6月, 2012年
【昭和20年8月16日】幻の台湾独立計画「台湾治安維持会事件」
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平成5年(1993)8月に中央公論社から刊行された書に伊藤 潔著『台湾―四百年の歴史と展望』(中公新書)がある。
著者の政治的立場や主張を反映している構成も多いが、容易に入手が可能で内容も非常に良くまとまっているので台湾史の入門書としてお勧めです。著者にはこの他にも『李登輝伝』(文藝春秋社)、『台湾統治と阿片問題』(山川出版社)、『香港ジレンマ』(中央公論新社)、寒山碧『鄧小平伝』(伊藤潔編訳、中公新書)等の著作があります。

後列左端の覆面姿の男性が劉明修(伊藤潔)先生。於東京 「台湾青年会中央委員会」
伊藤 潔先生は昭和12年(1937)宜蘭県生まれの台湾人。本名は劉明修、昭和39年(1964)に来日し東京大学大学院博士課程を修了して文学博士号を取得。東大留学中に「台獨的言論を主張」したとして蔣介石政権のブラックリスト(黑名單)に名前が登録されてしまう。それにより劉先生は日本での亡命生活を余儀なくされている。
昭和57年(1982)に日本国籍を取得された劉明修先生は日本人「伊藤 潔」と改名して二松學舍大学と杏林大学大学院等で教鞭を取られ、六年前の平成18年1月16日に68歳で逝去されている。
なお劉明修先生のブラックリストが解除され、台湾帰国が実現したのは李登輝時代に入った1992年(平成4年)のこと。30年ぶりの台湾帰国であった。
中国国民党が台湾に不法占拠を続ける為の方策として敷いた戒厳令は38年間(1949.5.20-1987.7.15)、この史上最長の戒厳令は蔣経国時代にようやく解除された。これは主に当時の米国レーガン政権の圧力によるものだとされている。1979年「高雄事件」、1981年「陳文成事件」また1984年、『蔣経国伝』を著した米国籍作家・劉宜良(江南)をサンフランシスコで殺害するという「江南事件」といった中国国民党のテロや強権体質といった暴挙の数々を前にして米国は中国国民党に対する民主化要求を急速に強めていった。また同時に当時世界的な民主化運動が台湾においても「党外人士」の活動として大きく国民党政権に打撃を与えていた事はいうまでもない。
前述の劉明修著『台湾―四百年の歴史と展望』には17世紀のオランダ支配にはじまり~鄭氏政権~清朝の台湾領有~台湾民主国~日本統治時代~中国国民党支配という外来勢力による台湾支配の複雑な歴史が簡潔に描き出されている。また新書という事もあり非常に読み進みやすく、台湾史についてわかりやすく概説した良書。
その記述の中には日本がポツダム宣言を受諾した直後に台湾で企図されたといわれる「台湾治安維持会事件」についても十行程ではあるが手堅く記載がなされている。私がこの事件について知ったのは劉明修先生の『台湾』によってである。それ以降気になる事件ではあったのですが新発見といえるような資料に出会う事もありませんでした。ここにメモ程度にこの事件について記録しておきます。
台湾治安維持会事件は、昭和20年8月16日から同24日に画策された台湾人主体によるとされる台湾独立計画であるが、最後の台湾総督兼第十方面軍司令官 安藤利吉陸軍大将の反対により未遂に終わった事件である。一部では「台湾自治委員会事件」とも呼称されているようである。
『台湾―四百年の歴史と展望』では次のような「台湾治安維持会事件」の内幕を紹介している。
---在台日本軍人の一部に敗戦の現実を受け容れず、台湾人と連帯して台湾の独立計画があった。
---台湾軍参謀の中宮悟郎少佐と牧澤義夫少佐は、台湾人指導者を集め「台湾治安維持会」を組織すべく、八月十六日に中宮少佐が秘密裏に辜振甫と会合して維持会の構成を呈示した。
---「台湾治安委員会」の構成は次の様であったらしい。林献堂委員長、林熊祥副委員長、辜振甫総務部長、顧問 許丙
---二十二日に台湾人指導者らが安藤利吉台湾総督を訪問したが、総督は台湾独立に明確に反対して自治運動をも禁止した。
