/Gossiping/M.1426130829.A.BD9.html

民國黨HP(未完:3/13時点):http://www.mkt.org.tw/


 

台湾共和国独立宣言/1956(昭和31)年2月『台湾民報』号外

2015-03-10
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廖文毅(1910-1986)らにより東京で「台湾共和国臨時政府」の樹立が宣言されたのは、1956年(昭和31)1月のことであった。

二・二八事件(1947)勃発時、上海に逃れていた廖文毅(当時37歳)は台湾再解放同盟を結成、香港で活動をおこない、翌年国連に対し台湾を国連信託統治下において、台湾の帰属や独立問題は台湾人の投票で決定すべきとの請願書を送っている。

台湾再解放同盟には台湾独立を主張する台湾共産党(正式名称:日本共産党台湾民族支部)の謝雪紅(1901-1970)が参加したとも、しなかったとも言われているが、結局彼女は上海で台湾民主自治同盟(台盟)を結成したのち中国共産党に合流、民主党派(衛星政党)台盟主席として中華人民共和国要職を歴任している。その後の文化大革命では粛清の対象となり紅衛兵の殴打を遠因として1970年(昭和45)に死去。なお二七部隊(二・二八事件で国民党軍に抗戦した台湾人の民兵組織)を指導したとされる謝雪紅が台湾を脱出した経緯は面白い。国民党から最重要指名手配されていた謝雪紅は人脈と賄賂を使い左営軍港から“国民党軍艦艇に乗船して厦門への逃亡に成功”する。台湾で神秘的な存在として語られる“欧巴桑”の興味深い挿話については、本邦唯一の評伝である陳芳明『謝雪紅・野の花は枯れず』(社会評論社 平成10年/1998)に詳しい。

1950年、廖文毅は香港から日本に拠点を移し、台湾独立運動の主体となるべく台湾民主党を結成させたものの、期待していた日本人や在日台湾人の関心や支援が殆どなく、台湾民主党の活動にも見るべきものはなかった。これは日本国内の蔣政権特務機関による監視が非常に厳しかった事をも意味している。それでも廖文毅らは台湾臨時国民会議というものを開き、二・二八事件から九年目となる1956年(昭和31)1月に台湾共和国臨時政府の樹立を宣言(下記に『台湾民報』号外「台湾共和国独立宣言」を附す。なお誤字などはそのままにした)、2月28日に自ら大統領に就任、機関紙『臺灣民報』を創刊するなどして、国際社会に蔣介石独裁政府に対抗する亡命政権の存在を一定程度アピールすることに成功した。その一方で在日台湾人のなかには「台湾共和国臨時政府には近付くな」という指摘もあったことを付言しておく。これは国民党の複数の特務(スパイ)が台湾共和国臨時政府内部に偽装参加していたことを意味している。

1962年1月、台湾共和国を支援したと見做された台湾人数百名が蔣介石政府によって逮捕されるという事件が発生した。その内の中心人物は長期間の取り調べと軍事裁判所での審理の末、国家叛乱罪で起訴され、一斉捕縛から三年後(1965年1月27日)、廖史豪(廖文毅の長兄・廖温進の子)と黄紀男に死刑判決が、林奉恩、廖温進に懲役12年が言い渡された。

廖文毅

東京から台北へ蔣政府に帰順する廖文毅台湾共和国臨時政府大統領。無念だったろうと思う。

なおこの一斉逮捕では、廖文毅の弟・廖温進と廖史豪の実母も逮捕されており、廖文毅の近親者を狙い撃ちにし、海外の台湾独立運動を瓦解させる性格のものであったことが理解出来る。事実1965年5月、家族を人質に取られた台湾共和国臨時大統領・廖文毅は特赦と引き換えに、台湾独立運動の放棄を宣言したのち台北に戻り、蔣介石政府に投降することとなった。独立運動を断念せざるおえなかった廖文毅の国民党への帰順の姿は反蔣運動に携わる多くの台湾人を失望させたが、以上の様に同情すべき事情が存在したことは顧慮されるべきであろう。そしてまた1950~60年代の非常に困難な時期に台湾独立運動の存在を世界に示した「台湾共和国臨時政府」運動には大きな存在意義があったように思う。挫折したかと思われた台湾独立運動はその後、日本で王育徳(1924-1985)、黄昭堂(1932-2011)、許世楷(1934-   )らを中心とする台湾青年社に引き継がれる。

