Archive for the ‘未分類’ Category

【記録保存】国民党、歴史的大敗/「九合一選挙(統一地方選挙)

2014-12-01
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平成26(2014)年11月30日(日)産経新聞 東京版
Taiwanese election.


【九合一選挙】
九種の地方選挙を同日に行うことから「九合一選挙」と呼称される。
直轄市長(6名)、直轄市議員(375名)、県市長(16名)、県市議員(532名)、郷鎮市長(198名)、郷鎮市民代表(2,096名)、村里長(7,851名)、山地原住民区長(6名)、山地原住民区民代表(50名)、計11,130名を選出する台湾史上最大の選挙となった。直轄六市(台北、新北、桃園、台中、台南、高雄)市長選で国民党が議席獲得出来たのは新北市のみ、かつ辛勝であった。

◇自由時報で選挙結果が確認出来る→http://election.ltn.com.tw/2014/
◇2010年、五都市選挙の記録は→http://ilha-formosa.org/?p=3764

Taiwan


天皇皇后両陛下 奈良県行幸啓~於 橿原市【平成26(2014)/11/15(土)】

2014-11-15
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天皇皇后両陛下は『第34回 全国豊かな海づくり大会』御臨席の為、15日奈良県に行幸啓(詳細:奈良県報道資料)されました。

天皇皇后両陛下
天皇皇后両陛下 於近畿日本鉄道 橿原神宮前駅中央口ロータリー/14:05

午後2時過ぎ、近鉄橿原神宮前駅にて奉迎、また夕方には、行在所(御泊り所・橿原ロイヤルホテル)の正面近くにあたる近鉄橿原神宮前駅・中央口ロータリーにおいて、日本会議奈良が中心となった奉迎実行委員会主催による提灯奉迎が行われ、三千名以上の国民(準備されていた提灯三千個が不足していたとのこと)が感謝の誠を両陛下にお伝え致しました。以下は、天皇皇后両陛下の御様子、提灯行列等を記録した動画です。

【平成26/11/15(Sat.)】天皇皇后両陛下 奈良県行幸啓 【近鉄橿原神宮前駅】
東京駅→京都駅御着→近鉄京都駅御発 近鉄お召列車→近鉄橿原神宮前駅御着、この後奈良県立万葉文化館へ。


橿原神宮に隣接する深田池は、『日本書記』推古天皇紀二十一年(613)十一月條に「作二掖上池、畝傍池、和珥池」と記録されており、深田池はこの畝傍池の名残ではないかとされている。なお日本最古のダム式溜池として古墳時代前­期造築とされる狭山池(大阪狭山市)の存在が知られているが、狭山池畔の段丘に見られる須恵器生産の­窯跡の存在から、六世紀頃の造築とする説もあるとのこと(『角川日本地名辞典 27 大阪府』 昭和58年)。いずれにせよ深田池=畝傍池であれば我が国最古の人工池のひとつということになるであろう。

【深田池周辺地図】http://goo.gl/niHQ5G

橿原神宮 深田池。後方の山嶺は金剛山、大和葛城山である。


【平成26/11/15(Sat.)】 天皇皇后両陛下 奈良県行幸啓【橿原ロイヤルホテル前】
奈良県立万葉文化館→県勢概要御聴取→紀伊半島大水害被災者との御懇談→
お泊所御着(橿原ロイヤルホテル)
.

【平成26(2014)/11/15(Sat.)】 天皇皇后両陛下 奈良県行幸啓【提灯行列出発】

【平成26/11/15(Sat.)】 天皇皇后両陛下 奈良県行幸啓【提灯行列】

【平成26/11/15(Sat.)】 天皇皇后両陛下 奈良県行幸啓【提灯奉迎】


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日の丸小旗、奉迎提灯の配布、横断幕の準備や警備、行列の誘導等々、
主催者及びボランティアの皆様方に感謝申上げます。


 

【転載/協力を】「台湾の声」国民に中国の虚構宣伝を押付ける昭文社に抗議を!

2014-11-14
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国民に中国の虚構宣伝を押し付ける昭文社に抗議しよう!
台湾を中国領土と表記する全地図商品の販売停止を求めよう!