---後日国民党政権はこの「台湾独立計画」の関係者を処罰し、一年一〇ヶ月から二年二ヶ月の禁固刑に処した。
別書にはこのようにある。
---少数の日本軍将校は妥協を拒んで「台湾独立運動」を始めたという噂が立った。安藤大将はこの噂が有害で危険であると決めつけたが、日本民間人の有力者達は噂に嘲笑ぎみであった。しかしこれらの否定や嘲笑は、広まっていた緊張の度を増幅した。
『裏切られた台湾』ジョージ・H・カー 同時代社 平成18年
---日本政府の支配が失権した八月十五日の翌十六日には、台湾は独立すべきである、かねてから考えていた人びとが時期到来せりと決起した。すなわち日本軍参謀の中宮悟郎、牧澤義夫の両少佐に、台湾の進歩的知識人の辜振甫、許丙、林熊祥その他の台湾人有力者であった。
『米国の台湾政策 』田中直吉・戴天昭共著 鹿島研究所出版会 昭和43年
---一九四五年一〇月一三日、国民政府は「処理漢奸案件条例」を公表した。これは中国人の戦争協力を処罰する法令であった。この法令に基づいて台湾警備総司令官は一九四六年一月、漢奸の調査を始めた。そして、同年二月二一日、日本植民地統治の台湾人協力者である許丙、辜振甫、林熊祥、簡朗山、徐坤泉、林熊微が逮捕された(翌日釈放)。逮捕の理由は一九四五年八月一九-二二日の間、台湾の祖国復帰の阻止を意図して日本の軍人と共謀して台湾独立を企てたことであった。終戦直後のいわゆる「台湾独立事件」である。さらに、その漢奸調査によって100名余りの台湾土着資産家が陳義政府の逮捕リストに載せられたと伝えられたが、台湾出身の観察委員である丘念台の勧告で逮捕には至らなかった。(略)一方、「台湾独立事件」のように、「漢奸」という罪に問われた台湾人の逮捕者も出たが、一九四五年以前は「日本人」とみなされていた台湾人に対して「漢奸」という罪状を負わせるのは困難だった。「漢奸」として検挙された台湾人は、結局戦犯として有罪判決を受けたのであった。
『二・二八事件―「台湾人」形成のエスノポリティクス』何 義麟 東京大学出版会 平成15年
二~三の文献も参照してこれを総合してみるとおおよそ次のようになる。
昭和20年8月15日の日本敗戦と同時に台湾の日本人・台湾人が抱いた台湾の前途への不安。ごく少数の知識人は重慶からの外電を通じて日本の敗戦が「台湾の中国(中華民国)復帰」を意味することを理解していたが、一般の軍民の多くはその後の台湾がどのような状況を辿るかを知る由もなかった。そうしたなか、日本降伏が「台湾の放棄」と同時に「台湾のその後の地位が未定」になることを察知、終戦後に起こりうる権力の空白状態を好機ととらえて台湾独立、もしくは台湾自治を画策させようとする台湾人有識者30余名と(一説によると)一部少壮の日本軍人による動きがあった。そのうち最も顕著な行動が「台湾治安維持事件」ということになる。
日本側からは第十方面軍参謀 中宮悟郎少佐と牧澤義夫少佐がその中心となり『台湾自治法案』を定め,その際に40万在台日本軍と台湾人有力者が連携して中国国民党や米国による台湾接収に抵抗しようとした、とされるのだが当の中宮・牧澤両氏は軍人主導であることを否定しておりこの事件全体には不明な点が多い。
以下が「台湾治安維持会(台湾自治委員会)」を構成する予定であったとされる主要メンバー。
辜振甫は台湾人で最初に貴族院議員となった辜顕栄の子息で辜振甫の異母弟が台湾独立運動家の辜寛敏、その子の辜朝明(Richard C. Koo)は著名なエコノミスト。台湾治安維持会にはこのように日本の台湾統治に協力を行った台湾人有力者らが参加する予定であった。
安藤利吉 台湾総督兼
第十方面軍司令官(1884 – 1946) 台湾軍参謀長 諌山春樹陸軍中将(1894 – 1990)

8月22日、辜振甫・簡朗山(貴族院議員)・林呈禄(弁護士)・杜聡明(台北帝国大学教授)達が安藤利吉総督・諌山春樹参謀長を訪問。台湾独立への援助(具体的には日本軍の武器を独立派へ引き渡すこと意味していた)を要請するが、安藤総督は「天皇陛下の御心に背く事」になるとして反対を表明する。