蔣政府により死刑判決を言い渡された二人は廖文毅の帰順により懲役刑に減刑され、廖史豪氏は2011年9月に逝去、享年88歳。戒厳令時代に三度(計25年間)の投獄を体験した黄紀男氏は、台湾民主化後に陳水扁総統の総統府国策顧問に就任、2005年に87歳で逝去。


台湾民報号外  THE TAIWAN-MINPO
反蔣反共完成獨立

台湾共和国独立宣言
台湾二・二八革命第九周年記念日に

台湾共和国臨時政府(大統領/副大統領)就任式
本二十八日港区麻布公会堂で

(台湾民報二十八日特報)本二十八日午後二時より港区麻布東鳥居坂町三番地港区麻布公会堂において台湾共和国臨時政府成立、廖文毅大統領 呉振南副大統領の就任式 並に祝賀会及び台湾二・二八革命第九周年記念会が挙行され、全世界に向って「台湾共和国独立宣言」を発する

台湾共和國独立宣言(日本文訳)
我ら台湾民族は自由と平和を愛する民族である。自由を求め、平和を祈願し、繁栄を図る道は、自主独立を以ってその基礎とする。かゝる認識の上に立ち、又その必然の要求に基づいて、我ら台灣民族は久しきに亘り、異民族の支配から脱却することに努めてきた。台湾の歴史は台湾民族の異民族支配勢力に対する駆逐斗争の歴史である。一六六一年と一八九五年とに、我ら台湾民族は二度独立をした。また一九四七年の二・二八革命によつて我々は事実上の独立を快復したが、この未完成の、歴史上三度目の独立を完成する爲に、我々は全身全霊を捧げてきた。

今や、我ら台湾民族は、各民族が各々の自由意思に基づいて、独立する当然の権利あうことを再確認し、こゝに、台湾の台湾民族による、台湾独立を宣言する。

我ら台湾民族の独立の意義は堅固にして不動である。平和を乱し、侵略を企てんとする異民族は、我々の断固として排斥するところである。台湾の独立台湾共和国独立宣言なくして、世界に平和はないという條件は二度失い、一度は未完成に終つた我ら台湾民族の独立○○と相待つて、必然的に我々をして正義を持し、平和を守る国際機構の構成員たらしめる。

内に台湾民本主義を施行して民族の繁栄を図り、樂土を築き、外に国連に協調して人類の文化に貢献し、世界の平和に寄與することは、我が台湾共和国の権利であり、義務であり、使命である。

一九五六年二月廿八日
台湾共和国臨時政府


【参考文献】
『台湾 四百年の歴史と展望』伊藤潔著 中央公論新社 平成12年(2000)
『台湾法的地位の史的研究』戴天昭著 行人社 平成17年(2005)
『台湾史小事典 増補改訂版』呉密察原著監修/遠流台湾館編著 中国書店 平成22年(2010)
『昭和を生きた台湾青年 日本に亡命した台湾独立運動家の回想1924-1949王育徳著 草思社 平成23年(2011)
『台湾現代史 二・二八事件をめぐる歴史の再記憶』何義麟著 平凡社 平成26年(2014)


 

【自由時報報道】台灣國運動メンバー、蔣介石像(中正記念堂)にペンキを投擲

2015-02-28
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TAIPEI TIMES(2015/2/28)
Protesters pelt Chiang statue with eggs, paint

227

以下は自由時報「獨家》228前夕 台灣國成員潑漆蔣中正銅像(2015/2/27)」の翻訳文である

明日は228紀念日、独立派団体・台湾国メンバーの王獻極、陳峻涵ら約7、8名が本日午前11時5分頃に中正記念堂に進入、蔣介石銅像に黒色のペンキを詰めた風船玉を投擲した。突然の事で警備員も不足しており、現場は混乱した。両名は「殺人魔王 蔣介石、真実無くして、赦しなし」と叫んだが、すぐに警備員により抑止された。