■ 昭文社 03-5953-9211/広報担当 03-3556-8271
メール https://www.mapple.co.jp/mapple/contact/customer/pub_guide/form.html


ブログ「台湾は日本の生命線」より。
http://mamoretaiwan.blog100.fc2.com/blog-entry-2457.html
地図大手「昭文社」に抗議を!日本政府見解をも改竄する中国の宣伝に加担する卑劣商品を許すな!(附:昭文社への取材映像)

2014/11/13/Thu

■地図大手による「偽装」地図を許していいのか

不当に利益を上げようと改竄した商品情報を表示する食品偽装事件が大きな問題となるのは、消費者の健康を損ねる恐れがあるからだが、それでは地理の改竄した地理情報を表示する地図商品は問題にしなくていいのだろうか。

地図・旅行ガイド大手の昭文社が発行する『グローバルマップル世界&日本地図帳』のことである。そこには台湾が中国領土として表示されている。

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昭文社の広報担当者によれば、同社は台湾を中国領と考えていないそうだ。したがってこの情報改竄は故意によるものなのだ。大胆にもこうした中国の虚構宣伝を取り入れることで、いったいいかなる利益があるというのか。

読者に誤った情報を与えるとともに、外国(中国)の捏造宣伝に加担し、そして外国(台湾)への日本の信用を損ねかねないという意味では、朝日新聞社による慰安婦を巡る捏造報道に通じるものがある。朝日は社会の制裁を受けているが、昭文社の行為はほとんど問題になされていない。

■「日本政府の公式見解に基づいている」と説明するが

『グローバルマップル世界&日本地図帳』の情報捏造が明るみになった発端は、今年の夏に来日し、それを購入した台湾人、許陽庭さんによる同社への抗議だった。

それを受けて私自身も同書の内容を調べたところ、たしかに以下の情報捏造が見られた。

1、地図で台湾を中国とを同一色で表示し、台湾を中国の領土の一部としている。

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2、地図で台湾と中国との間に国境線を引かず、台湾を「中国」のエリアに組み込んでいる。

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3、地図で台湾に首都を示す赤丸がなく、中国の一都市とされている。

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4、地図で「台湾」を「香港」「澳門」と同色、同字体で表示し、台湾を香港、澳門(マカオ)と同様、中国の特別行政区として表示している。

5、各国要覧の中国の項目での人口、面積の数値に「香港、マカオを含む。台湾を含まない」と注釈している。つまり台湾を中国領土としている。

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さて、こうした誤りを指摘した許陽庭さんの抗議に対し、昭文社は次のように解答し、情報捏造を正当化した。

「弊社の商品および『GLOBAL MAPPLE 世界&日本』は、全て日本政府の公式見解に基づいて作成しております。何卒ご理解いただきたく存じます」

これを読めば明らかなように、昭文社は『グローバルマップル世界&日本地図帳』だけでなく、他の商品でも台湾を中国領土として表記しているというわけだ。しかしそうすることは本当に「日本政府の公式見解」と符合しているのか。

■外務省への問い合わせで明らかになった「嘘」

私が外務省の中国モンゴル課に確認したところ、台湾の帰属先に関する政府の立場は「独自に認定する立場にない」というものだ。つまり政府には勝手に台湾を中国領土であると認定する権限はないという意味だ。

これに対して昭文社の商品は台湾を中国領土と「独自認定」しているわけだから、同課は「政府見解とは違う」と明言する。

昭文社の嘘はこれで明らかになったといえる。

そこで私は電話でそのことを昭文社の広報担当者に伝えた。

それを受け同社も外務省(中国モンゴル課らしい)に問い合わせを行った。そしてその結果として私に伝えてきたのは「外務省から問題ないと言われた」だった。

「問題ない」とはどういうことか。政府見解に基づいているという意味で「問題ない」と言われたのだろうか。私が再度中国モンゴル課に電話を入れると、「そういう意味では言っていないはず」との説明だった。

■インチキ商品の正当化のため政府見解まで改竄

その後、この問題に関心を持ったJさんが中国モンゴル課に問い合わせた時も、「もし昭文社から問い合わせがあれば、政府見解とは違うと答える」と言っていたそうだ。

つまり「問題ない」とは「政府見解に基づいているから問題ない」という意味ではないらしい。

そこで私は昭文社に「問題ない」の意味を質問したのだが、昭文社はこれに対して「すでに回答した通りだ」の一点張りで、一切答えようとしない。

Jさんも同じ質問をしたそうだが、やはり「外務省から問題ないと言われた」との一点張りで、会話にならなかったという。

要するに嘘の上塗りをしているのだろう。そうでなければ回答拒否などするはずがない。

こうした行為は「政府見解」の改竄であって、断じて許されるものではない。

■「永山の電話は取り次ぐな」との社内通達

十一月十三日、昭文社に電話をかけた。広報担当者に「外務省から問題ないと言われた」ということの真偽を糾すためだ。しかし電話は取り次いでもらえなかった。

何でも「永山さんからの電話は取り次ぐなと社内で通達が出ているから」とのことである。

つまり商品批判の電話は受け付けるなという姿勢だ。厳しい緘口令が敷かれている模様。

「弊社の商品は全て日本政府の公式見解に基づいて作成しております」などと公然と言い放ってきた昭文社。実際には「日本政府の見解」ではなく「中国政府のプロパガンダ」に基づき、台湾侵略正当化のための商品を生産し、国民に売り付けているのである。