台湾会編集の『あゝ台灣軍』にはその時の安藤総督の言葉と説明が収録されている。
―――「独立しようとする皆さんの衷情はよくわかる。然し世界の大勢を見て、君達の為にもこの運動を中止することをお奨め致したい。然しどうしても尚やりたいと言うならお止め致しません。それはご自由です。然し我々はこれを放任は出来ません。断乎として日本軍が討伐致します 」
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8月24日、辜振甫らは計画が困難であることから、許丙の自宅で「台湾治安維持会」樹立断念を決定。ここに戦後最初の台湾独立計画は挫折する。その一週間後の31日、諌山春樹参謀長に従い林献堂、辜振甫、許丙らは上海を経て南京に入っている。これは台湾省行政長官公署長官に就任する陳儀「歓迎」のためとされている。
翌1946年1月、中国国民党政権下の「漢奸総検挙規程」に基づき台湾全土で行われた「漢奸容疑」で関係者が総検挙。同年6月辜振甫・林熊祥・許丙などが「臺籍戦犯」として起訴される。翌月27日に台北市で発生した騒擾をきっかけとして中国国民党による虐殺事件(2.28事件)が発生、多くの旧日本軍籍の台湾人が中国国民党軍に対し決起、抵抗活動を行った。当時まだ日本国籍を有している台湾人のなかには、祖国(日本)の救援を信じていた者も多くいたという。
後日中華民国政府は彼ら台湾人参加者を逮捕した後、1947年(昭和22)7月9日、中国国民党政権下の台湾省軍事法廷は台湾独立計画の首謀者とされた次の人物に対して以下の判決を言い渡している。
許丙 (懲役1年10ヶ月)
林熊祥(懲役1年10ヶ月)
残りの被告、全員無罪。
一種のクーデター計画であるという事件の性格と中国式裁判とを顧慮すると異例の軽い判決であったように思える。また辜振甫は1年7ヶ月で釈放されている。
最後の台湾総督・安藤利吉は在台邦人の日本引揚げ等に尽力したが、1946年(昭和21年)4月13日に中華民国により戦犯として逮捕。上海に抑留されたが同月19日に自決。その約一ヶ月後の5月30日、勅令により台湾総督府は廃止。半世紀にわたる日本による台湾統治の歴史は正式に終止した。
【一周年】「日本唱歌を歌う日の丸行進」 第十一回 日の丸行進の会
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【H24/6/17】「日本唱歌を歌う日の丸行進」 第十一回 日の丸行進の会(1)
【H24/6/17】「日本唱歌を歌う日の丸行進」 第十一回 日の丸行進の会(2)
【H24/6/17】「日本唱歌を歌う日の丸行進」 第十一回 日の丸行進の会(3)
【H24/6/17】「日本唱歌を歌う日の丸行進」 第十一回 日の丸行進の会(4)
【H24/6/17】「日本唱歌を歌う日の丸行進」 第十一回 日の丸行進の会(5)
【H24/6/17】「日本唱歌を歌う日の丸行進」 第十一回 日の丸行進の会(6)
【H24/6/17】「日本唱歌を歌う日の丸行進」 第十一回 日の丸行進の会(7)
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【6/17(日)大阪市内の天気】
13時・・・26℃ 湿度62% 曇
15時・・・27℃ 湿度58% 晴
JR難波駅から今回の集合場所である靭公園までなにわ筋を歩く。距離にして約2km
大阪市内中心部を歩いて観察すると気付くのが、緑地の余りに少ないこと。少ないというよりは、むしろ皆無に等しいと言い切るのが正確に思えてくるが、荒涼たる大阪中心部のオアシスともいえるのがこの靭公園。東西800m×南北150m 東西に長い形をしている。大阪市中心部の灰色の都市図を眺めているといかに靭公園が貴重な空間であるかがよく判る。
なおこの2kmの道のりを観察しながら靭公園に至るも、最後まで日本国国旗が掲揚されている風景をみることは出来なかった。それは翻って考えるとその様子に疑問を持つひとも少ないということになる。しかしそこに違和感を抱いていた感性の持ち主ら総勢八十余名(参加者の年齢は11歳~90歳!)が、石黒大圓さん主催の「日の丸行進」に与同したのだ。この「日本唱歌を歌う日の丸行進」は今回で十一回目、この1年間継続されてきた。