台湾国はその前に台北賓館の外で記者会見を開き、林益世・前行政院事務総長(中国国民党)、賴素如・台北市議員(元中国国民党党籍)が収賄嫌疑を受けており、李全教・台南市議長(中国国民党)が拘留されたこと、馬政府の腐敗した事案を指摘した。また馬英九総統が入獄を免れる為に台湾に戻らず逃亡するのを防ぐため、外国訪問をしないことも要求した。

台湾国メンバーは台北賓館での記者会見終了後、密かに中正記念堂に入り、衛兵交代後に観光客が蔣介石像に近づき写真撮影を行う際、黒色ペンキが入った風船を銅像に向って投げつけ「歴史が赦しても、忘れる事は出来ない。だが真相無くして、どうして赦す?」と叫んだ。

当時警備員の数が不足しており、台湾国メンバー四人は逃走したが、最後は率先した王獻極氏と陳峻涵氏をエレベーターに連行していった。

[獨家]台灣國潑漆

228前夕!蔣介石銅像遭蛋襲、墨洗│三立新聞台


王獻極氏によると、今回の出来事は、台湾国運動の王獻極氏、陳峻涵氏、そして張碩寧氏が主宰する台獨建國新世界の二団体のメンバーが共闘して実行したとの事。現在、台湾では中国人観光ルートに、同国人である蔣介石由縁の地が含まれることが多く、ここ中正記念堂も例外ではない。民進党政権下、中正記念堂は台湾民主紀念館と改称されていたが、馬英九国民党政権後に再度中正記念堂に改名されたという経緯がある。中国正統政権という虚構のもと強権的な台湾支配をおこなった国民党にとり、蔣介石廟である中正記念堂(蔣中正が蔣の通称、「介石」は字)が民主記念館ではまずいのかもしれない。

また27日から28日にかけて交通、陽明、東吳、輔仁等の大学や公共施設などの蔣介石像が汚損される事件が複数報道されている。いずれも二蔣(蔣介石-蔣経國統治下~1988年)時代を経験していない学生、若者達によるものと考えられるが、白色テロの犠牲者が親族にいた者の行動であったのかもしれない。ともあれこれらの行動は、古参の独立活動家を感激させているようである。

敗戦後、ソ連軍が日本を占領し各地にスターリン像が公共物として建造、冷戦終結後もそれらが歴史的建造物として残置されたままになっていたとしよう。その時、日本国民はどのような行動をとっていただろうか。

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自由時報 2015/2/28 Fri. 勿忘228 多所大學老蔣銅像被噴漆

2281
(上)清華大学構内で撮影された「228
(下)「勿忘228(228を忘れるな)」、臺北市士林區中正路とされる。

227228
facebookに投稿されている汚損された蔣介石像数例


 

【転載】世界同時行動!南モンゴル牧畜民の土地強制収用への中国大使館・領事館前抗議

2015-02-12
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告知

南モンゴル牧畜民の土地と権利を守るため、中華人民共和国による人権蹂躙に対し、海外在住モンゴル人による一斉抗議活動を2015年2月14日に行います。

[参考シュプレヒコール]
勾留中の牧民たちを釈放せよ!
牧民の権利を返せ!
弾圧に反対!
人権を返せ!
自然破壊をやめろ!
鉱山開発をやめろ!
同化政策に反対!

[場所]
各国モンゴル人居住地にある中華人民共和国大使館、総領事館前

[時間]
現地時間の2015年2月14日11:00~13:00

[連絡]
アメリカ(ニューヨーク):エンフバト
アメリカ(ワシントン):ナラス
日本(東京):ホビスガルト、バヤル(090-2849-5002) 14:00-15:00
日本(大阪):ウリゲン(090-3895-5688)
スウェーデン(ストックホルム): ドルギョーン
モンゴル国( ウランバートル): ムンクバヤル

[発案]海外在住の南モンゴル人

[文責]南モンゴル人権情報センター

2015年2月7日


[集合場所]

◇東京抗議活動:麻布税務署前

◇大阪抗議活動:大阪市西区 靫(うつぼ)公園・西側部分の西端(最寄り・地下鉄阿波座駅、地下鉄本町駅。阿波座駅のほうがより西端に近いです)