たとえ誤りを指摘されても、耳を塞いで無視をする不誠実さ、傲慢さ。これが中国迎合企業の腐敗堕落の実態なのだ。


昭文社問題を詳報する「台湾チャンネル」の番組動画

【台湾チャンネル】第55回、中国迎合の地図大手「昭文社」に直撃!/その他 [桜H26/11/7]
http://youtu.be/aTciFdPtg1o

・昭文社への電話取材映像(20:07~25:00)で同社の卑劣な姿勢が明らかになるはずだ。
・「この画像/動画は不適切な内容を含んでいる可能性があります」と表示されることもあるが、それは違う。昭文社の誣告があったか。


【過去の関連記事】
台湾人が「昭文社」に怒りの抗議文!/台湾を中国特別行政区とする『グローバルマップル世界&日本地図帳』の捏造を衝く 14/10/04
http://mamoretaiwan.blog100.fc2.com/blog-entry-2435.html
.
「地図の昭文社」の台湾侮辱商品―外務省は「政府見解と違う」 14/10/17
http://mamoretaiwan.blog100.fc2.com/blog-entry-2443.html


 

【奉祝 明治節】参拝 吉野神宮

2014-11-05
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戦前まで明治節とされていた文化の日、吉野を散策しました。京都でも、奈良でもない、それが吉野。この三都市に共通するのはかつて王都であったということ。観桜の季節には多くの観光客が殺到する、この日訪れた吉野神宮、後醍醐天皇陵は観光ルートからも外れており、いつもの様に静寂に包まれていました。気温は12~3度と程良い気候。

吉野神宮は明治二十二年(1889)創立、鎮座祭には明治天皇勅使が御奉納され、現在の社殿が完成したのは昭和七年(1932)のこと。また昭和14年には後醍醐天皇六百年・吉野神宮創立五十年式年祭が斎行されている。

【明治節】吉野神宮(旧社格 官幣大社)/御祭神 後醍醐天皇

「玉骨ハタトヒ南山ノ苔ニ埋ルトモ 魂魄ハ常ニ北闕ノ天ヲ望マント思フ」、これは『太平記』(巻二十一)」に記録された後醍醐天皇の遺言とされる。「闕(ケツ)」とは宮城を指し「北闕」は南の王都である吉野から京都を望んだ表現。この言葉通り、吉野・如意輪寺の東側に位置する後醍醐天皇塔尾陵(トウノオノ ミササギ)は北面を向いている。なお京では吉野を指して「南山」と呼称されることが多かった様である。

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後醍醐天皇陵に向かう石階段の右側(如意輪寺裏手にあたる)横には世泰親王墓が所在している。「世泰」はトキヤスと読むが、ヨヤス、またはセタイと読む場合もあるようである。かつてモリナガ親王とするのが定説であった護良親王を、現在ではモリヨシ親王とするのが正しい様に、日本史上の人物には読みが判明しないことはそう珍しいことではない。この世泰親王は、大正15年(1926)に即位が確認されて皇統に加えられた第九十八代長慶天皇(後醍醐天皇孫、後村上天皇皇子)の長子とされるが事績は不明。僅かに『新葉和歌集』巻第十九哀傷哥一三八三詞書に「世泰親王かくれ給〔ひ〕て、如意輪寺にをさめ侍りし云々」とあり、また巻十八雜下哥一二五九の詠み人が「世泰親王家右京太夫」という人物であることが伝わっている(*1)。吉野朝廷において世泰親王家というものが存在していたことになる。

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(写真)世泰親王墓(後醍醐天皇曾孫)

史料の乏しさと、消滅した皇統(大覚寺統)という理由から混乱の多い南朝系図において、世泰親王は『新葉和歌集』によって一応その実在が確認される宮になる。ただ長慶天皇皇子であることも『新葉和歌集』からの推定であり、それ以上の根拠は無い。世泰親王の様に存在の確かな皇族はまだしも、南朝(後醍醐天皇→後村上天皇→長慶天皇→後亀山天皇)には系譜不詳、諱(イミナ)不明の皇族は少なくない。

後醍醐天皇の崩御は、延元四年(1339)であるが、この最後の皇胤(「岡崎前門主王子・小倉宮御息」)の足跡は文明十一年(1479)まで辿る事が出来る。そしてこの人物も系譜等確かなことは不明である。後醍醐天皇の血脈は死後140年間続いている(*2)。なお菅政友『南山皇胤譜』には世泰親王の御名は見受けられないが、これもまた南朝研究の困難と混乱を感じさせるものである。

【H26(2014)/11/3】浄土宗 塔尾山 如意輪寺【奈良県吉野町】

(*1)『新葉和歌集』岩波文庫/平成四年

(*2)大覚寺統の終焉については以下を参照のこと。
「応仁文明の乱における旧南朝皇族の動向」
http://ilha-formosa.org/?p=33267


 