ところで私は集会前のひと時、大塩平八郎最期の地を訪れた。集会場所の靭公園(東園)の南側すぐの場所が、江戸幕府体制下の大坂で決起した大塩平八郎の最期の地なのだ。天理教 飾大分教会(テンリキョウ シキダイブンキョウカイ)前に立派な追悼碑が設けられている。
元与力(幕臣)であった大塩平八郎が決起したのは天保8年(1837)、蜂起した大塩勢鎮圧のため出兵した大坂東町奉行・跡部良弼(アトベ ヨシスケ)は明治元年(1869)まで生存。大塩事件は僅か175年前の出来事にすぎない。
【「救民」の志】 大塩平八郎 終焉の地~靭公園 東園南側
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古来日本には「出る杭は打たれる」ということわざがある。だがこの警告にもかかわらず、現実社会のあり方に順応することを敢然と拒否する資質こそ、英雄を英雄たらしめる素地なのである。大塩平八郎は、安定した、武士としての与力としての前途洋々たる生涯を捨て、書斎の平静な学究生活から離れ、異端異説とみなされる哲学を信奉して、外界の混沌たる社会に身を投じた。その社会で、ドン・キホーテさながらに体制を相手に粛清改革の幻想を抱いて行動を起こした。挑み得ぬものに対して彼は挑みかかったのである。その運動に自分自身の一切を投じたにもかかわらず、大塩は現実社会に何ひとつ積極的貢献をするでもなく、具体的な業績も残さなかった。彼の短い生涯は、「地上に生き斃れた英雄の身体の上に誇らしげに飛翔する理想主義の魂」を例証するものである。
『高貴なる敗北』A・モリス
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上のふたつの地図は時代は異なるものの、現在の靭公園(東園)の南側同位置をえがいたものであり「大塩平八郎 終焉の地」碑脇に掲示されていたものである。
両方を素直に比較し読図してみると、四つ橋筋=西横堀(川)、本町通=阿波座堀、市立靭幼稚園東側=永代浜(船着場の名称)、靭公園南側道路付近=京町堀(川)となる。いまはその痕跡や記憶は消えてしまったが靭公園周辺だけではなく大坂の町はかつて運河で囲まれた水の都であったのだ。
また日の丸行進が靭公園を出発する際に使用したゲート(http://goo.gl/maps/SqEA)の一つ西側の「出入口7(http://goo.gl/maps/hDoF)」付近は、京町堀川に南北に架かっていた「紀国橋(紀伊国橋=キノクニバシ)」があった場所のように思える。
なお四つ橋筋と本町通が交差する信濃橋交差点(http://goo.gl/maps/YSd9)だが、ここには西横堀川に架かる「信濃橋」があり、西横堀橋が埋め立てられた昭和40年代までその姿が存在していたとのこと。
大阪市HP「信濃橋」
http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000030550.html
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【一色正春・藤井聡・谷田川惣】講演&シンポジウム「日本を守りたい 日本人の反撃」
これは6月10日(日)に京都讀書會と頑張れ日本!全国行動委員会京都府本部共催による「日本を守りたい 日本人の反撃」講演&シンポジウムの記録、その全動画である。今年四月出版された田母神俊雄氏と一色正春氏による書の題名がこの『日本を守りたい 日本人の反撃』である(*1)。なお会場の音響設備の不具合により動画の一部に音声が聞き取り辛い部分があります。
発言者の一色正春、藤井聡、谷田川惣各氏からは幾つかの示唆を得る事が出来ましたが、特に藤井聡先生が言及された米国の心理学者ローレンス・コールバーグ(Lawrence Kohlberg)の名を知った事は収穫であった。