※東京と大阪、それぞれ同日・同時刻です。お近いほうにご参加ください。

集合時間 2015年2月14日 午前10時半集合 11時開始

[引用元]
一般社団法人 南モンゴル自由民主運動基金
http://smldf.org/?p=342


 

【御案内】平成二十七年(2015)二月十一日(水/建国記念の日)橿原神宮-紀元祭-

2015-02-10
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【日時】平成25年2月11日(水) 11:00~

【交通】近鉄橿原線「橿原神宮前駅」徒歩10分

【住所】奈良県橿原市久米町934

【地図】http://goo.gl/maps/dra9k

【橿原神宮HP】http://www.kashiharajingu.or.jp/

【橿原神宮】
奈良県橿原市久米町に鎮座。旧官幣大社。祭神は神武天皇ならびに皇后の媛蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめ)命。神武天皇は第一代の天皇であり、早くより広く景仰されてきたが、近世尊王論が勃興するや、天皇奉祀の神社や山稜の補修が唱えられ、明治政府は新政の大本を天皇の創業に則ることとなった。明治五(1872)太陽暦の施行とともに天皇の即位紀元が行われ、紀元節(即位の日とされた2月11日)が定められ、同22年の紀元節に大日本帝国憲法が発布された。そのころ奈良県高市郡の人々が橿原宮の遺跡に天皇奉斎の神社の創建を請願し、同年7月聴許、京都御所の内侍所(温明殿)を神(本)殿 に、神嘉殿を拝殿に賜わった(のちに拝殿は新しく造営され、旧拝殿は御饌殿、現在は神楽殿となり、神殿とともに重要文化財に指定)。翌23年3月20日祭 神・社号・社格が定まり、同年4月2日鎮座祭を執行した。例祭は2月11日。昭和15年(1940)の紀元2600年に際し、社殿の改築、神苑の拡張、競 技場の開設など大いに内外を整備した。戦後は国家管理を離れて宗教法人となったが、勅祭社である。
(國史大辭典第3巻 吉川弘文館 平成9年)


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橿原神宮

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【転載】緊急呼びかけ/北京へ向かっている陳情する南モンゴルの牧畜民に応援を

2015-01-12
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本稿はモンゴル自由連盟党・Daichin Olhunuud(オルホノド・ダイチン)党首のfacebook(1/11~12)情報の転載である。


『一般社団法人 南モンゴル自由民主運動基金(South-Mongolian Liberal Democratic Fund)』
HPへ↓click
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緊急呼びかけ
北京へ向かっている陳情する南モンゴルの牧畜民に応援を!

南モンゴルのドゥルベド(Durbed)旗の一部の牧畜民は、中国の解放軍が不法に牧草地を収用したことに反対し、北京に陳情するため、今日(2015/01/11)地元から出発した。(Wechatからの情報)

内モンゴル自治区草原庁は、南モンゴル・ドゥルベド旗とソニド右旗の3000あまりのモンゴル人牧畜民の牧草地を無断で北京軍区に提供した。

実のところ、地元政府は牧畜民達と契約を交わしていた(1998-2027年まで)。
すなわち、1998-2027年までは使用権は牧畜民達にあるということだ。しかし、内モンゴル自治区草原庁側と北京軍区側は牧畜民達の意見を全く受け入れず、軍区の名で牧草民を圧迫し、1亩(666.67㎡)につき200元の補助金を出し、土地を占有してしまった。

地元の牧畜民によれば、彼ら・彼女らは2012-2015年の間ずっと、地元政府をはじめ内モンゴル自治区政府、さらには北京まで行き、中国国防部総政治部・中国民政部・北京軍区に計7回も陳情している。

2015年早々、牧畜民達は改めてこの不公平な事件に対するため北京へ向かった。習近平国家主席が“依法治国”と堂々宣言する中、このように権力を使って民衆を苦しめるやり方は早く改善されてほしいと地元の人は話している。