獻給 松井光彥(台灣建國應援團副代表) 的追悼文

2014-10-21
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本稿は9月22日に逝去した松井光彦氏(本会副代表)の追悼文で、『台灣守護周刊』に掲載された文章を転載したものです。翻訳等で御協力頂いた皆様、特に永山英樹台湾研究フォーラム会長、謝恵芝氏、Jimmy Chenに感謝申し上げます。有難う御座いました。

本日は松井さんが旅立った日からひと月です。彼は私達より一足先に旅立ちました。しかし私達の心には松井光彦spiritは今も生きている。今生で彼に出会えた事、つくづく幸運だった。


 

松井光彦さん
獻給 松井光彥(台灣建國應援團副代表) 的追悼文

作者 田邊憲司(日前來台登玉山頂峰高舉台灣獨立標語,遭到馬政府限制來台的日本友人)

生於1957年的松井光彥看起來比歲數年輕很多, 他不僅有年輕人的樣子, 連精神和行動都非常年輕。人們在上了年紀之後, 夢想和理想都會漸行漸遠, 向現實低頭與妥協, 但他不是這樣的人, 他是一位獨立心旺盛, 很有決斷力且實際付出行動的人, 就像有清純精神的年輕人一樣, 痛恨社會的蠻橫、不合理與不公不義。

我和他相遇在2008年3月, 長野縣舉行北京奧運聖火接力的現場, 我們在那裏向中國表達抗議, 他對中共加諸於圖博民族、唯吾爾民族的鎮壓, 感到極端的憤怒。隔年5月, 胡錦濤來到東京日比谷公園時, 我們在抗議行動中再度重逢。

因為我們都居住在關西地區, 之後自然而然就一起參加活動了, 後來知道他和我一樣有很強烈的意志在支持台灣獨立, 我們就在2010年1月組織了台灣建國應援團。

那一年的2月, 應援團首度訪台, 他負責計劃等所有的籌備工作, 他的專注力和事務能力都很高, 更厲害的是他迅速的行動力。

他建議我們在2月27號那天參加「228事件63週年追悼遊行活動」, 我們見到了當時的台灣獨立建國聯盟主席黃昭堂及民進黨黨主席蔡英文等, 隔天還參加了在龍山寺前舉行的「228事件追悼會」。在這場盛大的典禮中, 他受到台灣國運動總會長王獻極的指名, 請他以日本人的立場進行支持台灣獨立的演講, 他演講的特徵不但完全理性, 且是排除情緒化因素的內容, 贏得了在場群眾熱烈的歡聲與掌聲, 也讓我們見識到他卓越的實力。

接著我們到台北車站前去拉著「日本支持台灣獨立建國」的布條時, 有好幾次都受到在台中國人的干擾, 他覺得這樣的畫面很有趣, 用錄影機把過程都記錄了下來。

停留在台灣的期間, 我們一大早就到台北市內閒逛, 他積極的態度好像沒有行動就很痛苦一樣, 他也很喜歡台灣的老街和台灣料理, 心中一籮筐的都是和他在台灣留下的回憶。

松井從關西搬到名古屋之後也專注於音樂活動, 2010年1月總統選舉前, 他作了一首叫『Beautiful Formosa』的歌為台灣加油, 雖然民進黨敗選了, 他還是以很平靜的口吻說:「台灣終究會獨立成功的」、 「很想看到台灣旗飄揚在總統府上空」 對於他這麼快就離開, 我感到無限的悲傷與遺憾, 承繼他支持台灣建國的意志, 接下來就是我的工作了。

註:松井光彥桑於今年九月二十二日,因食道癌病逝,享年57歲。僅以本文分享給台灣國人同志們,讓大家認識這位以自己的生命歲月來為台灣獨立付出的日本台獨先進
.
圖片:松井光彥桑2010/2/28台灣留影
原文網址:http://ilha-formosa.org/?p=33556


 

【転載】特定非営利活動法人・日本ウイグル協会より緊急のお願い「ウイグル難民へのご支援をお願いします」【2014/10/13】

2014-10-14
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日本ウイグル協会会員の皆様、そして、ウイグル問題に関心を持ってくださるすべての方々にお願いがございます。

今年に入ってから、当日本ウイグル協会は、これまでの日本国内の抗議活動や学習会だけではなく、中国政府の弾圧と民族絶滅政策により、第三国に出国せざるを得なくなったウイグル難民の救援を主要な活動として行っています。

この春から夏にかけて、当会代表のイリハム・マハムティは、様々な善意の方々の匿名の寄付や、現地の人権活動家のご協力を得て、彼らウイグル難民と何度も対面してきました。しかし、過去にウイグル難民は何度も第三国で逮捕されて中国に強制送還された事例があり、彼らの生命の安全のためにこの情報を殆ど公開できないのが現状です。

ウイグル難民の中にもさまざまな考えの人がいます。しかし、根本的な問題は、中国では最早ウイグル人がウイグル人として生きていくことができないこと、自分が、家族が、子供たちが、自由に自分の民族の誇りと信仰を抱いて生きて行くために、彼らは様々な手段で国境を越えたということです。