一色氏による、いわゆる「尖閣諸島中国漁船衝突映像流出事件」。「組織に属するものとして(映像の流出を行う事は)有ってはならない、失格である」と当時、私の周辺にも存在した「したり顔で語る利口者」達への違和感の意味が朧げながら掴めたからである。
一色正春氏はコールバーグ(*2)が説くところの脱慣習的段階(動画中での藤井聡先生の表現「レベル3」)での「道徳的な選択」を行った“だけ”なのだという。
動画中の吉田松陰の句を引用した
かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂
己の信念を欺く事を良しとしない態度、危機に際して捨石となる事を引き受ける人物、その出現を予想するかのような歌に思えてならない。
(*1)『日本を守りたい 日本人の反撃』産経新聞出版
http://www.sankei-books.co.jp/m2_books/2012/9784819111553.html
(*2)L・コールバーグ氏は1987年の一月、自裁している。享年59歳
▼講演&シンポジウム『日本を守りたい 日本人の反撃』
我が国を襲う自然災害から、
我が国を狙う外敵から、
我が国を売り渡したい内敵から、
如何にして我が国を守るか?
【登壇者(敬称略)】
藤井 聡(京都大学大学院教授)
谷田川 惣(評論家)
一色正春(元海上保安官)
【日時】
平成24年6月10日(日)14:00~17:15
【会場】
キャンパスプラザ京都 5階 第1講義室
(JR京都駅ビル西側のビックカメラ前)
【日程】
13:30 開場
14:00 開会
[第一部]14:00~15:20
[第二部]15:35~17:10
17:15 終了
【主催】
京都讀書會(京都読書会)
頑張れ日本!全国行動委員会 京都府本部
頑張れ日本!全国行動委員会 京都府本部HP
http://www.ganbare-jp.info/index.html
【一色正春・藤井聡・谷田川惣】講演&シンポジウム「日本を守りたい 日本人の反撃」(1)
【一色正春・藤井聡・谷田川惣】講演&シンポジウム「日本を守りたい 日本人の反撃」(2)
【一色正春・藤井聡・谷田川惣】講演&シンポジウム「日本を守りたい 日本人の反撃」(3)
一色正春氏
「(小国)フィリピンは、(大国である中国の覇権主義に対して実に)頑張っている」
「日本人の中に、中国に阿る様な事を言って足を引っ張るようなのが政財官界至る処にいる」
【一色正春・藤井聡・谷田川惣】講演&シンポジウム「日本を守りたい 日本人の反撃」(4)
【一色正春・藤井聡・谷田川惣】講演&シンポジウム「日本を守りたい 日本人の反撃」(5)
【一色正春・藤井聡・谷田川惣】講演&シンポジウム「日本を守りたい 日本人の反撃」(6)
【一色正春・藤井聡・谷田川惣】講演&シンポジウム「日本を守りたい 日本人の反撃」(7)
【一色正春・藤井聡・谷田川惣】講演&シンポジウム「日本を守りたい 日本人の反撃」(8)
【7/15(日)】「南モンゴルの歴史と弾圧の実態」
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6/10(日)に開催された 講演「日本を守りたい 日本人の反撃」で頂いたチラシです。モンゴル自由連盟党のオルホノド・ダイチン氏が出席されるそうです。
↓PDFファイルはこちら
中国に侵略された南モンゴルの真実
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【関連】
5/12(Sat.)南モンゴル人(Southern Mongolian)による大阪・中国総領事館前抗議活動
http://ilha-formosa.org/?p=17051
【緊急告知】5/12(土)大阪・中国総領事館前抗議活動のお知らせ【参加を!】
http://ilha-formosa.org/?p=16969
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奉悼 寬仁親王殿下