紧急呼吁
请关注进京上访的维权牧民

内蒙古四子王旗二十名蒙汉族牧民代表已于2015年1月11日晚乘K90次火车进京上访了。他们在进京的火车上给我们发来信息后,引起我们的关注,也希望 各地的蒙古族同胞及社会各界分享、关注、声援!四子王旗蒙汉两族牧民的维权活动已持续多时,去年夏天,媒体就曾报道过,因问题至今得不到解决,牧民们忍无 可忍才进京告状。

事情的起缘很简单,国家为了建珠日河军事基地,让所在地的牧民搬迁,但承诺的条件至今没兑现,为国家大局牺牲自己小家的底层牧民流完血现在还在流泪。据牧 民们反映在征地过程中军方和地方的腐败分子沆瀣一气,相互勾结,致使广大底层牧民的合法权益遭到粗暴践踏。而且牧民们多方反映,得不到解决,这次牧民维权 升级,进京上访,其实是被逼无奈之举。改革开放三十多年来,少数民族地区的底层农牧民,为了经济开发,土地转让,付出了沉重代价,有的甚至是血的代价。 2011年“511事件”之所以引发广大蒙古族同胞抗议风潮(牧民Mergen被拉煤的卡车碾死),“511事件”引发蒙古族同胞的抗议风潮,绝非偶然。 这也从一个侧面反映出现在内蒙古少数民族对生存状况的焦虑。这次四子王族蒙汉两族牧民联合进京上访,更说明问题——底层大众的生存状况仍在继续恶化。我们 恳切希望,中央高度重视内蒙古底层牧民的依法维权,彻底惩治珠日河军事基地征地中的腐败分子,保障底层牧民的合法权益。我们密切注视着事态发展,如果地方 利益集团阻碍牧民维权,强力打压,我们坚决不答应。我们也将全力声援,也希望更多的人能关注此事,促使问题得到完善解决。

此致

EKH ORON蒙古语微信群广大蒙古族同胞

2015年1月12日凌晨4点

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Durvediin malchid dahintaa Beejingiig zoriv.Beejingiin tsergiin toirog Ovor Mongoliin Oortoo Zasah Ornii holvogdol buhii baiguulgatai huuvildan Durved bolon Sunid Baruun Khoshuunii 3000garui malchidiin nutag belcheeriig ni alavdalgaar tatvarlan avsan hereg heden jiliin omno garsan baijai.Mu burd 200yuan ogoh gesen gene.Ene asgudlaar nutgiin malchid 7udaa Beejing oroh boi.2015on oroj dahintaa hudleltsen unen zuvee olhoor Beejingiig zoriv.Tedneree dejhiig buh Mongolchuuddaa utialj baina.”Minii Nutgiin gazar shoroig burhan guisan ch bitgii ug”
.
北京へ陳情に向かう南モンゴルのドゥルベド旗モンゴル人達。列車で年寄りのおばあさんも見える。
心が痛む。皆様の応援をいただきたい。
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◇謹賀新年◇平成二十七年元旦

2015-01-01
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日出処日本
横山大觀『日出処日本』 昭和十五年(紀元二千六百年/1940)/宮内庁三の丸尚蔵館所蔵
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謹んで新春のお慶びを申し上げます。

皆様の御健康と御多幸を心よりお祈りいたしますとともに、
本年も何卒宜しくお願い申し上げます。

今年一年が皆様にとりまして、そして我等の日本と台灣にとり良き御年となります様に
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平成二十七年 元旦  台灣建國應援團 一同


 

衆議院選挙における選挙管理委員会の「ミス」

2014-12-16
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「一票の格差」で鬼の首を獲った様な報道が行われる「前回の衆議院選挙は無効だ」「一票の格差の是正を」と。ただ東京都心と奈良県十津川村の一票が同格な訳が無いのでは、とふと思ってしまう。地方、特に過疎地に居住する有権者はそれだけで価値が有る、とでもいう様な発想が無ければ、今後も東京一極集中は加速、地方は衰退の一途を辿る様に思えてくるのだ。

南アルプスという奇妙な市名の自治体がある。長野県かと思いきや山梨県に属する。この南アルプス市が県外在住者向けの不在者投票用紙に前回(平成24年)衆議院選挙「比例政党名簿」を誤って郵送したことがニュースになっている(*1)。