彼らは第三国に於いては不法越境者として逮捕され収容されざるを得ません。そして彼らの生活費は、ある国では日本円にして1日当たり15円ほどしか与えられず、特に、罪もない子供達や妊婦が、不慣れな環境の中で健康を害しているものもいるのが現状なのです。

充分情報をお伝えできないのが心苦しいのですが、この難民たちの現状を何とか改善し、また彼らが希望する国に向かうことができるように、私たちは日本でできるだけの支援体制を取ろうと考えております。

景気もいまだ十分な回復の無い中、ご無礼なお願いとは重々承知しておりますが、なにとぞ、下記口座にウイグル難民へのご支援として、皆様の浄財をお願いいたします。

ウイグル難民救援基金(ウイグルナンミンキュウエンキキン)
ゆうちょ銀行 記号10040 番号37012681
他金融機関からの振り込みの受取口座は
店名〇〇八(ゼロゼロハチ)店番008 普通預金 口座3701268

日本ウイグル協会 代表 イリハム・マハムテイ

※この口座への入金はウイグル難民への支援にのみ限定して使わせていただきます。
 http://uyghur-j.org/japan/2014/10/uyghur_refugee/


 

本日 十月十日、(台湾総督府)始政四十年記念博覧会から七十九年

2014-10-10
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TaiwanShow1935
「始政四十年記念博覧会」ポスター

「始政四十年記念博覧会」(昭和10年(1935)10月10日~11月28日)とはどういったものであったのだろうか?

『台湾史小事典/増補改訂版』平成22年(2010)版/中国書店 には次のように簡潔な説明がなされている。

総督府が台湾統治40年の政治実績を広く宣伝するため、百万円を費やして挙行した大型博覧会。台湾総督府が全面的に後援し、総督の中川建蔵が博覧会総裁に、 政務長官の平塚広義が博覧会会長に就任した。昭和10年(1935)10月10日から11月28日まで、展覧の期間は50日だった。会場には台北市公会堂 (現在の中山堂)、台北市公園(現在の二二八記念公園)、大稲埕分場、草山温泉地(現在の陽明山温泉)等があてられた。陳列会場の施設には産業館、林業館、交通土木館、南方館等の直営館と満洲館、日本製鉄館、三井館、東京館、専売館等の特設館があった。戦後の初代行政長官になった陳儀も参観に訪れており、大変高い評価を与えていた。

なお「始政四十年記念博覧会」に関しては以下サイトが充実している。

台灣玉山之友「始政四十周年紀念臺灣博覽會畫帖」
http://tw01.org/group/Taiwaner/forum/topics/1970702:Topic:260106


1935年(昭和10)から40年前というと1895年(明治28)となる。
この年四月十七日、日清戦争の処理として下関条約(馬関条約)が日本と清国との間で締結され、清国は朝鮮独立の承認と遼東半島、台湾、澎湖諸島を日本に割譲した(なお遼東半島はドイツ、ロシア、フランスの三国干渉の結果、賠償金と交換に清国へ返還となった)。

しかし五月二十五日、清国官僚・唐景崧が総統就任式を行い、有力者(台湾士紳階層)の一部を糾合、年号を「永清」と定め台湾民主国を樹立、台湾の日本への割譲を拒むという事件が起きた。このため台湾を接収に来た日本代表・樺山資紀(5/10初代台湾総督を受任)は、六月二日清国代表・李経方と基隆港上の船上で台湾引渡しの手続きを行わざるおえなかった。これ以降台湾は清国から離脱して日本時代へと移行することになり、日台は昭和二十年の敗戦までの半世紀間、歴史を共にするのである。

翌六月三日、日本は軍艦29隻を以て基隆を攻略、台北城は大混乱に陥ったが、台湾民主国に戦意は無く、四日唐景崧総統及び閣僚は台北を脱出、淡水を経て廈門へ逃亡してしまった。六日、日本軍は基隆に上陸、七日台北城を占領し、ここに台湾民主国は崩壊する。五月二十三日の独立宣言から僅か14日目のことである。しかしその後も残党は、台南で抵抗を継続していた清国軍人・劉永福を第二代総統として四ヶ月ほど日本に対する抗戦を継続するが、十月十九日劉永福総統は英国船で大陸に逃亡しここに消滅した。明治二十八年六月十七日午後三時、台北の旧巡撫政庁に日章旗が掲揚された。この日が台湾総督府の始政日となった。

なおアジア最初の共和国(というにはやや大仰な)台湾民主国の壊滅後も、台湾住民による抗日蜂起や小規模な独立運動は多発しているが、土俗信仰に基づいた王朝創設運動といった前近代的なものも含まれており、いずれも小規模反乱の域を出ていない。