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寬仁親王殿下薨去の悲報を拝しまして謹んで奉悼の誠を捧げます
畏れ多くも、寬仁親王殿下におかせられましては、本日6月6日午後3時35分、東京 千代田区の杏雲堂病院において、薨去遊ばされました。御年六十六歳であられました。
ここに生前の御遺徳をお偲び申し上げ、謹んで哀悼の意を表させて頂きます。台灣建國應援團
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【告知協力】「頑張れ日本!京都府本部」「日の丸行進の会」「瀬戸内しおかぜの会」
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先日の『6月3日 護れ尖閣!石原都知事を支持する国民大行進 in大阪』の集会の場で頂戴した告知ビラをそのまま掲載します。
「京都讀書會(京都読書会)」と「頑張れ日本!全国行動委員会 京都府本部」共催による講演&シンポジウムですが、藤井聡京都大学大学院教授と『皇統は万世一系である』『皇統断絶計画-女性宮家創設の真実』の著者である谷田川 惣氏、そしてこのビラには交渉中とありますが、当時大きなニュースとなったある事件の当事者の方も出席なさるようです。
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つぎに第十一回目となる 日の丸行進の会による案内。御注意頂きたいのは集合場所は通常の新町北公園ではなく、靭公園である事。御参加される方は御注意ください。日の丸行進の会はこの度の 『護れ尖閣!石原都知事を支持する国民大行進 in大阪』の協賛団体でもありました。__________________________________________________________________________
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同じく『護れ尖閣!石原都知事を支持する国民大行進 in大阪』の協賛団体「瀬戸内しおかぜの会」。代表の藤井さんはしばしば関西に来られる行動家。今回も仲間の岡山県人を引き連れ大阪まで遠征してくださりました。「ちばけな」とは岡山の方言で「ふざけるな」を意味するそうです。
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6月10日のデモを中止します
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【岡山】6月10日ちばけな民主党!人権救済機関設置法案粉砕デモ【告知】
【記録】『6月3日 護れ尖閣!石原都知事を支持する国民大行進 in 大阪』
【本日の大阪市内の天気】 曇、気温↑26.4度/↓20.0度、湿度47%
靭公園は東西800m×南北150m、東西に細長い形をしている。
西端はあみだ池筋、東端は四ツ橋筋、その中央はなにわ筋によって「東園」と「西園」とに分けられている。なお靭公園を東西に分断しているなにわ筋は戦後になって新設されたものらしく、昭和20年3月13日深夜からの大阪大空襲により焼け野原となった地域を利用して終戦までの数カ月間、現在の靭公園に該当する地帯は軍用飛行場として使用されていたそうです。終戦後も米軍により接収されてしばらく米軍の専用飛行場として使用されていたとのこと。
『角川日本地名大辞典27 大阪府』(昭和58年刊)の「靭公園〈西区〉」の項には「大阪市西区靭本町1~2丁目にある市営の都市基幹公園。面積9.7ha。昭和30年開設。いわゆる西船場(下船場)に戦災復興の過程で都心の公園として開かれたもので、バラ園、ケヤキ並木の遊歩道、テニスコート・サッカー場などの運動施設を備え、都心に働くビジネスマンの憩いの場とである。東端に科学技術センターがあり、西部に永代浜跡の碑がある。当地は江戸期に塩魚・干魚・肥料用干鰯を扱う問屋が集存した」とある。永代浜(永代濱)とは大阪湾から現在の靭本町に至る海部堀川という河川の船着場の浜を指し干鰯の荷揚げ場や市場が設けられ大いに賑わっていたそうです。しかし昭和26年(1951)に海部堀川は埋め立てられ、永代浜もまたその姿を消した。