二年前の選挙用紙を廃棄もせずに利用して、そのことに選管の誰も気付かず、選管のミス(故意or過失)にも関わらず、やり直し投票は制度上認められないという不条理さ。票数(24票)や、政党名簿に掲載されなかった政党がどこであるかは問題では無いのだ。

「過失でしたから謝罪します」だけで済むならば、過失を装って幾らでも不正が行われる可能性が有る。現実に今年八月に結党した「次世代の党」の記載がされておらず、次世代の党に投票を希望する有権者の一票が奪われている。次世代の党に投票出来なかった人物が少なくとも一人存在するという点で、これも当然「一票の不平等」に該当するのではないか。

なお前回参議院選挙で世間を騒がせた高松選管の不正開票事件では市職員が懲役10月、執行猶予3年、という刑が言い渡されているが、民主主義制度の信用を失墜させたという犯罪としては刑が軽過ぎる。なお報道機関の多くは「前々回の(=5年前)比例政党名簿云々」と報道しているが、次世代の党が公表する現物写真は、どうみても平成24年(二年前)のものである。


(*1)
[産経ニュース12/12]次世代が南アルプス市に抗議 前々回の名簿を郵送し「投票権奪われた」

次世代の党は12日、山梨県南アルプス市選挙管理委員会が不在者投票を請求した有権者向けに郵送した比例代表の名簿に同党名が記載されていなかったとして「不在者投票をした方は、次世代の党に投票する権利を奪われた」と抗議した。

市選管は、投票用紙とともに、山梨1区候補者名と比例代表南関東ブロックに候補者を擁立した政党名の名簿を同封、送付した。だが、政党名簿は平成21年の前々回衆院選のもので、解党した国民新党やみんなの党は記され、次世代や維新の党はなかった。

不在者投票をした有権者が10日、市選管に問い合わせたため発覚した。市選管によると、誤った名簿を郵送した有権者は37人で、うち24人がすでに投票を済ませた。投票のやり直しはできないという。

次世代の党発表資料

次世代の党が公表した南アルプス市の不在者投票の比例代表名簿など。
次世代の党発表「選挙管理委員会による「次世代の党」隠しに抗議する」より。



次に、以下は京都市で発生した開票時の「ミス」を報じる京都新聞の記事である。これも酷いもので、危うく次世代の党に投票した1500人有権者の意志が共産党票に組み込まれるというあってはならないことが行われるところであった。京都府選管の注意深い担当者の指摘がなければ、発覚せずに終わる可能性も有った事件である。伏見区選管は一票の重みをどう考えているのか。

「伏見区選管によると、集計ミスの原因は次世代の党と共産党の票の集計を同じ職員が担当して混同(NHK報道)」したということだが、「次世代の党と共産党の票の集計を同じ職員が担当」するという紛らわしい役割分担を本当に行っているのか。これ以外にも表沙汰に成っていないケースは有ると勘ぐってしまう。


[京都新聞12/15]次世代の比例票、共産に混入 京都・伏見で1500票集計ミス

14日投開票された衆院選で、京都市選挙管理委員会事務局は15日、伏見区で次世代の党の比例票1500票が共産党の票に紛れ込み、誤って集計して いたと発表した。同事務局は同区の次世代の党の比例票を1881票、共産党を1万8206票に訂正した。京都府選管事務局は「当落に影響はない」としてい る。

市選管事務局によると、伏見区の開票作業は14日午後9時20分から始まり、比例代表は15日午前0時14分に結了した。次世代の党の比例票は381票で、同市内の他の行政区に比べて同党の票の割合が極端に少なかったことから、府選管が再点検を指導した。

伏見区選管は帰宅していた立会人らを呼び戻し、比例票を点検し直し、誤りが分かったという。

市選管事務局は票が紛れ込んだ原因を「調査中」としている。宇都宮壮一市選管委員長は「市民の信頼を損ない誠に申し訳ない。再発防止に全力で取り組む」とコメントした。


*当落に影響が無ければ批判の声を挙げても意味が無い、という意見を見聞きするが、それは間違っている。議会制民主主義という現状最善とされる制度を維持する場合、投開票時における不正というものは、いうまでもなく「不正の多寡」ではなく「不正の存在」そのものが批判されるべきなのである。


 

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