1896年(明治29)、雲林の人・柯鉄「天運元年」を定め抵抗を続ける
1897年(明治30)、嘉義で黄国鎮という人物を「皇帝」に擁立、「太靖」と改元
1912年(明治45)、嘉義住人・黄朝、神勅により「台湾国王」を自称、蜂起企図(土庫事件)
1913年(大正2)、 羅福星による共和国樹立運動(苗栗事件)
1914年(大正3)、 台南人・羅臭頭、「台湾皇帝」を称す(六甲事件)
1915年(大正4)、 余清芳、「皇帝」「大元帥」を称し「大明慈悲国」建国を企図(西来庵事件)

短期間に国王や皇帝即位を志向する者の多い事、日本史に稀有な興味深い現象に思える。

(下)羅福星生誕百年に発行された記念切手(1986年発行)、国民党は反日教育に利用していた。
羅福星


黄昭堂氏は台湾民主国について「十九世紀も終わりに近づいた一八九五年、東シナ海の孤島に忽然として誕生し、そしてまた忽然として消えさった台湾民主国、それはその儚さの故に神秘的であるというばかりではない。清国が依然として帝制のもとにさまよっていた時に、台湾が共和制に基づく独立国として出現したことは、台湾人のみならず、台湾史に興味をもつ人のびとの関心をひくにあまりある」として『台湾民主国の研究-台湾独立運動史の一断章-』昭和45年(1970)/280頁/東京大学出版会 を著している。四十年以上を経過した学術書ではあるが、五ヶ月で消滅した台湾民主国に関する基本文献として現在も重要な書である(表紙、青地に虎の意匠は俗に「黄虎旗」とされ台湾民主国国旗として制定されたもの。台湾ではこのデザインの丁シャツを着用した若者を独立派の集会などで目撃することがあるが、台湾民主国の「独立宣言」や「民主」「建国」のキーワードが現在の台湾民族主義者、独立派の琴線に触れる様である)。

台湾民主国 001


ところで本日十月十日は台湾では国慶日(雙十節)、つまり中華民国建国記念日とされている。
だがこれは史実として正しいことなのだろうか?

(1)1911年(明治44)10月10日=辛亥革命の端緒「武昌蜂起」勃発
(2)1912年(明治45)01月01日=中華民国元年開始

(3)1949年(昭和24)10月01日=中華人民共和国成立、12月08日国民党、国共内戦で敗北が決定的”台湾遷都”決定→12月10日蔣介石、台湾逃亡
(4)1952年(昭和27)04月28日=サンフランシスコ講和条約発効、日本は台湾及澎湖諸島に対する主権放棄

日本が台湾の主権を放棄したのは(4)の時点、(3)の国共内戦で共産党に敗れた国民党が台湾で「中華民国」を名乗っているのは僭称であり、「中華民国後継勢力 (亡命集団)」というのが実態であろうと思う。

国民党は台湾を拠点に大陸に「中華民国」の再建・復活を目指しただけであり、「建国103年」を祝うというのは、台湾を不法占拠した国民党が主張する虚構の「正統中国」の存在を宣伝することになりはしないか。そこには国民党のための中国史が有るだけである。国民党が主張する建国103年とは台湾に存在する中華民国体制フィクションのひとつである。武昌蜂起を台湾人の国慶日(建国記念日)とすることの不合理さに気付くのは容易だ。

にも関わらず、今年も東京(台北駐日経済文化代表処)や大阪(台北駐大阪経済文化弁事処)主催の国慶日祝賀会が開催され、東京では福田康夫元首相ら各界から1600人、大阪でも450人の親台湾、保守派を自認する日本人らが参加している。彼等は先ずは多くの台湾人が、この「建国記念日」に無関心であり、台湾を応援する日本人が、中華民国国慶日を祝うことに唖然としていることを知るべきだろう。


【以前の関連記事】

〇【記事】宜蘭県が日本統治時代年代に日本の年号使用提案
http://ilha-formosa.org/?p=11978

〇誰の為の「国慶節」なのか
http://ilha-formosa.org/?p=20756

〇「皇紀(紀元)」概念(平成二十六年=紀元二六七四年)は140年前と新しい
http://ilha-formosa.org/?p=31750


【告知協力】SAY NO CHINA 10/5 OSAKA SHOW YOUR FLAG!!!

2014-10-01
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say no China!

10月1日は中華人民共和国の国慶節です。休暇を利用して多数の中国人が大阪にも来るでしょう。

私たちはその週末10月5日に大阪で SAY NO CHINA! デモを開催します。

中国の横暴に怒っているのは日本人だけではありません。

在日外国人であるあなた達と共に SAY NO CHINA! の声を挙げたい。

私たち日本人は日の丸を手に、または応援したい国の国旗を手に歩きます。

あなたも故郷の国旗を手に、私たちのデモに参加しませんか?