大阪市HP「靱公園の歴史」
http://www.city.osaka.lg.jp/yutoritomidori/page/0000093236.html
には飛行場や建設中の靭公園の様子等の貴重な写真が掲載されており興味深い。
また靭公園 東園の南側すぐの場所が大塩平八郎が自刃した美吉屋五郎兵衛宅跡。意外と御存知でない方が多いようですが、現在の大阪市西区靱本町1丁目18番21号~22号 が美吉屋五郎兵衛宅に該当します。さらに南側の本町通りに面する「靱本町1丁目18番12号」の天理教飾大分教会前には大塩事件研究会の建立した「大塩平八郎終焉の地」碑があります。御関心のある方は、平成23年10月2日条「知行合一」を御覧下さい。
○「知行合一」http://ilha-formosa.org/?p=13250
なお靭公園 西園から新なにわ筋に向かい徒歩すぐのところに中華人民共和国駐大阪総領事館(駐大阪中国領事館)が所在している為、中国に対する抗議活動が行われる際には靭公園が集会場所などに利用されている。
下の写真は23年前の今日、世界を震撼させた天安門事件(1989年6月4日)での犠牲者追悼を靭公園で催す中国人留学生達。同日東京では2,200人の中国人留学生による抗議デモが行われている。東欧、ソ連邦の民主化が中国共産党一党独裁政権にまで波及するとも思われた「北京の春」は中国人民解放軍による自国民に対する武力行使の前に挫折したのである。
《周辺地図》 http://goo.gl/maps/IWAL
《6月3日 護れ尖閣!石原都知事を支持する国民大行進 in 大阪》
【概要】平成24年6月3日(日)12時集合 12時55分出発
【集合場所】大阪市西区 靭公園東園 http://g.co/maps/49p4z
【解散場所】大阪市浪速区 元町中公園
【主催】教科書が教えないこと http://kyokasho.info/
【共催】日本シルクロード科学倶楽部・関西
【協賛】
愛国 矜持会/sns-Freejapan大阪府連合会/ 国を支える保守の会・大阪(国支会)/救う会・奈良/瀬戸内しおかぜの会/台灣建國應援團/竹島を奪還する会・関西/日本の誇りを取り戻す全国協議会(日誇会)/日の丸行進の会/大倭の会
この度の『護れ尖閣!石原都知事を支持する国民大行進 in 大阪』では尖閣諸島購入資金の為の寄附金が40,370円集まり、5月5日に同じく北村義臣君が主催した第一弾のデモでの90,961円を合算すると131,331円が集まりました。これらはすべて、みずほ銀行 東京都庁出張所(店番号777) 口座名「東京都尖閣諸島寄附金」に振り込まれたとの報告が有りました。なお前回の参加者数は140名程、今回は120名程との主催者談。
http://kyokasho.info/info/20120507.html
http://kyokasho.info/info/20120604.html
【記録】『護れ尖閣!石原都知事を支持する国民大行進 in 大阪(1)』
【記録】『護れ尖閣!石原都知事を支持する国民大行進 in 大阪(2)』
【記録】『護れ尖閣!石原都知事を支持する国民大行進 in 大阪(3)』
【記録】『護れ尖閣!石原都知事を支持する国民大行進 in 大阪(4)』
【記録】『護れ尖閣!石原都知事を支持する国民大行進 in 大阪(5)』
【記録】『護れ尖閣!石原都知事を支持する国民大行進 in 大阪(6)』
【記録】『護れ尖閣!石原都知事を支持する国民大行進 in 大阪(7)』
【記録】『護れ尖閣!石原都知事を支持する国民大行進 in 大阪(8)』
【記録】『護れ尖閣!石原都知事を支持する国民大行進 in 大阪(9)』
【記録】『護れ尖閣!石原都知事を支持する国民大行進 in 大阪(10)』
『Senkaku Takeshima Northern Territories is Japanese Territory!