様々な国の人たちが集まっても、歩きながら叫ぶ言葉はたったひとつ。

SAY NO CHINA!

それだけです。

それぞれの国旗を手に、世界からの抗議の声を中国共産党政府に叩きつけましょう!

SAY NO CHINA! 10.5 OSAKA 実行委員会事務局 ritatirapro@gmail.com担当:ABO


《デモ詳細》

【日程】平成26年(2014)10月5日(日)

【時間】[集合]12:30 [出発]13:30

【場所】集合場所:中之島公園女神像前広場(大阪市役所のうしろ)

【行程】中之島公園女神像前~御堂筋を南下し、浪速区の元町中公園で流れ解散

【参加予定】日本人・チベット人・南モンゴル人(順次、申し出あり次第追加します)

《facebook》https://www.facebook.com/events/683675678354782/


《注意事項》

(1)国旗以外にプラカード持込み歓迎。抗議する対象は基本的には『中国政府』とする。

人種差別・激しく暴力的ととられるような内容は不可/(例)「中国人を殺せ」「中国人を叩き出せ」は不可/「中国(漢)人は私たちの故郷から出ていけ」は可/「私の家族(友人)は中国人に殺された」は可など/*不明な時は実行委員会までお問合わせください

(2)団体で参加の際は、参加人数に関わらず“団体名ノボリ”掲示は1本に限定。

(3)各国ごとのバナー(横断幕)掲示は1枚に限定。サイズは120×300センチ以内。ただし1国で50名以上の参加者がある場合はバナー2枚、100名以上参加の際は3枚のバナー掲示可能。

(4)デモの際、各国ごとに隊列を組んで歩くこと。列が乱れればデモ中止になります。
*参加人数5名以下の国は他国民との混合隊列になります。

(5)事前に許可した以外の鳴り物は禁止。

(6)特に日本人はいわゆる“右翼的”な服装での参加はご遠慮ください。

(7)民族衣装での参加は歓迎します。

(8)デモ参加者同士で喧嘩しないこと。

(9)警備にあたる警察官の誘導に従うこと。

(10)その他、主催者の指示に従ってください。


 

『田母神戦争大学』出版記念パーティー&太陽の党【9月25日、於 明治記念館】

2014-09-29
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この日のパーティーは『田母神戦争大学』(閣下の50冊目の著書)の出版記念パーティーのはずが、タイミング良く同日「太陽の党」発足と重なり二重の喜びに会場は熱気に包まれていました。

西村眞悟先生とタッグを組まれた事は、私達にとってはなんとも心強い党の誕生な訳ですが、殆どの国民にとっては「とんでもない危険な政党 」としか映らないかも知れません。

私達の仕事はこの大多数の世論とそれを煽るマスコミから、登り始めたばかりの太陽を沈ませないように戦って行くことなんじゃないかと、決意を新たにした1日でした。

太陽の党 公式サイトhttp://www.taiyounotou.jp/


田母神氏、西村眞悟氏が「太陽の党」結成を発表(産経ニュース/2014.9.25 14:31)

元航空幕僚長の田母神俊雄氏と西村真悟衆院議員(無所属)は25日午後、国会内で記者会見を開き、新党「太陽の党」の結成を表明した。西村氏が代表、田母神氏は代表幹事兼国民運動本部長にそれぞれ就いた。当面、国会議員は西村氏1人だが、次期国政選で党勢拡大を狙う。会見には次世代の党の石原慎太郎最高顧問も同席した。

新党は石原氏が代表を務めていた「太陽の党」を継承する形で運営する。主要政策としては、(1)憲法廃棄と自主憲 法制定(2)国軍の創設、拉致被害者の救出(3)真の歴史観主張と日本の名誉回復(4)家族の復活、移民受け入れ反対、外国人参政権反対(5)原発再稼 働、消費税10%凍結、相続税廃止-を掲げた。

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[照片](左→右)
田母神俊雄(Tamogami Toshio),西村眞悟(Nishimura Shingo)眾議院議員,石原慎太郎(Ishihara Shintarou)次世代黨最高顧問

25日下午,日本知名右派大老,前航空自衛隊幕僚長(參謀長)田母神俊雄(Tamogami Toshio)與西村眞悟(Nishimura Shingo)眾議院議員(無黨派)在國會內召開記者招待會,表明了石原新黨「太陽黨」繼承。主要政策(1)美國製「日本國憲法」廢棄與自主憲法制定 (2)創設日本國軍,救出被北韓綁架的日本人(3)主張真正的歷史観與恢復日本國名譽(4)復活家庭團體,反對接受外國移民,反對外國人在日本參政(5) 重啟核電站,凍結消費税増至10%,廃除繼承税。次世代黨與太陽黨的政治理念很好地相似。因此將來次世代黨(國會議員數23名/平沼赳夫 (Hiranuma Takeo),石原慎太郎(Ishihara Shintarou)們)與合作還是合併嗎?以前西村議員在大阪難波演說了「國民黨政權是反日勢力」,他是日本國會議員非常稀少台灣通。次世代黨比自民黨 日本本土派政黨,因此次世代黨與太陽黨相似台聯的立場(可是核電站問題不同)


お疲れのところ写真撮影に応じて下さった眞悟先生と田母神閣下

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田母神俊雄(太陽の党代表幹事兼国民運動本部長)  西村眞悟 太陽の党 代表

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(左)玉田真美子さん


【訃報】松井 光彦(Matsui Mitsuhiko) 本会副代表

2014-09-23
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22日午前5時7分、本会副代表・松井光彦氏は食道癌のため逝去されました。享年五十七歳。
ここに謹んで御冥福をお祈り致します。

御家族の御希望により家族葬となるとのことです。


昭和32年生まれの松井氏は年齢よりも遥かに若かった。

その青年のような風貌だけではなく、精神や行動が若々しかったからだ。

年齢を重ねる毎、人は夢や理想から少しづつ遠ざかっていく。現実に妥協し、それを良しとする。多くの人はそうだ。しかし彼は違っていた。松井光彦は即断即決の行動家であり、独立心旺盛、そして世の横暴、不正や理不尽さを憎むこと、青年の様な瑞々しい精神があった。

彼との出会いは、北京オリンピックの為に行われた平成二十年四月中国共産党政府の「長野聖火リレー」に対する抗議運動であった。翌五月、胡錦濤中国国家主席来日に際しては日比谷公園前で共に抗議活動を行っている。彼を突き動かしたのはチベット、ウイグル人といった立場の弱い少数民族に対する思い遣りと中国共産党の暴力に対する怒りであった(*)。その後、関西で自然と行動を共にしていくうち、台湾独立運動への関心を共有していることに気付き、彼とともに平成二十二年(2010)一月に台灣建國應援團を結成した。

結成翌月、第一回訪台。松井さんが計画や準備をすべて担当した。彼は集中力があり、事務能力が高く、何より行動が迅速だった。彼の発案で2月27日に「二二八事件六十三周年追悼デモ行進」に参加。黄昭堂台湾独立建国連盟主席や蔡英文民進党主席らとお会いする事が出来た。翌日は龍山寺前の「二二八事件追悼行事」に参加。大規模な式典であったが、王獻極台湾国運動総会長の御好意により、松井さんが日本人の立場から台湾独立への応援演説を行っている。彼の演説の特徴は情緒を排除した理知的なものであった。それでも聴衆から大きな歓声と拍手が上がった、これこそが松井さんの真骨頂であった。その後台北駅前で「日本支持台湾独立建国」の横断幕を掲げるアピールを行った時は、幾度か在台中国人らから妨害に遭遇した。しかし松井さんはその様子を面白がってビデオカメラで記録していたものだ。台湾滞在中は朝早くから台北市内を散策していた。彼は何もしないのが苦痛かのように精力的であった。また何より台湾の古い街並みや台湾料理が大好きだった。台湾での彼との想い出は尽きる事がない。

居を関西から名古屋に移した後は、音楽活動にも没頭して、2012年1月の総統選挙前には台湾を応援する楽曲『Beautiful Formosa』を提供してくれた(なお当時、台灣建國應援團は総統選挙の現地視察のために会員を派遣しており、それだけに蔡英文氏敗北には大変失望したものだ)。それでも彼は「台湾独立はいずれ成就されるよ」「総統府に台湾旗が掲揚されるのを見たいね」と穏やかに語っていた。

幽明境を異にして、台湾の将来について彼と話すことは叶わない。だがそういった感傷と最も無縁な男であったのが松井光彦だった。困難を前にした時、自己憐憫に浸る様な事はなく、常に解決策を見出すために尽力する。そういう物事に対する前向きさを彼には常に感じた。

早すぎる死は悲しく残念でならない。
だが我々は、彼との別れを受け入れなければならない。別離の寂しさを乗り越え、彼のためにも明朗とした心持ちでいたい。

俯(ウツム)いたままの姿勢でいるというのは、奮闘家・松井光彦が最も望まないものなのだから。
あなたの念願であった台湾建国の意志を引き継いでいきたい。

感謝 松井さん
再見 松井光彦

a1428312311_45  松井光彦さん 2011年7月31日
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平成22年(2010) 2/28 龍山寺前で台湾独立への応援演説を行う松井副代表(中央)

松井さん
平成22年(2010) 11/20
頑張れ日本!全国行動委員会主催『中国の尖閣諸島侵略糾弾!全国国民統一行動 in 大阪』
第五梯団を統率した松井光彦氏

(*)松井光彦氏の平成20年(2008)頃のYahoo! blog『日台友好!加油!台湾』
http://blogs.yahoo.co.jp/licorice_kanzou

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松井光彦(1957-2014)


(本項、田邊憲司 記)


 

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