We will not allow communist CHINA,RUSSIA,KOREA to invade our territory.』とある。

【拡散協力】対日工作機関「中国大使館」施設の驚くべき実態動画
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上薗益雄(カミゾノ マスオ)氏(「頑張れ日本!全国行動委員会」実行委員)がこのほど、都内の中国大使館とその領事部(同)、商務処、別館、第二別館候補地(同)、教育処、教育処別館などの施設を回り、それぞれの対日工作上の機能について解説を行い、それをビデオカメラに収め、youtube動画にして公開した。
氏はこれまで、公安調査庁、警視庁、防衛省、国会議員、区議、ジャーナリストに訴えても誰も取り上げてくれませんでした。田母神氏と元海保の一色正春氏の対談の本(*1)を読み、誰もやってくれないのであれば、彼等のように、自分がやるしか日本を救う道な無くなってしまうのであれば、如何なる事になろうとも自分がやろうと決意したと語る。
インターネットも出来ない、文章も書く事が苦手な自分の出来る事は映像を撮って貰い、全国の有志に見て貰い、気付いて貰う事以外にないと決断したと。
現在、中国は日本各地で「巨大領事館」網の建設を進行中です。 上薗益雄氏が都内に存在する7ヶ所の施設の現場から、 深く静かに潜行する中国による日本侵略の「超限戦」の危険について警鐘を鳴らします。 巨大総領事館計画が進行中の新潟、名古屋、仙台、大阪、広島、福岡の市民の皆さんには是非見て頂きたいと思います。これらの動画の拡散を希望されているとの事。
(*1)
『日本を守りたい日本人の反撃』田母神俊雄・一色正春 共著 産経新聞出版(平成24年4月刊)
http://www.sankei-books.co.jp/m2_books/2012/9784819111553.html
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【上薗益雄の警鐘 :1~9】
1 中国大使館「領事館業務」は建坪150平米で東日本は十分
2 超限戦の元締め中国大使館は日本総督府になるのか?
この東京の領事館で、北海道から名古屋までカバーしている、新潟の様な田舎でこの100倍もの広さの領事館を作る意図な何か? 北朝鮮の羅津(ラシン)港を中国は整備し直している。人民解放軍がそこから新潟に向かえば最短距離で日本上陸が可能となる。
3 中国大使館経済商務参賛処は売国商人達の密会所か?
4 中国大使館別館・第二別館予定地への道を歩いてみよう
5 中国大使館第二別館予定地は大使公邸用ではあり得ず
5,679平米の土地 KKR(国会公務員等共済組合連合会)が売却した
昭和59年KKRが取得し、平成23年に中国に売却
大使の公邸とすると言っているが人民解放軍に対日工作部の機関の拠点にするのではないか?
セキュリティ面からも大使公邸は大使館の中に造るのが常識「そんな事はあり得ない」と断言する上薗氏。日本の大学院を卒業した人民開放軍から送り込まれた学生は、申請すれば3箇月で日本国籍を取得することが出来るようになっています。
6 知られざる中国大使館教育処(江東区)とは?
江東区門前仲町にある中国の教育処。麻布の中国大使館から直線で8km、誰を教育する処なのか?スパイ要請施設ではないのか?麻布の領事館は150平米ほど、この領事館で日本の東日本をカバーしている。新潟に建設される中国領事館は、15,000平米(領事館・教育処・人民解放軍対日工作部・パーテイー会場が出来るだろう)
7 中国大使館教育処-2 ここを発見したのは神の計らい?
8 中国大使館教育処-3新潟市民の皆さん知って下さい!
都内に7箇所以上の中国の施設が建設済み。3年前に中国核実験シンポジウムを開催すると妨害するものがあった。その人を実名で公表すると名誉毀損で訴えられその後3年に渡って警察(警視庁・東京地検)から調べられ罰金刑30万円の処罰を受けた。
中国が計画している日本国内100万人の在日中国人の工作員確認作業を行なうためには、この施設だけではとても足りない。日本全国に最低でも10ヶ所位は必要と考えている。それが新潟・名古屋・仙台などの巨大領事館計画の本当の狙いだと思われる。まさに日本侵略という超限戦の根幹となるインフラといえる。
9 中国大使館教育処別館 大使より格上の人が居るかも?
上薗氏が(身の危険をも顧みず)紹介した都内の中国大使館関連施設7カ所の最後の視察地「教育処別館」。公安調査庁、警察、防衛省、国会議員、区議、ジャーナリストに訴えても誰も取り上げてくれませんでした。新潟・仙台・東京・名古屋・大阪・広島・福岡、そして沖縄の皆さん、草莽崛起!
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《チャンネル桜によるダイジェスト版》
【上薗益雄】民間防衛、東京都内の中国大使館関連施設の確認[桜H24/5/31]














